表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大瀑布の底のハーレム【一般公開版】 (R18版 日間76位ありがとうございます)  作者: 黒瀬 量衡
断章Ⅱ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

73/193

第七十三話 教授の植物園から逃げた草

「一株、逃げました」


朝食の席で、ティセラが言った。


エヴァが肉を噛みながら顔を上げる。


「何が?」


「植物です」


「植物が逃げるなよ」


「ですが、逃げました」


シズクが少し考える。


「この前の、歩く草ですか?」


「はい。紫顎草です」


クロエが眉を寄せた。


「噛むやつか」


アスラも覚えていた。


「他の植物を食うやつだな」


「正確には、少なくとも植物を摂食することが確認されている個体です。動物食性については未確認です」


エヴァが言う。


「じゃあ今日確認できるかもな」


「確認するために誰かを食わせないでください」


ティセラは真顔だった。


リーゼは館の増築用資材を整理する予定があり、ノアも水路と畑の補修が残っている。そのため、追跡へ出るのはティセラ、シズク、クロエ、アスラ、エヴァの五人になった。


エヴァが立ち上がる。


「じゃあ狩るか」


ティセラが即座に訂正する。


「捕獲です」


「逃げた化け物を追うなら狩りだろ」


「研究対象です」


「噛む、歩く、畑を食う、逃げる」


クロエが指を折る。


「十分、獲物では?」


「生きたまま戻します」


ティセラは譲らない。


アスラが肩をすくめた。


「教授が一番面倒だな」


「研究とは、そういうものです」


シズクは黙って長い棒を持った。


エヴァが見る。


「またそれか」


「分からないものは、まず棒で突きます」


「その判断は正しい」


クロエが即答した。


アスラも頷く。


「この谷底では特にな」


ティセラだけが少し不満そうだった。



化け物植物園へ行くと、第二隔離区画には確かに何もなかった。


昨日までは紫色の葉と、先端に口のような器官を持つ植物が一本植えられていた。


今は土だけ。


石床の端が少し持ち上がり、壁際に隙間ができている。


ティセラはしゃがみ込んだ。


「ここからですね」


土に筋が残っている。


根を何本も引きずった跡だった。


クロエもしゃがむ。


「真っ直ぐではない」


「ええ。途中で何度か向きを変えています」


アスラが聞く。


「何を基準に?」


「分かりません。光、水、魔力、匂い、他植物。候補はいくつもあります」


エヴァが跡を指差した。


「考えるのは歩きながらにしろ。まだ新しいぞ」


地面の筋は植物園の外へ続き、そのまま館とは反対方向へ伸びていた。


シズクが棒を握り直す。


「追いましょう」


五人は跡を追った。



最初の痕跡は、館からそれほど離れていない場所にあった。


小さな灌木の葉が、半分ほどなくなっている。


切られたのではない。


噛み千切られていた。


ティセラが葉の断面を見る。


「咬痕が一致します」


クロエが周囲を見る。


「ここで食事したのか」


アスラが地面を指差す。


「根を下ろした跡もある」


土に何本もの細い穴が開いていた。


シズクが尋ねる。


「食べるたびに、地面へ根を下ろすのでしょうか?」


「可能性はあります。移動中は根を脚のように使い、摂食時には本来の根として機能させているのかもしれません」


エヴァが腕を組む。


「便利な草だな」


ティセラの目が輝く。


「そうなのです」


「褒めてねえぞ」


さらに進む。


今度は低木が一本、ほとんど丸裸になっていた。


その次は、若木の樹皮が齧られている。


シズクが不安そうに言う。


「食べる量が増えていませんか?」


ティセラも記録を見直した。


「植物園にいた時より明らかに多いですね」


クロエが言う。


「外に出て餌が増えたから?」


「あるいは、移動で消耗した分を補っている可能性もあります」


アスラが少し先を見る。


「なら、腹いっぱいになるまで食い続けるかもしれんな」


エヴァは笑った。


「その前に見つければいい」


その直後。


少し遠くから、ばきっ、と枝の折れる音がした。


五人が止まる。


また。


ばき。


むしゃ。


シズクが小声になる。


「います」


エヴァが前へ出ようとした。


ティセラが腕を掴む。


「傷つけないでください」


「まだ何もしてねえ」


「先に言っておきます」


クロエが太刀の柄へ手を置く。


「襲ってきた場合は?」


「必要最小限で」


アスラが鉤爪を出す。


「必要最小限とは?」


「生存に必要な器官を破壊しない程度です」


エヴァが振り返った。


「教授、一番難しい注文してるぞ」


「お願いします」


シズクだけは棒を前へ向けた。


「私は、まず突きます」


「それでいい」


エヴァが頷いた。



木々の間から、紫色の葉が見えた。


昨日より大きい。


明らかに大きい。


ティセラが止まる。


「……成長していますね」


クロエが言う。


「一晩で?」


「谷底ですから」


シズクが答えた。


アスラがシズクを見る。


「その説明を自然に使うようになったな」


「便利なのです」


紫顎草は、若木の根元に身体を寄せていた。


先端の口が開く。


がちん。


樹皮を噛む。


もう一度。


がちん。


木片を噛み千切る。


むしゃむしゃ。


エヴァが呟いた。


「元気そうだな」


「観察上は非常に良好です」


ティセラが嬉しそうに答える。


「逃がした側が喜ぶな」


クロエが低い声で言った。


紫顎草が動きを止めた。


葉が震える。


ゆっくり、こちらへ向く。


全員が黙った。


シズクが棒を前へ出す。


「突きます」


ティセラが頷く。


「お願いします」


棒の先を伸ばす。


つん。


紫顎草の口が開いた。


がちんっ!


棒へ噛みついた。


シズクはすぐに引く。


植物も離さない。


「食いつきました」


「昨日と同じ反応です」


ティセラが記録する。


シズクがもう一度引く。


紫顎草の根が地面から抜けた。


ずぼっ。


何本もの根が空中へ出る。


それが動いた。


ばたばたと地面を掻く。


シズクの顔が引きつる。


「……走ります」


次の瞬間、紫顎草が棒を離した。


そして逃げた。


「逃げた!」


シズクが叫ぶ。


本当に走っていた。


何本もの根を脚のように使い、林の中を進んでいく。


ティセラの目が輝く。


「完全な地上歩行!」


「追え!」


エヴァが叫んだ。



五人が一斉に走る。


紫顎草は意外に速かった。


根が地面を掻き、身体を左右に揺らしながら進む。


クロエが木を蹴り、そのまま幹を走った。


「右へ行く!」


アスラが魔法陣を展開する。


紫顎草の前方、木々の間に淡い光の壁が現れた。


植物が方向を変える。


「左!」


エヴァが回り込む。


紫顎草が突然止まった。


口が開く。


エヴァへ向かう。


「来るぞ」


がちんっ!


エヴァの腕へ噛みついた。


エヴァは動かなかった。


紫顎草がもう一度噛もうとする。


「弱い」


エヴァが言った。


「エヴァ、引き抜かないでください!」


ティセラが遠くから叫ぶ。


「分かってるよ!」


「前回引き抜いたでしょう!」


「今回は我慢してる!」


紫顎草の根が地面へ伸びる。


ティセラの表情が変わった。


「離れて!」


エヴァが飛び退く。


直後、地面から細い根が何本も飛び出した。


エヴァのいた場所へ絡みつく。


クロエが太刀を抜きかける。


「切る?」


「待ってください!」


「毎回それだな!」


アスラが魔法陣を地面へ展開した。


根の周囲だけ土が硬くなる。


紫顎草が動こうとする。


動けない。


「止めたぞ」


ティセラが駆け寄る。


「完璧です!」


アスラが少し得意そうにする。


「魔術なら傷つけずに拘束できる」


クロエが太刀を戻した。


「便利だな」


「お前の機械よりな」


「今それを始めるな」


エヴァが言った。



ところが。


紫顎草が、突然大きく膨らんだ。


ティセラが止まる。


「待って」


先端の口ではない。


葉の付け根。


そこに小さな膨らみがいくつもできている。


クロエが聞く。


「何だ?」


ティセラの顔が変わった。


「種子かもしれません」


エヴァが即座に言う。


「伏せろ!」


ぱんっ。


植物が弾けた。


紫色の粒が四方へ飛ぶ。


クロエは髪を広げて顔を覆い、アスラは魔法障壁を張る。


エヴァはティセラを抱えて横へ飛んだ。


シズクは。


棒の後ろへ隠れた。


当然、棒では何も防げない。


クロエがその襟を掴み、地面へ引き倒す。


ぱちぱちぱちっ。


種子が木々へ当たる。


地面へ落ちる。


静かになった。


ティセラがエヴァの腕の中から顔を上げた。


「採取を」


「後にしろ!」


エヴァが叫ぶ。


「今飛んだ種を回収しないと」


「まず本体だ!」


アスラも魔法陣を維持したまま言う。


「教授は本当に研究以外見えなくなるな」


クロエがシズクを起こす。


「無事?」


「はい。ありがとうございます」


シズクは棒を見る。


「やはり、種には棒は効きませんね」


クロエが少し考える。


「当たり前では?」


「勉強になりました」


「そこで学ぶのか」


ティセラはもう記録を始めていた。


「追跡時に外敵を認識すると、種子を射出する。移動、摂食、防御、繁殖を一個体で――」


エヴァが紙を取り上げた。


「帰ってから書け」


「返してください」


「まず捕まえろ」


「それもそうですね」



紫顎草の捕獲には、結局かなり手間がかかった。


アスラが地面を魔術で固め、根の動きを封じる。


クロエが周囲へ散った種の位置を確認する。


シズクが長い棒で口の注意を引く。


エヴァが後ろから植物全体へ丈夫な布を被せる。


最後にティセラが根を傷つけないよう土ごと掘り出した。


布の中で。


がちん。


がちん。


紫顎草が噛んでいる。


エヴァが背負った袋が揺れる。


「元気だな」


「良好ですね」


ティセラが答える。


「これを良好と言うのか?」


「生きていますから」


アスラが呆れる。


「教授の植物園、いつか本当に誰か食うぞ」


「その前に食性を確認します」


クロエが言う。


「確認する必要があるのか?」


「当然です」


エヴァが笑った。


「研究者ってのも大変だな」


ティセラは胸を張った。


「未知を知るのが仕事です」


シズクが歩きながら尋ねる。


「ところで、飛んだ種はどうするのですか?」


全員が止まった。


ティセラの顔から笑みが消えた。


クロエが後ろを見る。


アスラも見る。


森の中。


先ほど種子が飛び散った場所。


静かだった。


エヴァが言う。


「何個飛んだ?」


ティセラが答える。


「正確には数えていません」


「拾ったのは?」


「クロエが確認した範囲で十一」


クロエが言う。


「少なくとも、もっと飛んでいた」


沈黙。


シズクが小さく聞く。


「つまり」


ティセラが答える。


「何株か残っている可能性があります」


エヴァが紫顎草入りの袋を背負ったまま、森を見る。


「狩り、終わってねえな」


アスラが額を押さえた。


「一株を捕まえに来ただけだぞ」


クロエがため息をつく。


「増えたな」


シズクは棒を握り直した。


「では、もう一度探しますか?」


ティセラの目が再び輝いた。


「発芽条件の野外確認もできます」


エヴァが言った。


「教授だけ置いて帰るか」


「困ります」


「全然困ってる顔じゃねえぞ」


結局、その日は夕方まで五人で森を歩き回ることになった。


逃げた一株を狩りに来たはずが、帰る頃には紫顎草一株、未発芽の種子十七個、発芽直後の幼株三株を回収していた。


館へ戻る頃には、シズクの棒には噛み跡が増え、クロエとアスラは泥だらけになり、エヴァは巨大な植物入りの袋を担ぎ、ティセラだけが妙に満足そうだった。


「非常に有意義な追跡でした」


クロエが言う。


「逃がしたのはお前だろう」


「結果として、新しい生態が分かりました」


アスラが続ける。


「逃がしたのはお前だろう」


「野外での移動速度、防御行動、種子射出、摂食行動が――」


エヴァが言う。


「逃がしたのは教授だろ」


ティセラが黙った。


シズクが優しく付け加える。


「次は、逃げないようにしましょう」


ティセラは少し考えてから頷いた。


「区画を改修します」


エヴァが嫌な顔をする。


「植物園をやめるって選択肢は?」


「ありません」


即答だった。


五人の前では、捕獲された紫顎草の袋が、がちん、がちん、と音を立てていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ