第六十六話 分かつ河の水面は、誰も見たことがない
その日の夕食は、以前よりずっと人数が多かった。シズク、エヴァ、リーゼ、ティセラ、それにクロエとアスラ。ノアだけは、いつものように軒下にいる。戸は開けてあるので会話には加われるが、女たちからは意識して距離を取っていた。
クロエとアスラも、もうその理由は聞いている。二人とも最初こそ奇妙そうに見ていたが、今ではノアが軒下に座っていても何も言わなかった。
「改めて確認しておきたいのですが、お二人が落ちた場所についてです」
食事の途中、ティセラがそう切り出した。クロエは手を止めることなく答える。
「世界を分つ谷だ。巨大な谷で、底は見えない」
「向こう岸へ渡ることはできるのですか?」
シズクが尋ねると、アスラが頷いた。
「できる。大きな橋がいくつもある。人も荷も通るし、軍が使うものもある」
「では、普通の方でも渡れるのですね」
「ああ。忍者なら橋を使わないこともあるが」
リーゼが嫌そうな顔をした。
「壁を走ったり、飛び移ったりするのだろう」
「そうだ」
「そこはもう聞かない。聞くと疲れる」
クロエが少し不思議そうな顔をしたが、リーゼは無視した。ティセラは記録を続けながら、次の質問へ移る。
「では、分かつ河は?」
「ある、と言われている」
クロエの答えに、ティセラの筆が止まった。
「言われている?」
「水面を見た者はいない」
今度はアスラが答えた。シズクも目を丸くする。
「河なのに、ですか?」
「谷が深すぎる。橋の上からでも底は見えん」
クロエはそう言ってから、指先で下を示した。
「ただ、遥か下から、ずっと巨大な水音が聞こえてくる。静かな時なら、橋の上でも分かるくらいにな」
「だから、分かつ河と呼ぶのですね」
「そういうことだ」
ティセラの質問が一気に細かくなった。
「幅は?」
「知らん」
「深さは?」
「知らん」
「流れる方向は?」
「知らん」
「分岐は?」
「知らん」
「地下へ潜っている可能性は?」
「知らん」
クロエが少し呆れたように言う。
「だから、水面を見た者はいないと言っただろう」
ティセラは筆を止め、少し考えた。
「つまり、お二人の文明でも、その先は完全に未踏領域なのですね」
軒下からノアが言った。
「二人のところでも、そこから先は地図の外なんだね」
「ああ。私たちも谷へ落ちた後、どこを通ったか分からん」
アスラが頷く。シズクは館の向こうを流れる水へ目を向けた。
「では、この谷底の水と、分かつ河がどこかで繋がっている可能性もあるのでしょうか」
「可能性はあります。ただし、今のところは仮説だけです」
ティセラがすぐに釘を刺す。シズクも素直に頷いた。
その横で、リーゼだけが食事の手を止めていた。眉間に皺を寄せたまま、何かを考えている。
「……待て」
エヴァが肉を噛みながら見る。
「何だ?」
「小官は、世界壁を越えようとしていた」
「そうだな」
「もし、あの横断に成功していたら」
リーゼはクロエとアスラを見る。
「貴様らのところへ出ていた可能性もあるのか?」
クロエは肩をすくめた。
「位置関係が分からない以上、否定はできない」
「そもそも、私たちが本当に別世界なのか、遠く隔てられた同じ世界なのかも分かっていないからな」
アスラも続ける。リーゼはしばらく黙り込み、それからゆっくり口を開いた。
「つまり小官は、横断に成功したら、電脳忍者と魔術忍者のいる土地へ単機で飛び込んでいた可能性がある」
「安全都市へ出れば普通だぞ」
クロエが言う。
「安全都市ならな」
アスラも付け足した。
リーゼの眉間の皺がさらに深くなる。
「その言い方が、もう不安なんだ!」
エヴァが笑った。
「でも街ならいいじゃねえか」
その言葉で、リーゼの動きが止まった。ゆっくりとエヴァを見る。
「……待て」
「またか」
「逆もあるのか」
「何がだ」
「横断した先が、貴様のところだった可能性も」
エヴァは少し考えた。
「まあ、分からねえならあるんじゃねえか?」
リーゼの顔から、目に見えて血の気が引いた。
「以前聞いた、貴様の黒」
「俺の馬か?」
「聖者を二人、縦に並べたくらい大きくて、草も肉も食って、弱い人間なら食うという、あの軍馬」
「ああ。黒だな」
「小官は、あれがいる地方へ飛ぼうとしていた可能性もあるのか」
エヴァは何でもないことのように答えた。
「黒はいい馬だったぞ」
「馬の評価を聞いていない!」
ティセラが以前の記録を思い出したように言う。
「『大型馬類。広食性。機会捕食性。人間を捕食する場合あり』ですね」
「教授、今それを読み上げるな!」
軒下でノアが笑った。
「世紀末生態圏」
「それ、やっぱ格好いいな」
エヴァが嬉しそうに言う。
「褒められていない!」
リーゼは両手で顔を覆った。
「小官は、一体何を目指して飛んでいたんだ……」
シズクが少し考えてから、優しく答えた。
「向こう側、では?」
「それしか分かっていなかったんだよ!」




