第七十七話 卵を穫りに
朝食の支度をしていたシズクが、籠の中から白い楕円形のものを取り出した。
こつん、と卓へ置く。
どう見ても卵だった。
リーゼは一度だけ見た。
白い殻。
卵形。
大きさも、少し立派ではあるが、常識の範囲に収まっている。
「卵か」
「はい。今日はこれを使おうかと」
「そうか」
それで終わった。
以前のリーゼなら、谷底で何かを見せられた時点で警戒していた。
本当に鶏の卵なのか。
鶏はどこにいるのか。
巨大な鶏が出てこないか。
卵から何か別のものが孵らないか。
そういう確認をした。
今はしなかった。
どう見ても卵だった。
そして時折、館の向こうの林から、
「コケッ」
と鶏らしい声が聞こえている。
なら鶏がいるのだろう。
魔獣かもしれない。
巨大かもしれない。
飛ぶかもしれない。
人を食うかもしれない。
だが、もう疲れた。
リーゼは湯気の立つ茶を飲んだ。
「食えるならそれでいい」
シズクが少し困った顔をした。
「それがですね」
「何だ」
「卵ではないそうです」
リーゼは止まった。
もう一度、卓上の白いものを見る。
「……どう見ても卵だぞ」
「私もそう思います」
シズクが殻を割った。
ぱかっ。
透明な部分。
中央に丸い黄色。
どう見ても卵だった。
リーゼはしばらく見た。
「卵だろ」
「樹の実です」
ノアが答えた。
リーゼはノアを見る。
「聖者」
「うん」
「今日は小官をからかっているのか?」
「本当に木になるんだ」
リーゼは卵を見る。
ノアを見る。
また卵を見る。
「……そうか」
「驚かないの?」
「もういい」
リーゼは茶を飲んだ。
「木だろうが鶏だろうが、焼いたら卵なら卵でいい」
ティセラが訂正する。
「正確には、卵に極めて似た構造と調理特性を持つ果実です」
「教授」
「はい」
「今日はその正確さはいらん」
ティセラは少し不満そうだった。
その実には、一つ大きな利点があった。
保存が利く。
普通の卵よりずっと長い。
樹から採った直後は硬い殻に包まれ、割らない限り内部はほとんど変質しない。涼しい場所ならかなり長期間保存できるため、館では籠へ入れて備蓄していた。
「便利だな」
クロエが一つ手に取った。
「携帯食にもなる」
アスラも殻を軽く叩く。
「割れにくいのもいい」
リーゼは頷いた。
「そこだけ聞けば非常に優秀な食料だ」
シズクが焼いてみる。
じゅう。
白い部分が固まる。
黄色い部分は丸いまま残る。
皿へ載せる。
目玉焼きだった。
誰が何と言おうと目玉焼きだった。
リーゼは食べる。
味もほとんど卵。
「卵だ」
ティセラが言う。
「果実です」
「卵だ」
「分類上は――」
「食卓では卵だ!」
アスラが笑った。
「分類など食えれば何でもいいだろう」
珍しくリーゼと意見が一致した。
クロエも茹でたものを一つ剥いている。
殻が取れる。
白い。
切る。
中は黄色い。
ゆで卵だった。
「これは懐かしいな」
クロエが言った。
アスラも覗き込む。
「そういえば、成人忍者の訓練で似たものを使ったことがあったな」
リーゼは嫌な予感がした。
「何の訓練だ」
「エロ拷問」
「聞かなければよかった」
クロエはゆで卵を見ながら、妙に懐かしそうだった。
「卵を産ませる種類があった」
アスラが頷く。
「あったな」
「私はかなりの数を産んだぞ」
「いや。あの訓練はサイズが重要だ。ダチョウサイズを産み落とす事の困難さよ」
クロエがアスラを見る。
「私の勝ちだ」
「私だな」
「うずらの卵を幾ら産み落としたところで」
「サイズがあっても数がなければ」
「記録をだせ!」
リーゼが卓へ額をつけた。
「何故そんな記録だけしっかりしているんだ……」
話はそこで終わらなかった。
クロエが半分に切ったゆで卵を見て、思い出したように言う。
「その後、茹でたものを使う訓練もあった」
アスラが即座に反応した。
「あれなら私の勝ちだ。サイズは同じ。以下にリズミカルに早くひねり出すか、腕が試される」
「何が?」
リーゼは聞きたくない。
しかし聞いてしまった。
アスラは胸を張る。
「こう、腸の中から出ていくゆで卵の感触」
クロエが否定する。
「いや。そうじゃないだろ。どれだけ入れたままで居れるかであって、あと尻でなく股だろ?」
「数が入らんだろ」
「数でなく時間だろ」
「数の話をしている」
「なら条件を統一しろ」
「何の勝負をしているんだ貴様らは!」
リーゼが顔を上げた。
クロエとアスラが同時に見る。
「訓練成績」
「訓練成績だな」
「そんな項目で張り合うな!」
シズクは料理を続けながら、もう二人の話を普通に聞き流していた。
谷底で暮らしていると、聞き流す能力だけは着実に成長する。
ティセラだけは興味を示した。
「その卵は生物由来ですか、それとも魔術的に――」
「教授まで入るな!」
リーゼが止めた。
「今は朝食だ!」
アスラが笑う。
「大尉は意外と繊細だな」
「朝食でエロ拷問の成績発表を始める貴様らが鈍感なんだ!」
クロエはゆで卵を一口食べた。
「美味い」
アスラも食べる。
「普通の卵だな」
「樹の実です」
ティセラが訂正した。
リーゼはもう何も言わなかった。
食後。
備蓄が少なくなっているということで、卵を採りに行くことになった。
リーゼも同行した。
どうせ近くだろうと思ったからだ。
それに。
朝から聞こえている。
「コケッ」
少し間を置いて。
「コケ、コケッ」
鶏だ。
少なくとも音だけなら。
リーゼは林の中を歩きながら言った。
「普通の大きさなら文句は言わん」
エヴァが振り返る。
「何が?」
「鶏だ」
「鶏?」
「さっきから鳴いているだろう」
エヴァが少し考える。
「ああ」
その「ああ」が嫌だった。
リーゼは止まった。
「何だ」
「見れば分かる」
「その言葉を使うな!」
だが、すぐに目的地へ着いた。
木だった。
リーゼは黙った。
高さはそれほど異常ではない。
少なくとも谷底基準なら、ごく普通の木に見える。
太い幹。
枝。
濃い葉。
そして枝から、白や薄茶色の楕円形の実がぶら下がっている。
卵だった。
どう見ても。
風が吹いた。
葉が揺れる。
「コケッ」
リーゼが木を見る。
また風。
葉の間を抜ける。
「コケ! コケッ!」
沈黙。
クロエが言う。
「これか」
アスラも見上げる。
「鶏の声は」
ノアが頷く。
「葉と枝の一部が空洞になってるみたいで、風が通ると音がするんだ」
ティセラが幹へ近づく。
「形状から見るに、複数の空洞が異なる音程を――」
リーゼは手を上げた。
「教授、説明はいらん」
「ですが」
「仕組みを知っても、木がコケコケ鳴いている事実は変わらん」
「それはそうですが」
リーゼは木を見上げた。
風。
「コケッ」
別の枝。
「コケコケッ」
向こうの木まで鳴く。
「コケ!」
林の中のあちこちから鶏の鳴き声がする。
鶏は一羽もいない。
リーゼは長く息を吐いた。
「……もういい」
シズクが聞く。
「驚かないのですか?」
「どう見ても卵がなっている。鶏の声もする。食えば卵。保存も利く」
「はい」
「なら、そういう木なんだろう」
「受け入れましたね」
「疲れたんだ!」
採集そのものは簡単だった。
熟した実を選び、枝から外す。
落とさないよう籠へ入れる。
硬い殻のおかげで多少ぶつかっても割れない。
シズクとクロエが下の枝。
アスラが高い枝。
エヴァは枝そのものを引き寄せる。
「折るなよ」
ノアが言う。
「分かってる」
ティセラは実の成熟度を調べながら採集する。
リーゼも一つ取った。
手の中で見る。
卵。
「……果実なんだよな」
「はい」
ティセラが答える。
「卵じゃないんだよな」
「はい」
近くの葉が、
「コケッ」
と鳴いた。
リーゼは実を籠へ入れた。
「卵でいい」
誰も反論しなかった。
ティセラ以外は。
翌朝。
まだ空が完全に明るくなる前。
リーゼは布団の中で眠っていた。
静かな時間だった。
谷底にも朝は来る。
そして朝方になると、谷底の大きな壁と水場の温度差で、一定方向から風が流れ始める。
最初は弱く。
やがて少し強く。
その風が林へ入った。
葉が揺れる。
一つ目の空洞を抜ける。
「コ」
次。
「ケ」
さらに枝。
「ケッ」
太い枝の空洞から、細い枝へ。
複数の音が連続する。
最後に、幹に近い大きな空洞へ風が抜けた。
「コケケッコォォォォォー!」
リーゼの目が開いた。
布団の中で固まる。
外では、朝の風が吹いている。
もう一度。
「コケケッコォォォォォー!」
リーゼはゆっくり起き上がった。
隣ではシズクも目を覚ましている。
「おはようございます」
「……シズク」
「はい」
「昨日の木だな」
「はい」
「朝になると、ああ鳴くのか」
「そうみたいですね」
リーゼはしばらく黙った。
外を見る。
朝日。
林。
風。
そして。
「コケケッコォォォォォー!」
リーゼは再び布団へ横になった。
「……もう寝る」
シズクが笑う。
「朝ですよ」
「知っている」
「木も教えてくれています」
「それが腹立たしいんだ……」
翌日も。
その翌日も。
朝になると、鶏の木は鳴いた。
鶏は一羽もいなかった。




