第七十八話 忍び【一般公開版】
深夜、館は静まり返っていた。谷底では夜になっても遠くから巨大生物の鳴き声が聞こえることがあるが、今夜はそれすらなく、窓の外から聞こえるのは水路を流れる水と、ときおり木々を揺らす風だけだった。
クロエは眠っていた。普段なら、眠っていても周囲への警戒を完全には切らない。物音、振動、魔力、空気の流れ、人の気配。忍びとして生きてきた時間の方が圧倒的に長く、安全な寝床に横たわっているからといって、身体に染みついたものまで消えるわけではなかった。
だから、気づいた。
誰かいる。
クロエの目が開く。視界のすぐ上に、忍装束をまとった紫髪の女がいた。アスラが、今まさに自分へ馬乗りになろうとしている。
「――貴様!」
クロエは反射的に動こうとした。だが、遅かった。
きん、と小さな金属音が響いた次の瞬間、四方から伸びた細い糸が一斉に張った。両腕、両脚、胴へ絡んだ金属糸がクロエの身体を寝台から引き上げ、そのまま室内中央へ吊るしてしまう。
「なっ……!」
クロエは宙吊りのままアスラを睨んだ。アスラは悠々と寝台から降り、勝ち誇ったように笑う。
「ここの緩さに、ずいぶん油断していたようだな」
「アスラ……!」
「いい寝顔だったぞ。緊張感の欠片もない。忍びとも思えん」
「くっ、卑怯な!」
「寝込みを襲われた程度で卑怯とは、随分と温くなったものだ」
アスラはクロエの周囲をゆっくり歩く。
「聖者の館は安全だ。エヴァもいる。シズクもいる。飯は出る。風呂もある。寝ている間に首を掻かれる心配もない。随分と居心地が良かったらしいな」
「何が言いたい」
アスラは足を止め、クロエを見上げた。
「私は貴様を殺すことを諦めたわけではないぞ」
クロエの目が細くなる。
「それはこちらの台詞だ」
二人の間では、谷底へ来るより遥か以前から続いているやり取りだった。殺す、殺される、負けを認めろ、お前が先だ。そう言いながら何度も争い、何度も共同で任務へ入り、何度も互いの命を拾ってきた。
そして、それとは別に、二人にはもう一つ長年続いている妙な勝負があった。
対拷問訓練。
捕らえられた状態から、尋問と魔術干渉にどこまで耐え、どう逆転するか。二人の世界では成人した忍びの必修だった。そして、この二人だけは、それを勝敗のつかない私闘に変えていた。
アスラの指が動く。
金属糸がさらに張り、クロエの身体を締め上げる。
「今夜は貴様が捕虜役だ」
「勝手に決めるな」
「寝込みを取られた者に発言権があると思うか?」
アスラの周囲へ紫色の魔法陣が浮かんだ。視覚。聴覚。平衡感覚。時間認識。捕虜の意識を混乱させるための術式が、幾重にも重なる。
クロエの目の前で部屋が傾いた。
床が壁になる。天井が落ちてくる。アスラが三人に増え、それぞれ別の言葉を囁く。
「降伏しろ」
「貴様が先だ」
「まだ始めたばかりだぞ」
「なら、もう終わりだ」
クロエの首筋で小さな金属音がした。
アスラの笑みが止まる。
「何を繋いだ?」
「気づくのが遅い」
クロエは生身の忍者ではない。両手足を封じられても、神経接続用の端子は残っている。
細い接続線が金属糸を伝い、アスラの魔術式へ潜り込んでいた。
「返すぞ」
「待て」
アスラが術式を切ろうとする。
遅い。
クロエが受けていた混乱が、強度を増して逆流した。
アスラの視界も回る。床が消え、天井が裂け、クロエが十人に増えた。
「感覚倍率、十万倍」
「十万は訓練ではない!」
「先ほど聞いたな、その言葉」
「待て、クロエ!」
「形勢逆転だ」
アスラの魔法陣が暴れ、金属糸がほどける。
クロエは床へ落ちる直前に受け身を取り、そのままアスラの足を払った。
二人は床を転がる。
肘。膝。拘束。脱出。再拘束。
家具を壊さないよう妙に器用に争いながら、最後には互いの喉元へ刃を突きつけた。
沈黙。
「引き分けだな」
「貴様が先に寝込みを襲った」
「それも訓練のうちだ」
「なら、私の反撃も訓練だ」
「十万倍はやりすぎだ!」
「油断した方が悪い」
そこから、また争いになった。
翌朝。
二人は露天風呂へ並んで沈んでいた。
クロエの頬には薄い切り傷。アスラの額には大きなたんこぶ。
朝日が谷底へ差し込み、湯面から白い湯気が上がる。
「あー……」
クロエが肩まで沈む。
「あー……」
アスラも沈む。
しばらくして、アスラが満足そうに言った。
「久しぶりの対拷問訓練は滾ったな」
クロエは少し考え、素直に頷いた。
「ああ。分かる」
「だろう?」
「時々しないと、腕が鈍る」
「最近、何か足りないと思っていたんだ」
「谷底が平和すぎたな」
「怪獣はいるがな」
「植物も逃げる」
「牛乳でも死ねる」
「それでも、こういうのとは違う」
「違うんだよな」
二人は揃って遠くを見る。
朝日。森。湯気。川。
その向こうでは、巨大生物の影がゆっくり歩いていた。
そして二人同時に言った。
「対拷問訓練の後の露天風呂は気持ちいい」
背後からリーゼの声がした。
「まず壊した床を直せ!」




