第六十八話 谷底では、鯨のようなものが空を飛び、魚のようなものがそれを斬る
クロエとアスラが周辺の地形を知っておきたいと言ったので、その日は谷底の大きな水場まで歩くことになった。水面は遠くまで続き、遥か向こうでは巨大な滝が落ちている。水煙は雲のように広がり、その先を隠していた。
クロエはしばらく周囲を眺めてから言った。
「広いな。世界を分つ谷とは、かなり印象が違う」
「お前ら、世界を分つ谷の底を見たことねえんだろ」
エヴァに言われ、クロエは少し考える。
「比較できないな」
「それもそうだ」
その時、水面が大きく盛り上がった。黒い影が、水の下をゆっくり移動している。
リーゼが目を細めた。
「何かいる」
最初は鯨だと思った。リーゼの世界にも海があり、鯨という巨大な生物もいる。
だが、その影は大きすぎた。
「……待て。大きすぎないか?」
次の瞬間、水面が爆発した。
巨大な身体が、水を押し分けて飛び出した。形だけなら鯨に似ている。しかし、リーゼの知る鯨とは比較にもならないほど巨大だった。
しかも、その巨体は落ちてこなかった。
そのまま空へ上がっていく。
「飛んだ」
クロエが言う。
「飛ぶな」
「いや、飛んでいるだろう!」
リーゼが思わず振り返る。アスラも珍しく無言で空を見上げていた。
「私たちのところには、あんなものはいない」
「巨大生物は?」
「ほとんどいない」
「魔物も?」
「大半は人間くらいだ。大きな種類がいないわけではないが、あれとは比べ物にならん」
リーゼの顔に、少しだけ安堵が浮かぶ。
「貴様らの世界、そこはまともなのだな」
その瞬間だった。
水中から、別の巨大な影が一直線に飛び出した。
今度のものは細長い。魚のように見えたが、それもまた途方もない大きさだった。
巨大な魚は、水から飛び出した勢いのまま、空を飛んでいた鯨のようなものを横切った。
何も起きなかったように見えた。
一瞬だけ。
次の瞬間、鯨のような巨体が、真ん中から二つに分かれた。
「……は?」
リーゼの口から、それしか出なかった。
二つになった巨大な身体が水へ落ちる。轟音とともに水柱が上がり、周囲へ激しい波が広がった。
魚のようなものは、そのまま空を滑るように飛び、遠くの霧の中へ消えていった。
クロエがエヴァを見る。
「今のは何だ?」
「知らん」
「知らないのか?」
「たまにある」
リーゼが叫んだ。
「何が『たまにある』んだ!」
エヴァは水面を見ながら、さほど気にした様子もない。
「でかい奴が、もっと強い奴に食われたりする」
「今のは食っていなかった! 斬ってそのまま飛んでいったぞ!」
「後で戻ってくるんじゃねえか?」
「知らないんだろう!」
その横で、ティセラはものすごい勢いで記録していた。クロエとアスラはしばらく黙ったまま、水面を眺めている。
やがてクロエが言った。
「私たちの世界は、生態系だけならかなり平和だな」
リーゼがすぐに振り返った。
「貴様からその言葉を聞くとは思わなかった」
アスラは岸辺の植物を見る。
「畑に突然、巨大な怪物植物が生えることもない」
シズクが聞いた。
「そういう植物をご存じないのですか?」
「知らん」
クロエも頷く。
「エロ植物なら分かるが」
リーゼの顔から、先ほどの安堵が消えた。
「何故そちらだけ分かる」
「図鑑があるからだ」
「図鑑?」
「使う側にも知識が必要だし、使われる側にも必要だ」
アスラが当然のように答える。
リーゼは額を押さえた。
「せっかく貴様らの世界にまともな部分を見つけたと思ったのに!」
クロエは不思議そうだった。
「巨大生物がいないという話と、エロ植物は関係ないだろう」
「そういうところだ!」




