第七十一話 絹糸を取りに
「糸が足りない」
朝食の後、ノアがそう言った。
リーゼが顔を上げる。
「縫い糸か?」
「それもだけど、布にする方。あの魔物の糸」
その言葉で、シズクの手が止まった。この前、水場の物干し場で、エヴァから妙に滑らかな布を見せられたことを思い出す。ニーソックスだのブラジャーだの、シズクには未だによく分からない衣類に使われていた布だった。そして、その材料も聞いた。人間くらいなら、一かじりで飲み込む巨大な芋虫。
「……本当に、取りに行くのですか?」
エヴァが笑った。
「前に言っただろ」
「言っていましたけれど、忘れてくださってもよかったのです!」
ノアは少し困ったように笑う。
「今までは僕とエヴァで取りに行ってたんだけど、人が増えたからね。下着だけじゃなくて、肌着、寝具、包帯、いろいろ使ってるから、在庫がかなり減ったんだ」
「なるほど」
リーゼは、そこで特に驚かなかった。むしろ、少し安心したような顔になる。
「養蚕なら、小官の世界にもある」
クロエが見る。
「知っているのか?」
「当然だ。蚕に桑の葉を食わせ、繭を作らせる。繭から糸を取り、何本か合わせて生糸にする。絹は高価だが、軽く、滑らかで、丈夫だ。衣料品としては非常に優秀な繊維だぞ」
ティセラが興味を示した。
「繭から、そのまま一本の糸を取るのですか?」
「一本では細すぎる。複数を合わせる。繭から糸をほどくにも処理が必要だし、その後も精練して、織れる状態にしなければならない」
ノアが頷く。
「僕が覚えてるのも大体そんな感じ。ここの繭は規模が違うから、かなり手順を変えてるけどね」
リーゼは少し得意そうだった。
「ほら見ろ。小官にも完全に理解できる話ではないか」
エヴァが横から言う。
「現物を見るまではな」
リーゼの眉が動いた。
「何だ、その言い方は」
「見れば分かる」
「小官は、もう谷底の巨大生物には慣れた。芋虫だろう?」
「ああ」
「繭を作る」
「ああ」
「糸を取る」
「そうだ」
リーゼは胸を張った。
「何もおかしくない」
シズクは、何となく嫌な予感がした。
館を出てからしばらくは、リーゼの上官らしさが戻っていた。採集用の刃物、縄、繭を包む大布、顔を覆う布、防護衣。荷物を確認しながら、不足がないかを一つずつ見ていく。
「繭を回収するだけにしては、防護装備が多いな」
「成虫の鱗粉が残ってることがあるから」
ノアが答える。
リーゼの顔つきが変わった。
「鱗粉?」
「吸わない方がいい。肌にも付けない方がいいと思う」
「思う?」
「ちゃんと人体実験したわけじゃないから」
「なら防ぐ。正しい判断だ。未知の粉塵を吸い込む必要はない。現地が近づいたら全員、防護衣を着用。口、鼻、目、首、手首、足首を可能な限り覆う。回収した繭もそのまま持ち帰るな。外側を包め」
クロエが少し感心したように言う。
「急に指揮官らしくなったな」
「小官は元から指揮官だ!」
アスラが尋ねる。
「魔術で遮断してもいいか?」
「構わん。ただし術が切れた時のために物理防護も使え」
「合理的だ」
「そうだろう!」
久しぶりに話の通じる分野だった。リーゼの足取りまで少し軽い。
道中、シズクが聞いた。
「リーゼさんの世界の蚕は、どのくらいの大きさなのですか?」
「手で扱える程度だ」
「人を飲み込みます?」
「飲み込むわけがあるか!」
「木を食べます?」
「桑の葉だと言っている!」
エヴァが前を歩きながら笑う。
「まあ、もうすぐ見える」
「少しくらい大きくても驚かんぞ」
「そうか」
「そうだ」
ノアまで微妙な顔をした。
リーゼがそれに気づく。
「聖者、その顔は何だ」
「いや」
「何だ」
「見れば分かるかなって」
「貴様までエヴァと同じことを言うな!」
森へ近づいたところで、ノアが足を止めた。
「ここから着よう」
全員が防護衣を身につける。厚手の布で身体を覆い、袖口と足首を締める。頭と顔も覆い、なるべく皮膚を露出させない。
リーゼは一人ずつ確認していった。
「シズク、首のところが空いている」
「はい」
「クロエ、髪は?」
「全部内側へ入れるのは邪魔だな」
「鱗粉を持ち帰る方が邪魔だ。入れろ」
「分かった」
「アスラ、魔術防壁だけを信用するな」
「聞いている」
ティセラは、自分の防護衣の上からさらに薄い魔術膜を張った。
「物理防護と魔術防護の二重にしておきます」
「教授は絶対に余計な採集をするつもりだろう」
「必要な試料があれば」
「長居はするな」
「分かっています」
エヴァだけは慣れた手つきで準備を終えていた。
「行くぞ」
森の中へ入る。最初に聞こえたのは、咀嚼音だった。
ばき。めき。むしゃ。ばきばき。
リーゼが足を止める。
「……何の音だ」
エヴァが答えた。
「飯食ってる」
「何が」
「芋虫」
「何を」
「木」
リーゼはしばらく動かなかった。それから、木々の隙間を見る。
いた。
巨大な白っぽい胴体が、森の中を這っていた。太い。長い。シズクが聞いていた通り、人間程度なら一口で飲み込めそうだった。いや、それどころではない。
頭を持ち上げた芋虫が、目の前の木へ噛みつく。
ばきっ。
枝ではなかった。幹だった。そのまま噛み砕く。
むしゃむしゃ。めきめき。木そのものが、少しずつ減っていく。
リーゼが固まった。
「……桑は?」
ノアが小声で答える。
「ないよ」
「葉は?」
「食べるとは思うけど、木も食べる」
ばきっ。むしゃむしゃ。
リーゼの目が大きくなる。
「おかしいだろ!」
ノアが慌てて口元へ指を立てた。
「リーゼ、声」
リーゼもすぐに声を落とす。
「おかしいだろ! 何だ、そのサイズは! 何故、木を食っている!」
クロエが巨大芋虫を見る。
「これは確かに大きいな」
アスラも頷いた。
「私たちの世界にはいない」
リーゼが二人を見る。
「貴様らにまで言われているぞ!」
「生態系については、私たちの世界の方が普通だ」
「何故そこで胸を張れるんだ!」
その時、別の場所から、どおんっ、と低い音が響いた。地面が少し揺れる。
リーゼがそちらを見る。
二匹の巨大芋虫が、一本の木を挟んで向かい合っていた。
「何をしている?」
エヴァが言う。
「木の取り合い」
二匹が少し身体を引いた。そして。
どおんっ!
正面からぶつかった。
一度離れる。また向かい合う。
どおんっ!
「何故そうなる!」
リーゼが小声で叫ぶ。
どおんっ!
「普通の蚕は!」
どおんっ!
「桑の葉を!」
どおんっ!
「もっと静かに食うものだ!」
クロエが言った。
「これは蚕なのか?」
「違う! だから余計におかしいと言っている!」
エサになる木の取り合いらしい。片方が諦めるまで、二匹は正面衝突を繰り返していた。木の方も無事ではない。幹へ巨大な身体がぶつかるたび、枝が折れ、葉が落ちる。
ノアが小声で言った。
「だから中央には入らない」
リーゼは芋虫を見たまま答える。
「当然だ」
「僕たちが欲しいのは、あいつらじゃない。成虫が出た後の繭だけ」
「芋虫へ近づく必要はないのだな?」
「ない」
「それなら、まだいい」
エヴァが笑った。
「そう言ってられるのも今のうちだぞ」
「余計なことを言うな!」
繭は、森のさらに奥にいくつも見えた。白く巨大な塊が、木や岩の間に固定されている。その多くは、芋虫たちのいる場所に近い。
ノアは手前で止まった。
「欲張らない。端のだけ」
エヴァも頷く。
「中央にいいのがあっても無視だ。食事中の進路と、ぶつかってる奴らの近くには行くな」
リーゼはすぐに周囲を確認する。
「退路を先に決める。あの岩の右を通って戻る。倒れそうな木の下には入るな。繭を取ったら、その場で包む」
「了解」
ノアが答えた。
リーゼが少し止まった。
「……何で小官が、養蚕の繭拾いで退路確認を指示しているんだ」
エヴァが言う。
「向いてるぞ」
「嬉しくない!」
群れの外縁に、一つだけ条件の良い繭があった。大きな裂け目が開いている。成虫が既に抜けた跡だった。周囲に芋虫はいない。食われている木もない。
ノアが指差す。
「あれにしよう」
クロエが目を細める。
「内部に動きはない」
アスラも周囲を見る。
「こちらへ近づいている個体もいない」
リーゼが頷いた。
「よし。静かに行くぞ」
繭へ近づく。近くで見ると、さらに大きかった。人間が何人も中へ入れそうな白い塊が、幾重もの繊維で出来ている。
ティセラの目が輝いた。
「繊維一本の太さからして違いますね」
「教授、今は観察だけだ」
「分かっています」
「その声は信用できん」
ノアが根元を見る。
「ここだけ切る」
繭全部を乱暴に引き剥がすことはしない。一本ずつ。なるべく音を立てず。成虫の鱗粉が残っている可能性があるので、素手でも触れない。
エヴァが繭を支える。
「もう少し上だ」
クロエが反対側を持つ。
「これでいいか?」
「うん」
アスラとリーゼも加わる。
最後の繊維が切れた。巨大な繭が、ゆっくりと外れる。シズクも下から支えた。
「この前、魔物の糸で褌を作ればいいと言われた時は、本当に冗談だと思っていました」
エヴァが言う。
「冗談じゃなかっただろ」
「それが一番困るのです!」
リーゼが小声で言った。
「雑談は戻ってからだ。包め」
大きな布を広げ、繭全体を覆う。鱗粉が飛び散らないように縛る。
一つだけ。
ノアは他の繭を見なかった。
「帰ろう」
ティセラが少しだけ奥を見る。
「もう一つくらい」
「教授」
リーゼが低い声で呼ぶ。
「……帰ります」
「よろしい」
撤収は静かだった。巨大芋虫たちは、こちらに気づいているのかいないのか分からない。一匹は相変わらず木を食べている。むしゃむしゃ。別の二匹は、まだ餌の木を巡って衝突している。どおんっ。どおんっ。
リーゼはもう突っ込まなかった。
「見るな。進め」
完全に上官の声だった。
森を抜ける。さらに歩く。
かなり離れてから、ノアが言った。
「もう大丈夫かな」
リーゼは周囲を見る。
「まだ防護は外すな。風向きが分からん。もう少し離れる」
エヴァが笑う。
「慎重だな」
「鱗粉を吸い込んでから後悔するより百倍ましだ」
ティセラも頷く。
「同意します」
「教授は採集したいだけだろう」
「否定はしません」
さらに歩いた。森がかなり遠くなったところで、ようやくリーゼも立ち止まる。
「ここならいいだろう」
その時だった。
遥か後方から、低い音が聞こえた。
ばさっ。
一度。ただの羽音とは思えない。空気そのものが押されたような、重い音だった。
全員が振り返る。
森の向こうから、巨大なものが浮かび上がった。まず翅が見えた。大きい。森の木々の上へ、巨大な翅が現れる。次に胴体。長い触角。芋虫だったものが変態した、巨大な成虫。
リーゼは何も言わなかった。
成虫が翅を打つ。
ばさっ。
遠くにある木々の梢が揺れる。
もう一度。
ばさっ。
巨大な身体が、さらに高度を上げた。
クロエが小さく言う。
「……あれが成虫か」
ノアが答える。
「そう」
アスラも、遠くの影を見上げたままだった。
「洒落にならんな」
「貴様が言うのか」
リーゼがようやく口を開いた。
巨大な成虫は旋回することもなく、そのまま遠くへ向かって飛んでいく。翅を一度打つたびに、身体が大きく前へ進む。やがて森より小さくなり、それでもまだ空に影が見えた。
リーゼが指差す。
「小官の知っている蚕は、あんなものにはならない!」
エヴァが笑う。
「でかいだろ」
「でかいで済ませるな! あれは洒落にならん化け物だ!」
ティセラが遠ざかる成虫を目で追う。
「鱗粉の飛散範囲も、想定より広く取った方がよさそうですね」
リーゼが即座に振り返る。
「教授、追いかけるなよ」
「追いません」
「本当だな?」
「今日は」
「今日は、を付けるな!」
シズクは、布に包まれた巨大な繭を見る。
「これが、服や下着になるのですね」
「なるよ」
ノアが答える。
「煮て、洗って、糸にして、織ればね」
リーゼは巨大な繭を見る。次に、遥か彼方へ消えようとしている巨大な成虫を見る。そしてもう一度、繭を見る。
「……命懸けの養蚕だな」
ノアが少し考えた。
「飼ってないから、養蚕ではないかな」
リーゼが勢いよく振り返った。
「そこを訂正するな!」
エヴァの笑い声が響く。
シズクも繭へそっと手を置いた。厚い防護布越しでも、内側の繊維の柔らかさが少し分かる。この前触った布の肌触りを思い出した。
悔しいが、本当に良い糸なのだ。
「……褌くらいなら」
シズクが小さく呟く。
エヴァがすぐに聞きつけた。
「作るか?」
「今のは独り言です!」
「聖者、シズクの分も取っとけ」
「はいはい」
「聞かないでください!」
巨大な繭を抱えた一行は、そのまま館へ戻っていった。遥か後ろでは、巨大な成虫が、とうとう空の彼方へ消えていた。




