第六十五話 大人しくなっても、宿敵二人の口は止まらない
翌朝。
クロエとアスラは、妙に大人しかった。
少なくとも、手は出していない。
館の前には昨日の超巨大な魔物の肉がまだ残っており、ノアとエヴァが朝から使える部分と捨てる部分を分けている。
正確には、ノアは少し離れた場所から指示を出し、実際に巨大な肉塊を持ち上げているのはほとんどエヴァだった。
クロエとアスラは、その様子を黙って見ている。
リーゼが二人を見た。
「今日は静かだな」
「何だ」
クロエが答える。
「いや。昨日までなら、顔を合わせた時点で殺すだの手足を落とすだの言っていただろう」
アスラがエヴァを見る。
エヴァは自分より大きな肉塊を片手で持ち上げ、そのまま荷台へ放り込んでいた。
どすん、と地面が揺れる。
「……状況判断はする」
「私もだ」
クロエも答えた。
リーゼが目を丸くする。
「できたのか、状況判断」
「貴様は私を何だと思っている」
「会えば宿敵を肉ダルマにしようとする女だ」
「間違ってはいない」
「間違っていないのか!」
シズクも二人の視線の先を追った。
エヴァは今度は、超巨大な魔物の骨らしきものを掴んでいる。
太い。
シズクの身体より太い。
エヴァは少し力を入れた。
ばきり。
折れた。
クロエとアスラが揃って目を逸らした。
シズクが尋ねる。
「やはり、昨日のことが理由ですか?」
「昨日?」
クロエが聞き返す。
シズクは森の方を見る。
「巨大な魔物を、エヴァが殴ったことです」
「殴った、で済ませるな」
アスラが低い声で言った。
「肉片になったぞ」
クロエも頷く。
「再接続できる大きさの切断ではない。あれをまともに受けたら、神経ケーブルを出す断面そのものが残らん」
「私も同じだ。肉触手を伸ばす以前の問題になる」
リーゼは、二人が初めて真面目に危険判定をしていることに気づいた。
「つまり、エヴァが怖いのか?」
「怖いとは言っていない」
「警戒しているだけだ」
声は揃わなかったが、意味はほぼ同じだった。
少し離れたところからエヴァが振り返る。
「何か言ったか?」
「何も」
「何も言っていない」
今度は完全に揃った。
リーゼが小さく笑った。
「怖いんじゃないか」
「違う」
「違う」
エヴァは気にせず作業へ戻った。
クロエが小声で言う。
「ここであいつに喧嘩を売るほど馬鹿ではない」
アスラが鼻で笑った。
「昨日までは私に喧嘩を売っていたがな」
クロエの目が細くなる。
「お前とあれを一緒にするな」
「何だと」
「お前なら殺せる」
「それはこちらの台詞だ」
リーゼが顔をしかめた。
「ほら始まった」
ただし。
二人とも立ち上がらない。
武器にも手を伸ばさない。
口だけだった。
クロエが腕を組む。
「次にやる時は、前より念入りに肉ダルマにする」
「やってみろ」
アスラも笑う。
「その後はどうするつもりだ?」
「決まっている。神経へ繋ぐ」
「またか」
「今度は感覚の上限をもっと上げる」
アスラが鼻で笑った。
「前もそう言っていたな。それで私が途中から喜んでいた、とでも言いたいのか?」
「事実だろう」
「違う」
「声が変わっていた」
「痛かっただけだ」
「途中から明らかに違った」
「違う!」
アスラがクロエを指差した。
「貴様こそ、私が術を深く通した時は散々良い反応をしていただろう!」
「していない」
「もっと続けろと言った」
「尋問を続けろと言ったんだ!」
「同じことだ」
「違う!」
シズクが二人を見比べる。
「昨日も同じ話をしていましたね」
「事実関係がまだ訂正されていない」
クロエが言う。
アスラも腕を組む。
「こいつが嘘を認めないからだ」
エヴァが肉を運びながら笑った。
「お前ら、結局そこへ戻るんだな」
「戻っていない!」
二人の声が揃った。
リーゼが頭を抱える。
「手は出さなくなったのに、口喧嘩の内容が悪化していないか?」
ティセラは少し離れたところで記録している。
「興味深いですね。エヴァという明確な外的抑止力によって、身体的な攻撃だけが抑制されています」
「教授、分析するな」
「しかし、攻撃衝動そのものが消えたわけではありません」
「見れば分かる!」
クロエとアスラは、まだ睨み合っていた。
だが突然、アスラが思い出したように言う。
「そういえば」
「何だ」
「ネイラが、またお前の真似をしていたぞ」
クロエの表情が変わった。
「何をした」
「古い術具を全部ばらした」
「戻したのか?」
「戻した」
クロエの口元が少し上がる。
「そうか」
「しかも、元より使いやすくしてな」
今度ははっきり嬉しそうな顔になった。
アスラが続ける。
「あの子は本当に貴様に似た。構造を一度見れば覚える。私が説明しなくても勝手に問題を見つける」
「当然だ」
「そこは腹が立つ」
「何故だ」
「褒めると、貴様まで得意そうな顔をするからだ」
「私に似て賢いと言ったのはお前だろう」
「事実だから仕方ない」
クロエは満足そうだった。
少しして、今度は自分から尋ねる。
「ルヴァナは?」
アスラもすぐに反応した。
「何かあったか?」
「この前、私の家の裏で倒木があった」
「怪我は?」
声が少し強くなる。
クロエは首を振った。
「ない。ルヴァナが一人で退かした」
アスラが笑う。
「そうか!」
「かなり太い木だった」
「私に似たな」
「ああ」
クロエは素直に頷いた。
「力が強い。怖がらない。誰かが困っていると考える前に身体が動くところも、お前によく似ている」
アスラの顔が、露骨に嬉しそうになる。
「良い娘だろう」
「可愛い」
「当然だ」
「私の娘だからな」
「私の娘でもある!」
そこで二人はまた睨み合う。
しかし、今度はどちらも少し笑っていた。
シズクがその様子を見て言う。
「娘さんのお話をしている時は、本当に仲が良いのですが」
二人の顔から笑みが消えた。
「違う」
「何が違うのでしょう」
「ネイラとルヴァナが可愛いだけだ」
アスラが言う。
クロエも頷く。
「こいつとの関係は何も変わらん」
リーゼが嫌そうな予感を覚える。
「つまり?」
クロエはアスラを見る。
「殺す」
アスラもクロエを見る。
「殺す」
「まだ殺すのか!」
「当然だ」
クロエは何を不思議がっているのか分からない顔だった。
「一回で終わるとも言っていない」
アスラも続ける。
「戻ってきたら、また殺す」
「次は私が先だ」
「前回もそう言って負けただろう」
「死亡判定の数を勝手に増やす奴が言うな」
「五回だ」
「四回だ!」
リーゼが机を叩く。
「そこへ戻るな!」
シズクは別のところが気になった。
「ですが、本当に亡くなってしまったら、娘さんたちが悲しむのではありませんか?」
二人が止まる。
その質問には、すぐには答えなかった。
クロエが先に言った。
「戻る前提で殺す」
アスラも頷く。
「再生も復帰もできないような殺し方は、こいつにはしない」
リーゼが目を細める。
「妙なところに線引きがあるな」
「当たり前だ」
アスラが言う。
「クロエが本当に戻らなければ、ネイラが悲しむ」
クロエも静かに続けた。
「アスラが戻らなければ、ルヴァナが悲しむ」
「では、殺さなければよいのでは?」
シズクが、もっともなことを言った。
二人が同時にシズクを見る。
「それは別だ」
また声が揃った。
リーゼが天を仰いだ。
「何が別なんだ!」
クロエは当然のように答える。
「殺したいものは殺したい」
アスラも同じだった。
「娘は大切だ」
「両立するのか?」
「する」
「する」
「するのか……」
リーゼの声が弱くなった。
軒下では、ノアが朝食を食べながら話を聞いていた。
もちろん館の中へは入らず、クロエとアスラからも距離を取ったままだった。
「でも」
ノアが声を掛ける。
二人が戸口を見る。
「少なくとも、この辺で殺し合うのはやめてくれるんだよね?」
クロエとアスラは、一度エヴァを見る。
エヴァはちょうど超巨大魔物の骨をもう一本折ったところだった。
ばきん。
二人はノアへ視線を戻した。
「当面はな」
「ここでは控える」
リーゼが驚く。
「素直だ」
「判断だ」
「戦略的撤退だ」
エヴァが聞きつけた。
「別に外でもやるなとは言ってねえぞ」
クロエとアスラがエヴァを見る。
「いや」
「遠慮しておく」
エヴァが笑う。
「何だ、急に大人しくなったな」
二人とも答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
昨日。
二人が力を合わせて巨大な魔物を倒した。
その後、それを食うほどの超巨大な魔物が現れた。
そしてエヴァが、一発殴った。
肉片になった。
以来。
クロエとアスラは、エヴァの前では非常に物分かりが良くなった。
ただし。
口だけは別だった。
「次にお前を捕らえたら、前回より長くやる」
「望むところだ。どうせ途中で貴様の方が――」
「誰がだ!」
「事実だろう!」
「殺す!」
「何度でも殺してみろ!」
エヴァが振り返る。
二人とも黙った。
数秒。
エヴァが作業へ戻る。
クロエが小声で言う。
「……そのうちな」
アスラも小声で答える。
「……覚えていろ」
リーゼはそれを聞いて、深く息を吐いた。
「大人しくなったのではなく、エヴァが見ている時だけ大人しくなったのか」
ティセラが頷く。
「学習はしています」
「その評価でいいのか?」
シズクは二人を見ながら少し笑った。
娘の話をすれば、相手に似たところまで素直に褒める。
相手が本当に帰らなければ、娘が悲しむから困ると言う。
互いの娘を、自分の娘として大切にしている。
それでも。
相手は殺す。
戻ってきたら、また殺す。
何度でも殺す。
そして今日も。
二人は相手を睨みながら。
娘たちの自慢だけは、嬉しそうに続けていた。




