第六話 谷底の朝は、昨夜の続きから
朝、シズクは水の音で目を覚ました。
大瀑布の轟音ではない。もっと近く、さらさらと流れる水と、ときどき木の何かが水を噛むような、ごぽん、ごぽん、という低い音だった。
目を開けば、昨日と同じ巨大な梁と高い天井がある。身体の下には畳。障子越しに柔らかな朝の光が差し込んでいる。
世界の果てから生け贄として落とされ、死ぬはずだった自分が今日も生きている。そこまで思い出したところで、続いて昨夜のことまで鮮明に蘇り、シズクは掛け布団を頭まで引き上げた。
「……忘れましょう」
無理だった。
見てはいけないものを見た。最初は、エヴァが襲われているのだと思った。だが、違った。エヴァは自分から聖者へ手を伸ばしていた。何度思い返しても、そこだけは変わらない。
「……起きましょう」
いつまでも布団へ隠れているわけにもいかない。シズクは借りた上衣とずぼんを身につけた。足を一本ずつ布の中へ通す衣服にも、少しだけ慣れてきた。小袖と袴しか知らない身には未だ奇妙だったが、動きやすさだけは認めざるを得ない。裾を引きずらない。しゃがんでも乱れにくい。谷底で暮らすための服というなら、確かに理にかなっていた。
廊下へ出ると、巨大な館は昨夜とはまるで違って見えた。高い窓から朝の光が入り、太い床板へ明るい四角形を作っている。遠くでは大瀑布が絶えず鳴っているのに、一晩過ごしただけで、その轟音が少し背景へ退いた気がした。
台所へ向かう。
包丁の音が聞こえる。
エヴァがいた。
金髪を後ろでまとめ、袖を捲り、大きな鍋をかき混ぜている。
「起きたか、シズク」
「お、おはようございます、エヴァ」
「眠れたか?」
「……はい」
「嘘が下手だな」
シズクは俯いた。
エヴァは口元を歪めた。
「そうだ。昨夜は悪かったな」
シズクの肩が跳ねた。
「え?」
「お前が見てたのに気づいた後の話だ」
「わ、私は、その……本当に、申し訳なく……」
「気にするな。むしろ、あの後盛り上がった」
「盛り上がった?」
「ああ。聖者が覗かれながらヤるってので、さらにスイッチ入ったらしくてな」
シズクの顔が一気に赤くなった。
「聖者が?」
「耳元で『シズクに見られているぞ』って囁かれて、俺も何かこう、箍が外れたというか」
「エヴァ……」
「それでな、俺も自分で言い始めたんだ。今、聖者の逸物が、俺の腹のどこを押し上げてるか、見てくれシズクって。そうしたらな、自分で説明しながらイッた。何度もな」
シズクは声を失った。
「縛られたまま、開脚したまま、聖者に持ち上がるられて背面座位で、だ。聖者も何度も中に出してた」
「背面……座位……?」
「後ろから座ったまま、ってことだ」
「そんな体勢で……」
「でも途中から、もう言葉にならなくなってな。声が変になった」
エヴァは菜箸で鍋をかき混ぜながら、思い出したように続けた。
「昨晩、俺が『んお゛っ……ぉ…んぐっ……』とか叫んでたろ。あれだ」
シズクは昨夜の音を思い出し、全身が熱くなった。確かに、戸の向こうから聞こえていた。エヴァのものとは思えない、喉の奥から絞り出すような声が。
「腹の奥が聖者のデカ太チンポで押されてると、自然と出てくる」
「ち、ちん……」
「聖者の知識だと、子供を孕む子宮が押されるとか、その近くを押されるとか、理由はあるらしいがな」
エヴァは平然と言ってのける。
「まぁ、オホ声のときはイキっぱなしで、頭が真っ白になってるから、わからん」
「オホ声……? イキっぱなし……?」
「ああ。何回イッたか覚えてない。数える余裕なんてなかった」
「朝から言わないでください!」
「お前がもう来ないと思ったから戸を閉めたけどな。閉めた後も、結構な回数イかされた」
「もう結構です!」
シズクの声が台所へ響いた。
エヴァはますます楽しそうに笑った。
「分かった分かった。朝から刺激が強かったな」
「エヴァには恥じらいというものがないのですか」
「あるぞ」
「どこに?」
「必要な時に使う」
「今使ってください!」
「嫌だ。面白い」
シズクは頭を抱えた。
「まあ安心しろ。毎回お前に見せるために戸を開けるわけじゃない」
「毎回という言葉を使わないでください」
「ただ、俺と聖者は夜だけとも限らんからな」
シズクは嫌な予感を覚えた。
「何がですか」
「やる時間と場所だ」
「……夜だけではない?」
「二人の体調と気分次第だ。昼でもするし、館の外でもする」
「外で?」
「ああ。だから見かけても放っとけ。あと、もし俺が縛られてたり、変な声出してても、助けに入る必要はない」
シズクは何も言えなくなった。
エヴァはそこで少しだけ表情を改めた。
「昔とは違う。今は俺が選んでる。俺が望んでる。だから、もし見かけても止めようとしないでくれ」
シズクは小さく頷くことしかできなかった。
それを確認すると、エヴァは何事もなかったように椀を置いた。
「さて、食え。今日は俺についてこい」
「今の話から普通に朝食へ戻れるのですか……」
「腹は減るだろ」
正しい。
正しいのが腹立たしかった。




