第七十四話 牛乳を取りに
「今日は乳を取りに行くぞ」
朝食の後、リーゼがそう言った。
クロエが顔を上げる。
「乳?」
「ああ。牛乳だ」
アスラも聞く。
「牛を飼っているのか?」
「飼っていない」
「では、どこから取る?」
リーゼは少し胸を張った。
「野生の乳牛だ」
クロエとアスラが顔を見合わせる。エヴァは既に荷物をまとめ始めていた。
「ちょうど水を飲みに来る頃だな」
「ああ。今日は小官が指揮する」
リーゼは二人の忍者を見た。
「新兵共。谷底での食料調達というものを教えてやる」
クロエの眉が動く。
「新兵?」
アスラも笑った。
「私たちに言っているのか?」
「谷底では新兵だろう!」
今回は自信があった。
リーゼは以前、エヴァと一緒に乳を取りに行っている。何をすればいいかも、何をすると死ぬかも知っていた。
巨大芋虫を初めて見た時とは違う。
今日は経験者だった。
「いいか。乳が欲しいからといって、牛へ近づいて直接搾ろうなどと考えるな」
クロエが聞く。
「何故?」
「死ぬ」
「牛に襲われて?」
「違う」
アスラが首を傾げる。
「では?」
リーゼは真顔で答えた。
「乳で死ぬ」
二人が黙った。
エヴァが笑う。
「行けば分かる」
リーゼの顔が引きつった。
「その言葉を小官以外が使うな!」
館を出てしばらくは、リーゼが先頭を歩いた。
持ってきたのは金属製の樽、蓋、シャベル、縄、濾過用の布、それに回収した樽を運ぶための道具だ。
エヴァだけは、大きな金属樽をいくつもまとめて担いでいる。
「エヴァ、それは一人分ではない」
「持てるからいいだろ」
「分担には意味がある!」
クロエとアスラも、それぞれ荷を持って歩いていた。
リーゼが振り返る。
「遅れるなよ、新兵共!」
「誰が遅れる?」
クロエが軽く地面を蹴った。
一気に前へ出る。
アスラも魔術を使って岩場を越えた。
エヴァは普通に走って二人についていった。
リーゼだけが取り残された。
「待て!」
三人が遠くなる。
「小官が指揮官だぞ!」
さらに遠くなる。
「ちくしょー! 置いてくなー!」
しばらくして、三人は先で待っていた。
リーゼが息を切らせながら追いつく。
エヴァが笑った。
「遅かったな、教官殿」
「小官はお前らほどおかしな身体能力をしていないんだ!」
クロエが言う。
「私は普通に移動しただけだが」
「壁を走る奴の普通を持ち込むな!」
アスラも首を傾げる。
「魔術も使っていないぞ。少しだけだ」
「少し使った時点で小官と条件が違う!」
リーゼは荒い息を整えた。
「……いいか。作戦地域へ入ったら、本当に勝手に先行するな。今度は洒落にならんからな」
その声だけは完全に軍人へ戻っていた。
三人も今度は素直に頷いた。
水場が近づくと、地面の様子が変わった。
泥。
巨大な足跡。
踏み潰された低木。
人間なら丸ごと入れそうな蹄跡まである。
リーゼは足を止めた。
「ここから作戦地域だ」
クロエが周囲を見る。
「対象は?」
「まだ来ていない。だから今のうちに準備する」
リーゼは地面へいくつか印を付けた。
「前回の足跡を見る限り、母牛が水を飲む位置はこの辺りだ。子供はその横へつく」
アスラが理解した。
「子供が乳を飲む時に、こぼれる分を取るのか」
「ああ。母牛から奪う必要はない。こぼれるだけで十分な量がある」
クロエが地面を見る。
「どこへ樽を置く?」
「置かない。埋める」
リーゼは母牛の予想位置、子牛の立ち位置、地面の傾きを何度も確認した。
「前回はこの辺りだった。今回は水場が少し削れているから、落下点もずれる。エヴァ、ここと、ここと、その右を掘るぞ」
「了解」
四人で穴を掘る。
金属製の樽を地面へ埋め、口だけを地表へ出した。
その上には粗い網を載せ、泥や草の塊が直接入るのを少しでも防ぐ。
アスラが樽を見た。
「何故、金属製なんだ?」
リーゼが答える。
「木桶では壊れる可能性がある」
「乳で?」
「ああ」
クロエが止まる。
「液体だろう?」
「高いところから、大量に落ちてくる液体だ」
エヴァが言った。
「だから真下に立つなよ」
リーゼが二人を見る。
「これは冗談ではない。予測落下地点には、樽以外置かない。設置したら離れる。牛が完全にいなくなるまで絶対に戻らない」
クロエとアスラが頷いた。
「了解」
「分かった」
リーゼは少し満足そうだった。
「よろしい。新兵共、覚えがいいな」
「さっき置いていかれていたが」
「それとこれは別だ!」
四人は大きな岩の陰へ移動した。
あとは待つだけだった。
しばらくして、遠くから低い鳴き声が聞こえた。
「もー」
クロエが顔を上げる。
もう一度。
「もおおおおおー」
今度は地面まで震えた。
リーゼの顔が変わる。
「牛が来た。伏せろ」
四人が姿勢を低くした。
木々の向こうから、巨大な頭が現れた。
クロエが黙った。
次に肩。
胴。
脚。
牛だった。
形だけは。
ただし、いつもの谷底だった。
怪獣の大きさだった。
アスラが小声で言う。
「これを乳牛と呼ぶのか」
「乳が出る牛だからな」
リーゼが答える。
その横には、さらに一頭。
母牛よりは小さい。
それでも人間から見れば十分すぎるほど巨大だった。
「子供?」
クロエが聞く。
「子牛だ」
「どこが子供だ」
「母親より小さいだろう」
エヴァが言う。
アスラがぼやく。
「谷底の大きさの判断基準は信用できんな」
母牛が水場へ近づく。
頭を下げた。
ごぼっ。
ごぼごぼっ。
水を飲む。
水面そのものが大きく揺れた。
クロエが呟く。
「飲む量もおかしい」
リーゼは小声で言う。
「まだだ」
子牛が母牛の腹の下へ入る。
乳を飲み始めた。
そして。
どばっ。
白いものが落ちた。
地面が弾ける。
クロエとアスラが固まった。
また。
どばっ。
高いところから大量の乳が落ち、泥を吹き飛ばす。
一部が、埋めてある樽へ入った。
どんっ!
金属が低く鳴った。
アスラがゆっくりリーゼを見る。
「……あれを人が受けると?」
「死ぬ」
「納得した」
クロエも頷く。
「樽を埋める理由も理解した」
リーゼは少し得意そうだった。
「だから経験者の指示には従えと言っただろう」
エヴァが笑いながら言う。
「前回、お前もう少し近くで見ようとしてたけどな」
リーゼがエヴァを見る。
「余計なことを言うな」
「俺が引っ張ってなかったら危なかったぞ」
「今は分かっている!」
母牛の耳が動いた。
四人が一斉に黙る。
乳を飲み終えた子牛が母牛の横へ戻った。
母牛も水場から離れる。
二頭はゆっくり歩き始めた。
一歩ごとに地面が揺れる。
やがて木々の向こうへ姿が消えた。
クロエが身を起こしかける。
「行くか?」
「まだ」
リーゼが止める。
「戻ることがある」
アスラが感心したように見る。
「そこまで確認済みなのか」
リーゼが少し胸を張った。
「経験者だからな」
エヴァが言う。
「前回すぐ出ていこうとして、また俺に止められたけどな」
「貴様は今日ずっと黙っていろ!」
さらに待った。
完全に気配が消えてから、リーゼが立ち上がる。
「よし。回収する」
埋めた樽のうち、三つにはかなりの乳が入っていた。
一つはほとんど外れている。
別の一つには泥も多く入っていた。
「上出来だな」
エヴァが言う。
リーゼはすぐに蓋を持ってきた。
「先に閉じる。ここで中身をいじるな」
樽へしっかり蓋をしてから、周囲の土を掘る。
エヴァが一本を軽々持ち上げた。
クロエとアスラも手伝う。
リーゼは一番軽いものを担当した。
アスラが中身を見ようとする。
「館へ戻ったらどうする?」
「まず濾過する。粗い布から始めて、何段か通す。泥、草、虫、何が入っているか分からないからな。その後、煮沸する」
クロエが言う。
「そのまま飲まないのか」
リーゼが呆れた顔をした。
「野生動物から地面へこぼれた乳だぞ!」
アスラが頷く。
「そこは普通なのだな」
「谷底でも腹は壊す!」
エヴァは大きな樽を担いだまま機嫌が良かった。
「これだけありゃ、しばらく使えるな」
「無駄にするなよ。次に来るのも大変なんだからな」
「チーズも作れるな」
「聖者が喜びそうだ」
そこまでは、予定通りだった。
帰り道。
エヴァが突然言った。
「肉が食いたい」
リーゼの顔が露骨に曇った。
クロエが見る。
「何だ、その顔は」
「嫌な予感がする」
アスラが聞く。
「館に肉はないのか?」
「ある。でも新しいのが食いたい」
エヴァが周囲を見回した。
「この辺、子ブタがいるんだよ」
リーゼはすぐに言った。
「帰るぞ」
「子ブタだぞ」
「その言葉を信用しない」
クロエがエヴァを見る。
「大きいのか?」
エヴァは少し考えた。
「小さい」
リーゼが二人へ向き直る。
「待て。今のを聞いて行く気になっただろう」
アスラが言う。
「子ブタなら大丈夫では?」
クロエも頷く。
「乳牛より小さいなら問題は少ないだろう」
リーゼは額を押さえた。
「小官も、谷底へ来たばかりならそう思った」
少し先で。
ぶひっ。
低い鳴き声がした。
草むらが動く。
一頭の豚が出てきた。
アスラが止まる。
クロエも止まる。
高さは、およそ三メートル。
エヴァが笑った。
「ほら、子ブタ」
アスラがゆっくり顔を向ける。
「三メートルくらいあるぞ」
「そのくらいだな」
「小さくない」
クロエが言った。
リーゼは深く息を吐いた。
「黒を思い出せ」
二人が止まる。
エヴァの軍馬。
以前聞いた話では、聖者を二人縦に並べたくらいの高さ。
四メートル級。
草も肉も食い、状況によっては人間も食う。
クロエが三メートルの豚を見る。
それからエヴァを見る。
「……黒より小さい」
アスラも頷いた。
「確かに小さいな」
リーゼが叫んだ。
「納得するな!」
エヴァは得意そうだった。
「だから子ブタだろ」
リーゼは頭を抱える。
「忘れていた! 谷底標準だけじゃない! こいつの世紀末覇王標準でも小さいんだ!」
そして、一頭ではなかった。
ぶひっ。
ぶひっ。
ぶひいいっ!
草むらから次々と現れる。
三メートル級の豚の群れ。
クロエが太刀へ手を伸ばす。
アスラも鉤爪を出した。
リーゼが二人を見る。
「何故やる気になっている!」
クロエが答える。
「肉は必要だろう」
アスラも言う。
「さっきの牛よりはずっと小さい」
「比較対象がおかしくなっている!」
エヴァが拳を鳴らした。
「今日はトンカツだ!」
豚の群れがこちらを向く。
ぶひいいいいっ!
地面を蹴った。
リーゼの顔が変わる。
「来るぞ! 頭を下げた奴の正面に立つな! 突進が始まったら横へ抜けろ! 後ろの個体まで見ろ!」
一頭が突っ込んでくる。
アスラが横へ飛ぶ。
クロエは木を蹴って頭上へ逃げ、そのまま豚の背へ降りた。
エヴァだけは正面に立った。
「エヴァ! 貴様は避けろ!」
「このくらいなら平気だ!」
「貴様の平気を基準にするな!」
巨大な豚がエヴァへ突っ込む。
どおんっ!
エヴァが両手で頭を受け止めた。
足元の地面が抉れる。
それでも動かない。
「いい肉ついてるな!」
「肉質を見るのは仕留めてからにしろ!」
別の一頭が横から来る。
リーゼが叫ぶ。
「アスラ、右! クロエ、今いる一頭を先に仕留めろ! 群れの中央へ入るな!」
アスラの魔法陣が地面へ広がる。
突進してきた豚の足元が崩れ、巨体が傾いた。
そこへクロエが回り込む。
エヴァは正面の一頭を押し返した。
リーゼは戦場の外側を走りながら、豚の向きと仲間の位置を見続ける。
自分だけは真正面から受けない。
受けられない。
その代わり、全体を見る。
「次、左から二頭!」
クロエが飛ぶ。
アスラも退く。
エヴァだけが笑う。
「まとめて来い!」
「まとめるな!」
リーゼが叫ぶ。
地面が揺れる。
土が飛ぶ。
三メートル級の豚が何頭も走り回る。
その中央で、クロエとアスラとエヴァだけが異様に動ける。
そしていつものように。
リーゼだけがついていけない。
「速いんだよ、お前ら!」
クロエが頭上を飛ぶ。
アスラが魔法で横を抜ける。
エヴァが豚を投げる。
「ちくしょー! 戦闘中まで置いてくなー!」
「指示は聞いてるぞ!」
クロエが答える。
「そういう問題じゃない!」
リーゼは走りながら叫んだ。
やがて、豚の群れは動かなくなった。
クロエが太刀を拭う。
「牛よりは楽だったな」
アスラも鉤爪を収める。
「大きさも、まだ常識的だった」
リーゼが二人を見る。
「今、三メートルの豚を常識的と言ったな?」
二人が止まった。
少し考える。
クロエが言う。
「……谷底に慣れてきたかもしれない」
アスラも真顔で頷いた。
「良くない傾向だな」
リーゼが両手を広げる。
「やっと気づいたか!」
エヴァだけは上機嫌だった。
倒した豚を集め始める。
一頭。
二頭。
三頭。
さらに重ねる。
リーゼが見ているうちに、巨大な豚の山ができた。
「全部持って帰るのか?」
「ああ」
「どうやって?」
エヴァは豚の山を持ち上げた。
リーゼが黙る。
三メートル級の豚が何頭も重なり、その下からエヴァの脚だけが見えている。
「……前、見えてるのか?」
「見えねえ!」
「下ろせ!」
「道は覚えてる!」
「そういう問題ではない!」
エヴァは豚の山を抱えたまま歩き出した。
ものすごく機嫌がいい。
「今日はトンカツだ!」
クロエとアスラは牛乳の樽を運び、その後ろをリーゼが歩く。
先頭では、豚の山が動いていた。
リーゼは疲れ切った顔で呟く。
「小官たち、牛乳を取りに来たんだぞ……」
クロエが答える。
「牛乳は取れた」
アスラも言う。
「肉も取れた」
「作戦としては成功だな」
クロエがまとめる。
リーゼは即座に返した。
「そういう問題ではない!」
夕方。
館へ戻った一行を見て、シズクはしばらく何も言わなかった。
金属製の樽がいくつもある。
クロエとアスラがそれを運んでいる。
その後ろには、疲れ切ったリーゼ。
そして最後に。
豚の山を抱えたエヴァ。
エヴァが元気よく叫んだ。
「今日はトンカツだ!」
シズクは少し考えた。
「乳を取りに行ったのでは?」
リーゼが力なく答える。
「小官も、そう聞いて出発した……」




