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大瀑布の底のハーレム【一般公開版】 (R18版 日間76位ありがとうございます)  作者: 黒瀬 量衡
断章Ⅱ

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第七十一話 絹糸を取りに

「糸が足りない」


朝食の後、ノアがそう言った。


リーゼが顔を上げる。


「縫い糸か?」


「それもだけど、布にする方。あの魔物の糸」


その言葉で、シズクの手が止まった。この前、水場の物干し場で、エヴァから妙に滑らかな布を見せられたことを思い出す。ニーソックスだのブラジャーだの、シズクには未だによく分からない衣類に使われていた布だった。そして、その材料も聞いた。人間くらいなら、一かじりで飲み込む巨大な芋虫。


「……本当に、取りに行くのですか?」


エヴァが笑った。


「前に言っただろ」


「言っていましたけれど、忘れてくださってもよかったのです!」


ノアは少し困ったように笑う。


「今までは僕とエヴァで取りに行ってたんだけど、人が増えたからね。下着だけじゃなくて、肌着、寝具、包帯、いろいろ使ってるから、在庫がかなり減ったんだ」


「なるほど」


リーゼは、そこで特に驚かなかった。むしろ、少し安心したような顔になる。


「養蚕なら、小官の世界にもある」


クロエが見る。


「知っているのか?」


「当然だ。蚕に桑の葉を食わせ、繭を作らせる。繭から糸を取り、何本か合わせて生糸にする。絹は高価だが、軽く、滑らかで、丈夫だ。衣料品としては非常に優秀な繊維だぞ」


ティセラが興味を示した。


「繭から、そのまま一本の糸を取るのですか?」


「一本では細すぎる。複数を合わせる。繭から糸をほどくにも処理が必要だし、その後も精練して、織れる状態にしなければならない」


ノアが頷く。


「僕が覚えてるのも大体そんな感じ。ここの繭は規模が違うから、かなり手順を変えてるけどね」


リーゼは少し得意そうだった。


「ほら見ろ。小官にも完全に理解できる話ではないか」


エヴァが横から言う。


「現物を見るまではな」


リーゼの眉が動いた。


「何だ、その言い方は」


「見れば分かる」


「小官は、もう谷底の巨大生物には慣れた。芋虫だろう?」


「ああ」


「繭を作る」


「ああ」


「糸を取る」


「そうだ」


リーゼは胸を張った。


「何もおかしくない」


シズクは、何となく嫌な予感がした。


館を出てからしばらくは、リーゼの上官らしさが戻っていた。採集用の刃物、縄、繭を包む大布、顔を覆う布、防護衣。荷物を確認しながら、不足がないかを一つずつ見ていく。


「繭を回収するだけにしては、防護装備が多いな」


「成虫の鱗粉が残ってることがあるから」


ノアが答える。


リーゼの顔つきが変わった。


「鱗粉?」


「吸わない方がいい。肌にも付けない方がいいと思う」


「思う?」


「ちゃんと人体実験したわけじゃないから」


「なら防ぐ。正しい判断だ。未知の粉塵を吸い込む必要はない。現地が近づいたら全員、防護衣を着用。口、鼻、目、首、手首、足首を可能な限り覆う。回収した繭もそのまま持ち帰るな。外側を包め」


クロエが少し感心したように言う。


「急に指揮官らしくなったな」


「小官は元から指揮官だ!」


アスラが尋ねる。


「魔術で遮断してもいいか?」


「構わん。ただし術が切れた時のために物理防護も使え」


「合理的だ」


「そうだろう!」


久しぶりに話の通じる分野だった。リーゼの足取りまで少し軽い。


道中、シズクが聞いた。


「リーゼさんの世界の蚕は、どのくらいの大きさなのですか?」


「手で扱える程度だ」


「人を飲み込みます?」


「飲み込むわけがあるか!」


「木を食べます?」


「桑の葉だと言っている!」


エヴァが前を歩きながら笑う。


「まあ、もうすぐ見える」


「少しくらい大きくても驚かんぞ」


「そうか」


「そうだ」


ノアまで微妙な顔をした。


リーゼがそれに気づく。


「聖者、その顔は何だ」


「いや」


「何だ」


「見れば分かるかなって」


「貴様までエヴァと同じことを言うな!」


森へ近づいたところで、ノアが足を止めた。


「ここから着よう」


全員が防護衣を身につける。厚手の布で身体を覆い、袖口と足首を締める。頭と顔も覆い、なるべく皮膚を露出させない。


リーゼは一人ずつ確認していった。


「シズク、首のところが空いている」


「はい」


「クロエ、髪は?」


「全部内側へ入れるのは邪魔だな」


「鱗粉を持ち帰る方が邪魔だ。入れろ」


「分かった」


「アスラ、魔術防壁だけを信用するな」


「聞いている」


ティセラは、自分の防護衣の上からさらに薄い魔術膜を張った。


「物理防護と魔術防護の二重にしておきます」


「教授は絶対に余計な採集をするつもりだろう」


「必要な試料があれば」


「長居はするな」


「分かっています」


エヴァだけは慣れた手つきで準備を終えていた。


「行くぞ」


森の中へ入る。最初に聞こえたのは、咀嚼音だった。


ばき。めき。むしゃ。ばきばき。


リーゼが足を止める。


「……何の音だ」


エヴァが答えた。


「飯食ってる」


「何が」


「芋虫」


「何を」


「木」


リーゼはしばらく動かなかった。それから、木々の隙間を見る。


いた。


巨大な白っぽい胴体が、森の中を這っていた。太い。長い。シズクが聞いていた通り、人間程度なら一口で飲み込めそうだった。いや、それどころではない。


頭を持ち上げた芋虫が、目の前の木へ噛みつく。


ばきっ。


枝ではなかった。幹だった。そのまま噛み砕く。


むしゃむしゃ。めきめき。木そのものが、少しずつ減っていく。


リーゼが固まった。


「……桑は?」


ノアが小声で答える。


「ないよ」


「葉は?」


「食べるとは思うけど、木も食べる」


ばきっ。むしゃむしゃ。


リーゼの目が大きくなる。


「おかしいだろ!」


ノアが慌てて口元へ指を立てた。


「リーゼ、声」


リーゼもすぐに声を落とす。


「おかしいだろ! 何だ、そのサイズは! 何故、木を食っている!」


クロエが巨大芋虫を見る。


「これは確かに大きいな」


アスラも頷いた。


「私たちの世界にはいない」


リーゼが二人を見る。


「貴様らにまで言われているぞ!」


「生態系については、私たちの世界の方が普通だ」


「何故そこで胸を張れるんだ!」


その時、別の場所から、どおんっ、と低い音が響いた。地面が少し揺れる。


リーゼがそちらを見る。


二匹の巨大芋虫が、一本の木を挟んで向かい合っていた。


「何をしている?」


エヴァが言う。


「木の取り合い」


二匹が少し身体を引いた。そして。


どおんっ!


正面からぶつかった。


一度離れる。また向かい合う。


どおんっ!


「何故そうなる!」


リーゼが小声で叫ぶ。


どおんっ!


「普通の蚕は!」


どおんっ!


「桑の葉を!」


どおんっ!


「もっと静かに食うものだ!」


クロエが言った。


「これは蚕なのか?」


「違う! だから余計におかしいと言っている!」


エサになる木の取り合いらしい。片方が諦めるまで、二匹は正面衝突を繰り返していた。木の方も無事ではない。幹へ巨大な身体がぶつかるたび、枝が折れ、葉が落ちる。


ノアが小声で言った。


「だから中央には入らない」


リーゼは芋虫を見たまま答える。


「当然だ」


「僕たちが欲しいのは、あいつらじゃない。成虫が出た後の繭だけ」


「芋虫へ近づく必要はないのだな?」


「ない」


「それなら、まだいい」


エヴァが笑った。


「そう言ってられるのも今のうちだぞ」


「余計なことを言うな!」


繭は、森のさらに奥にいくつも見えた。白く巨大な塊が、木や岩の間に固定されている。その多くは、芋虫たちのいる場所に近い。


ノアは手前で止まった。


「欲張らない。端のだけ」


エヴァも頷く。


「中央にいいのがあっても無視だ。食事中の進路と、ぶつかってる奴らの近くには行くな」


リーゼはすぐに周囲を確認する。


「退路を先に決める。あの岩の右を通って戻る。倒れそうな木の下には入るな。繭を取ったら、その場で包む」


「了解」


ノアが答えた。


リーゼが少し止まった。


「……何で小官が、養蚕の繭拾いで退路確認を指示しているんだ」


エヴァが言う。


「向いてるぞ」


「嬉しくない!」


群れの外縁に、一つだけ条件の良い繭があった。大きな裂け目が開いている。成虫が既に抜けた跡だった。周囲に芋虫はいない。食われている木もない。


ノアが指差す。


「あれにしよう」


クロエが目を細める。


「内部に動きはない」


アスラも周囲を見る。


「こちらへ近づいている個体もいない」


リーゼが頷いた。


「よし。静かに行くぞ」


繭へ近づく。近くで見ると、さらに大きかった。人間が何人も中へ入れそうな白い塊が、幾重もの繊維で出来ている。


ティセラの目が輝いた。


「繊維一本の太さからして違いますね」


「教授、今は観察だけだ」


「分かっています」


「その声は信用できん」


ノアが根元を見る。


「ここだけ切る」


繭全部を乱暴に引き剥がすことはしない。一本ずつ。なるべく音を立てず。成虫の鱗粉が残っている可能性があるので、素手でも触れない。


エヴァが繭を支える。


「もう少し上だ」


クロエが反対側を持つ。


「これでいいか?」


「うん」


アスラとリーゼも加わる。


最後の繊維が切れた。巨大な繭が、ゆっくりと外れる。シズクも下から支えた。


「この前、魔物の糸で褌を作ればいいと言われた時は、本当に冗談だと思っていました」


エヴァが言う。


「冗談じゃなかっただろ」


「それが一番困るのです!」


リーゼが小声で言った。


「雑談は戻ってからだ。包め」


大きな布を広げ、繭全体を覆う。鱗粉が飛び散らないように縛る。


一つだけ。


ノアは他の繭を見なかった。


「帰ろう」


ティセラが少しだけ奥を見る。


「もう一つくらい」


「教授」


リーゼが低い声で呼ぶ。


「……帰ります」


「よろしい」


撤収は静かだった。巨大芋虫たちは、こちらに気づいているのかいないのか分からない。一匹は相変わらず木を食べている。むしゃむしゃ。別の二匹は、まだ餌の木を巡って衝突している。どおんっ。どおんっ。


リーゼはもう突っ込まなかった。


「見るな。進め」


完全に上官の声だった。


森を抜ける。さらに歩く。


かなり離れてから、ノアが言った。


「もう大丈夫かな」


リーゼは周囲を見る。


「まだ防護は外すな。風向きが分からん。もう少し離れる」


エヴァが笑う。


「慎重だな」


「鱗粉を吸い込んでから後悔するより百倍ましだ」


ティセラも頷く。


「同意します」


「教授は採集したいだけだろう」


「否定はしません」


さらに歩いた。森がかなり遠くなったところで、ようやくリーゼも立ち止まる。


「ここならいいだろう」


その時だった。


遥か後方から、低い音が聞こえた。


ばさっ。


一度。ただの羽音とは思えない。空気そのものが押されたような、重い音だった。


全員が振り返る。


森の向こうから、巨大なものが浮かび上がった。まず翅が見えた。大きい。森の木々の上へ、巨大な翅が現れる。次に胴体。長い触角。芋虫だったものが変態した、巨大な成虫。


リーゼは何も言わなかった。


成虫が翅を打つ。


ばさっ。


遠くにある木々の梢が揺れる。


もう一度。


ばさっ。


巨大な身体が、さらに高度を上げた。


クロエが小さく言う。


「……あれが成虫か」


ノアが答える。


「そう」


アスラも、遠くの影を見上げたままだった。


「洒落にならんな」


「貴様が言うのか」


リーゼがようやく口を開いた。


巨大な成虫は旋回することもなく、そのまま遠くへ向かって飛んでいく。翅を一度打つたびに、身体が大きく前へ進む。やがて森より小さくなり、それでもまだ空に影が見えた。


リーゼが指差す。


「小官の知っている蚕は、あんなものにはならない!」


エヴァが笑う。


「でかいだろ」


「でかいで済ませるな! あれは洒落にならん化け物だ!」


ティセラが遠ざかる成虫を目で追う。


「鱗粉の飛散範囲も、想定より広く取った方がよさそうですね」


リーゼが即座に振り返る。


「教授、追いかけるなよ」


「追いません」


「本当だな?」


「今日は」


「今日は、を付けるな!」


シズクは、布に包まれた巨大な繭を見る。


「これが、服や下着になるのですね」


「なるよ」


ノアが答える。


「煮て、洗って、糸にして、織ればね」


リーゼは巨大な繭を見る。次に、遥か彼方へ消えようとしている巨大な成虫を見る。そしてもう一度、繭を見る。


「……命懸けの養蚕だな」


ノアが少し考えた。


「飼ってないから、養蚕ではないかな」


リーゼが勢いよく振り返った。


「そこを訂正するな!」


エヴァの笑い声が響く。


シズクも繭へそっと手を置いた。厚い防護布越しでも、内側の繊維の柔らかさが少し分かる。この前触った布の肌触りを思い出した。


悔しいが、本当に良い糸なのだ。


「……褌くらいなら」


シズクが小さく呟く。


エヴァがすぐに聞きつけた。


「作るか?」


「今のは独り言です!」


「聖者、シズクの分も取っとけ」


「はいはい」


「聞かないでください!」


巨大な繭を抱えた一行は、そのまま館へ戻っていった。遥か後ろでは、巨大な成虫が、とうとう空の彼方へ消えていた。

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