第七十二話 生け簀の魚
アスラは、生け簀の前でしばらく黙っていた。
館の横を流れる清流から水を引き込んだ木枠の中で、銀色の魚が泳いでいる。
大きくない。
人の腕ほどもない。
牙もない。
角もない。
空も飛ばない。
アスラが眉を寄せた。
「……普通だな」
ノアが振り返る。
「魚だからね」
「いや、普通すぎる」
「何がですか?」
シズクが尋ねる。
アスラは生け簀の中を指した。
「この谷底で、こんな普通の魚が普通に泳いでいるのが、逆におかしく思えてきた」
リーゼが深く頷いた。
「分かるぞ」
シズクも頷いた。
「私も最近、少し分かるようになってきました」
クロエが三人を見る。
「慣らされていないか?」
「貴様もそのうち分かる!」
リーゼが言った。
アスラはもう一度、生け簀を見る。
銀色の魚が流れに逆らいながら泳いでいる。
どう見ても普通だった。
「私のところにも、このくらいの魚はいる」
「僕の昔の世界にもいたよ」
「私のところにもいます」
ティセラも言う。
アスラがますます嫌そうな顔をした。
「全世界共通で普通の魚なのか」
「何が不満なんだ!」
リーゼが叫んだ。
ただ、生け簀の魚はかなり減っていた。
人数が増えたからだ。
ノアとエヴァ、シズクだけだった頃よりも食べる量が増えた。魚ばかり食べるわけではないが、生きたまま置いておける食料は便利だった。
ノアが新しい木材を運んでくる。
「だから今日は、少し生け簀を広げようと思って」
リーゼがすぐに構造を見る。
「水の入口と出口は?」
「今のを広げて、二つに分ける」
「流速を落としすぎるな。魚が弱る」
「そこは気をつけるよ」
シズクも木枠を運ぶ。
「私は何をすれば?」
「こっちの杭を押さえてもらえる?」
「はい」
リーゼも腕をまくった。
「小官も残る。水路と枠を作るなら、そちらの方が役に立つ」
アスラが聞く。
「魚は誰が取る?」
エヴァが答えた。
「俺とお前ら」
クロエが見る。
「私もか」
「ああ」
ティセラも手を上げる。
「私も同行します」
リーゼが一瞬、そちらへ行きたそうな顔をした。
だが、すぐに首を振った。
「いや。小官は生け簀を作る」
シズクも同じだった。
「私も、こちらに残ります」
アスラが二人を見る。
「魚を捕る方が面白そうではないか?」
リーゼとシズクは顔を見合わせた。
「小官は、オチを知っている」
「私もです」
「オチ?」
アスラが眉を寄せる。
リーゼは杭を持ち上げた。
「行けば分かる」
シズクも静かに頷いた。
「私たちも、そう言われてきましたから」
クロエが嫌そうな顔になる。
「その言い方をするようになったのか」
「谷底では便利な言葉だぞ」
リーゼは少し遠い目をしていた。
魚を捕る場所は、館からそれほど遠くなかった。
支流の幅が少し狭くなり、魚が遡上する時に通る場所がある。
エヴァは木を組んで作った簗を確認した。
流れを完全には塞がず、一部だけを狭めて魚を寄せる仕組みだった。
クロエが見る。
「簡単な構造だな」
「壊れても直せる方がいい」
エヴァが答える。
「谷底じゃ、でかいのが一回来たら大抵壊れる」
アスラが嫌な予感を覚えた。
「でかいの?」
「こっちにはあまり来ない」
「こっちには?」
「魚取るぞ」
「話を逸らしたな」
ティセラは既に簗の構造を観察していた。
「流れを利用して、魚の進路だけを狭めるのですね」
「ああ。全部ここに追い込む必要はねえ。食う分だけ取る」
簗へ寄った魚を、手網ですくう。
一匹。
二匹。
三匹。
どれも、生け簀にいたものと同じ程度の大きさだった。
アスラが一匹を持ち上げる。
「これだ」
「何が?」
クロエが聞く。
「私の知っている魚の大きさだ」
銀色の魚が手の中で跳ねる。
アスラは少し嬉しそうだった。
「そうだ。魚というのはこれでいい」
エヴァが笑う。
「よかったな」
「笑うな。最近この谷底で、普通というものの価値が分かってきた」
クロエも一匹を手網ですくう。
「確かに、これは普通だ」
ティセラも頷いた。
「少なくとも、既知の魚類として扱えます」
アスラは満足した。
「今日は何も起きなさそうだな」
エヴァが川上を見る。
「そうだな」
その声が、少しだけ楽しそうだった。
最初に気づいたのは、音だった。
ごう。
遠くから、重い水音が聞こえる。
クロエが顔を上げた。
「何だ?」
エヴァが滝壺のある方を見る。
「来たか」
「何が?」
アスラが尋ねる。
エヴァは答えなかった。
水面が揺れる。
川の流れそのものが、少し変わった。
ティセラが目を細める。
「上流ではありませんね。滝壺側から?」
「遡上してきてる」
エヴァが言った。
アスラが手の中の魚を見る。
「これが?」
「違う」
「では何が?」
その時だった。
遠くの水面が、大きく盛り上がった。
黒い背が見える。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに後ろにも続いている。
アスラが黙った。
クロエも黙った。
水面から現れた背だけで、館より大きく見える。
巨大な魚の群れが、川を遡っていた。
一匹が尾を振る。
どおんっ、と低い音が響き、巨大な水柱が上がる。
アスラは、自分の手の中にいる普通サイズの魚を見る。
それから、遠くを遡っている巨大魚を見る。
また手元を見る。
「……同じ言葉で魚と呼んでいいのか?」
エヴァが答える。
「魚は魚だろ」
「そういう問題ではない!」
クロエも珍しく同意する。
「私たちの世界には、あの大きさの魚はいない」
「だろう!」
アスラが言った。
「やはりおかしいのはこの谷底だ!」
ティセラは記録を始めている。
「群れで遡上していますね」
「教授、そこへ近づくなよ」
エヴァが言う。
「近づきません。ここからでも十分に観察できます」
巨大魚たちは、こちらには寄ってこなかった。
もっと大きな流れを選び、滝壺の方から上流へ向かっている。
跳ねるものもいる。
そのたびに、遠くで水面が爆発する。
アスラが呟いた。
「リーゼとシズクの言っていたオチはこれか」
「たぶんな」
クロエが答える。
「二人とも来なかった理由が分かった」
エヴァは笑っていた。
その時、ティセラが空を見た。
「……あれは何でしょう」
全員がそちらを見る。
遥か遠く。
巨大魚の群れよりもさらに向こう。
空を、丸い何かが飛んでいた。
最初は岩に見えた。
ただ、丸い。
ほとんど球に近い。
しかも一つではない。
遠近感が狂うほど遠くにあるのに、それでも山のように大きく見える。
クロエが目を細める。
「岩山が飛んでいる?」
アスラも見る。
「丸いな」
ティセラが言った。
「形だけなら、魚卵のようにも見えます」
全員が黙った。
エヴァだけが、納得したように頷いた。
「ああ」
アスラが嫌そうに振り返る。
「何だ」
「産卵期か」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
遠くでは、魚卵のような丸い岩山が、いくつも空を飛んでいる。
アスラがゆっくり聞く。
「エヴァ」
「何だ」
「あれは本当に卵なのか?」
「知らん」
「知らないのか!」
「でもこの時期に出るから、たぶんそうじゃねえか?」
「たぶんで山を卵にするな!」
クロエも遠くを見たまま言う。
「どうやって飛んでいる?」
「知らん」
「誰が飛ばしている?」
「知らん」
「どこへ行く?」
「知らん」
アスラが頭を抱えた。
「何も知らないではないか!」
エヴァは平然としている。
「近づかなきゃ困らん」
「それで一年生きてきたのか」
「そうだぞ」
その横で、ティセラだけが猛烈な勢いで記録していた。
「魚類らしき巨大生物の集団遡上。同時期に、魚卵様の大型球状物体が飛翔。両者の関係は未確認……」
アスラが振り返る。
「教授」
「はい」
「取りに行こうなどと思うな」
ティセラは少し黙った。
「……まだ言っていません」
「顔に書いてある」
クロエが言った。
「今回は私もアスラに賛成する」
エヴァが笑う。
「じゃあ普通の魚だけ持って帰るか」
アスラは手に持った銀色の魚を見る。
普通の大きさ。
普通の形。
普通に食える。
その向こうでは、館より大きな魚の群れが川を遡り、さらに遠くでは魚卵のような岩山が空を飛んでいる。
アスラは深く息を吐いた。
「……生け簀の魚が普通だったのは、奇跡だったんだな」
エヴァが笑った。
「最初にそう言ってただろ」
「私は『普通すぎておかしい』と言ったんだ!」
「合ってたじゃねえか」
「そういう意味で当たりたくなかった!」
館へ戻ると、新しい生け簀はほとんど完成していた。
リーゼとシズクが水路の横で、最後の木枠を固定している。
リーゼは戻ってきた一行を見る。
「どうだった?」
アスラが桶を置いた。
中では、普通サイズの銀色の魚が泳いでいる。
「普通の魚を捕った」
「そうか」
「その後、館より大きい魚の群れが遡上してきた」
「そうか」
「遠くで、魚卵みたいな丸い岩山が飛んでいた」
リーゼの手が止まった。
シズクも止まった。
「……そこまでは知りません」
シズクが言った。
リーゼも頷く。
「小官もだ」
アスラが二人を見る。
「オチを知っていると言っただろう!」
リーゼは真顔で答えた。
「巨大魚までだ!」
シズクも困ったように言う。
「空を飛ぶ卵らしきものまでは、聞いていませんでした」
エヴァが笑う。
「今年は多いのかもな」
リーゼがゆっくりエヴァを見る。
「今年は?」
「ああ。産卵期だし」
リーゼの顔が引きつった。
アスラが指を差す。
「ほら! こうなる!」
リーゼは両手で頭を抱えた。
「何で魚を取りに行っただけで、最後に山が飛ぶんだ!」
生け簀の中では、新しく捕まえた普通サイズの魚たちが、何事もなかったように流れへ逆らって泳いでいた。




