第七十三話 教授の植物園から逃げた草
「一株、逃げました」
朝食の席で、ティセラが言った。
エヴァが肉を噛みながら顔を上げる。
「何が?」
「植物です」
「植物が逃げるなよ」
「ですが、逃げました」
シズクが少し考える。
「この前の、歩く草ですか?」
「はい。紫顎草です」
クロエが眉を寄せた。
「噛むやつか」
アスラも覚えていた。
「他の植物を食うやつだな」
「正確には、少なくとも植物を摂食することが確認されている個体です。動物食性については未確認です」
エヴァが言う。
「じゃあ今日確認できるかもな」
「確認するために誰かを食わせないでください」
ティセラは真顔だった。
リーゼは館の増築用資材を整理する予定があり、ノアも水路と畑の補修が残っている。そのため、追跡へ出るのはティセラ、シズク、クロエ、アスラ、エヴァの五人になった。
エヴァが立ち上がる。
「じゃあ狩るか」
ティセラが即座に訂正する。
「捕獲です」
「逃げた化け物を追うなら狩りだろ」
「研究対象です」
「噛む、歩く、畑を食う、逃げる」
クロエが指を折る。
「十分、獲物では?」
「生きたまま戻します」
ティセラは譲らない。
アスラが肩をすくめた。
「教授が一番面倒だな」
「研究とは、そういうものです」
シズクは黙って長い棒を持った。
エヴァが見る。
「またそれか」
「分からないものは、まず棒で突きます」
「その判断は正しい」
クロエが即答した。
アスラも頷く。
「この谷底では特にな」
ティセラだけが少し不満そうだった。
化け物植物園へ行くと、第二隔離区画には確かに何もなかった。
昨日までは紫色の葉と、先端に口のような器官を持つ植物が一本植えられていた。
今は土だけ。
石床の端が少し持ち上がり、壁際に隙間ができている。
ティセラはしゃがみ込んだ。
「ここからですね」
土に筋が残っている。
根を何本も引きずった跡だった。
クロエもしゃがむ。
「真っ直ぐではない」
「ええ。途中で何度か向きを変えています」
アスラが聞く。
「何を基準に?」
「分かりません。光、水、魔力、匂い、他植物。候補はいくつもあります」
エヴァが跡を指差した。
「考えるのは歩きながらにしろ。まだ新しいぞ」
地面の筋は植物園の外へ続き、そのまま館とは反対方向へ伸びていた。
シズクが棒を握り直す。
「追いましょう」
五人は跡を追った。
最初の痕跡は、館からそれほど離れていない場所にあった。
小さな灌木の葉が、半分ほどなくなっている。
切られたのではない。
噛み千切られていた。
ティセラが葉の断面を見る。
「咬痕が一致します」
クロエが周囲を見る。
「ここで食事したのか」
アスラが地面を指差す。
「根を下ろした跡もある」
土に何本もの細い穴が開いていた。
シズクが尋ねる。
「食べるたびに、地面へ根を下ろすのでしょうか?」
「可能性はあります。移動中は根を脚のように使い、摂食時には本来の根として機能させているのかもしれません」
エヴァが腕を組む。
「便利な草だな」
ティセラの目が輝く。
「そうなのです」
「褒めてねえぞ」
さらに進む。
今度は低木が一本、ほとんど丸裸になっていた。
その次は、若木の樹皮が齧られている。
シズクが不安そうに言う。
「食べる量が増えていませんか?」
ティセラも記録を見直した。
「植物園にいた時より明らかに多いですね」
クロエが言う。
「外に出て餌が増えたから?」
「あるいは、移動で消耗した分を補っている可能性もあります」
アスラが少し先を見る。
「なら、腹いっぱいになるまで食い続けるかもしれんな」
エヴァは笑った。
「その前に見つければいい」
その直後。
少し遠くから、ばきっ、と枝の折れる音がした。
五人が止まる。
また。
ばき。
むしゃ。
シズクが小声になる。
「います」
エヴァが前へ出ようとした。
ティセラが腕を掴む。
「傷つけないでください」
「まだ何もしてねえ」
「先に言っておきます」
クロエが太刀の柄へ手を置く。
「襲ってきた場合は?」
「必要最小限で」
アスラが鉤爪を出す。
「必要最小限とは?」
「生存に必要な器官を破壊しない程度です」
エヴァが振り返った。
「教授、一番難しい注文してるぞ」
「お願いします」
シズクだけは棒を前へ向けた。
「私は、まず突きます」
「それでいい」
エヴァが頷いた。
木々の間から、紫色の葉が見えた。
昨日より大きい。
明らかに大きい。
ティセラが止まる。
「……成長していますね」
クロエが言う。
「一晩で?」
「谷底ですから」
シズクが答えた。
アスラがシズクを見る。
「その説明を自然に使うようになったな」
「便利なのです」
紫顎草は、若木の根元に身体を寄せていた。
先端の口が開く。
がちん。
樹皮を噛む。
もう一度。
がちん。
木片を噛み千切る。
むしゃむしゃ。
エヴァが呟いた。
「元気そうだな」
「観察上は非常に良好です」
ティセラが嬉しそうに答える。
「逃がした側が喜ぶな」
クロエが低い声で言った。
紫顎草が動きを止めた。
葉が震える。
ゆっくり、こちらへ向く。
全員が黙った。
シズクが棒を前へ出す。
「突きます」
ティセラが頷く。
「お願いします」
棒の先を伸ばす。
つん。
紫顎草の口が開いた。
がちんっ!
棒へ噛みついた。
シズクはすぐに引く。
植物も離さない。
「食いつきました」
「昨日と同じ反応です」
ティセラが記録する。
シズクがもう一度引く。
紫顎草の根が地面から抜けた。
ずぼっ。
何本もの根が空中へ出る。
それが動いた。
ばたばたと地面を掻く。
シズクの顔が引きつる。
「……走ります」
次の瞬間、紫顎草が棒を離した。
そして逃げた。
「逃げた!」
シズクが叫ぶ。
本当に走っていた。
何本もの根を脚のように使い、林の中を進んでいく。
ティセラの目が輝く。
「完全な地上歩行!」
「追え!」
エヴァが叫んだ。
五人が一斉に走る。
紫顎草は意外に速かった。
根が地面を掻き、身体を左右に揺らしながら進む。
クロエが木を蹴り、そのまま幹を走った。
「右へ行く!」
アスラが魔法陣を展開する。
紫顎草の前方、木々の間に淡い光の壁が現れた。
植物が方向を変える。
「左!」
エヴァが回り込む。
紫顎草が突然止まった。
口が開く。
エヴァへ向かう。
「来るぞ」
がちんっ!
エヴァの腕へ噛みついた。
エヴァは動かなかった。
紫顎草がもう一度噛もうとする。
「弱い」
エヴァが言った。
「エヴァ、引き抜かないでください!」
ティセラが遠くから叫ぶ。
「分かってるよ!」
「前回引き抜いたでしょう!」
「今回は我慢してる!」
紫顎草の根が地面へ伸びる。
ティセラの表情が変わった。
「離れて!」
エヴァが飛び退く。
直後、地面から細い根が何本も飛び出した。
エヴァのいた場所へ絡みつく。
クロエが太刀を抜きかける。
「切る?」
「待ってください!」
「毎回それだな!」
アスラが魔法陣を地面へ展開した。
根の周囲だけ土が硬くなる。
紫顎草が動こうとする。
動けない。
「止めたぞ」
ティセラが駆け寄る。
「完璧です!」
アスラが少し得意そうにする。
「魔術なら傷つけずに拘束できる」
クロエが太刀を戻した。
「便利だな」
「お前の機械よりな」
「今それを始めるな」
エヴァが言った。
ところが。
紫顎草が、突然大きく膨らんだ。
ティセラが止まる。
「待って」
先端の口ではない。
葉の付け根。
そこに小さな膨らみがいくつもできている。
クロエが聞く。
「何だ?」
ティセラの顔が変わった。
「種子かもしれません」
エヴァが即座に言う。
「伏せろ!」
ぱんっ。
植物が弾けた。
紫色の粒が四方へ飛ぶ。
クロエは髪を広げて顔を覆い、アスラは魔法障壁を張る。
エヴァはティセラを抱えて横へ飛んだ。
シズクは。
棒の後ろへ隠れた。
当然、棒では何も防げない。
クロエがその襟を掴み、地面へ引き倒す。
ぱちぱちぱちっ。
種子が木々へ当たる。
地面へ落ちる。
静かになった。
ティセラがエヴァの腕の中から顔を上げた。
「採取を」
「後にしろ!」
エヴァが叫ぶ。
「今飛んだ種を回収しないと」
「まず本体だ!」
アスラも魔法陣を維持したまま言う。
「教授は本当に研究以外見えなくなるな」
クロエがシズクを起こす。
「無事?」
「はい。ありがとうございます」
シズクは棒を見る。
「やはり、種には棒は効きませんね」
クロエが少し考える。
「当たり前では?」
「勉強になりました」
「そこで学ぶのか」
ティセラはもう記録を始めていた。
「追跡時に外敵を認識すると、種子を射出する。移動、摂食、防御、繁殖を一個体で――」
エヴァが紙を取り上げた。
「帰ってから書け」
「返してください」
「まず捕まえろ」
「それもそうですね」
紫顎草の捕獲には、結局かなり手間がかかった。
アスラが地面を魔術で固め、根の動きを封じる。
クロエが周囲へ散った種の位置を確認する。
シズクが長い棒で口の注意を引く。
エヴァが後ろから植物全体へ丈夫な布を被せる。
最後にティセラが根を傷つけないよう土ごと掘り出した。
布の中で。
がちん。
がちん。
紫顎草が噛んでいる。
エヴァが背負った袋が揺れる。
「元気だな」
「良好ですね」
ティセラが答える。
「これを良好と言うのか?」
「生きていますから」
アスラが呆れる。
「教授の植物園、いつか本当に誰か食うぞ」
「その前に食性を確認します」
クロエが言う。
「確認する必要があるのか?」
「当然です」
エヴァが笑った。
「研究者ってのも大変だな」
ティセラは胸を張った。
「未知を知るのが仕事です」
シズクが歩きながら尋ねる。
「ところで、飛んだ種はどうするのですか?」
全員が止まった。
ティセラの顔から笑みが消えた。
クロエが後ろを見る。
アスラも見る。
森の中。
先ほど種子が飛び散った場所。
静かだった。
エヴァが言う。
「何個飛んだ?」
ティセラが答える。
「正確には数えていません」
「拾ったのは?」
「クロエが確認した範囲で十一」
クロエが言う。
「少なくとも、もっと飛んでいた」
沈黙。
シズクが小さく聞く。
「つまり」
ティセラが答える。
「何株か残っている可能性があります」
エヴァが紫顎草入りの袋を背負ったまま、森を見る。
「狩り、終わってねえな」
アスラが額を押さえた。
「一株を捕まえに来ただけだぞ」
クロエがため息をつく。
「増えたな」
シズクは棒を握り直した。
「では、もう一度探しますか?」
ティセラの目が再び輝いた。
「発芽条件の野外確認もできます」
エヴァが言った。
「教授だけ置いて帰るか」
「困ります」
「全然困ってる顔じゃねえぞ」
結局、その日は夕方まで五人で森を歩き回ることになった。
逃げた一株を狩りに来たはずが、帰る頃には紫顎草一株、未発芽の種子十七個、発芽直後の幼株三株を回収していた。
館へ戻る頃には、シズクの棒には噛み跡が増え、クロエとアスラは泥だらけになり、エヴァは巨大な植物入りの袋を担ぎ、ティセラだけが妙に満足そうだった。
「非常に有意義な追跡でした」
クロエが言う。
「逃がしたのはお前だろう」
「結果として、新しい生態が分かりました」
アスラが続ける。
「逃がしたのはお前だろう」
「野外での移動速度、防御行動、種子射出、摂食行動が――」
エヴァが言う。
「逃がしたのは教授だろ」
ティセラが黙った。
シズクが優しく付け加える。
「次は、逃げないようにしましょう」
ティセラは少し考えてから頷いた。
「区画を改修します」
エヴァが嫌な顔をする。
「植物園をやめるって選択肢は?」
「ありません」
即答だった。
五人の前では、捕獲された紫顎草の袋が、がちん、がちん、と音を立てていた。




