第五話 ここは世界の果てではない
シズクは大広間の椅子へ座らされた。椅子が高いため、両足が床へ届かない。
館の奥で物音がするたび、身体が跳ねた。
しばらくして、エヴァが戻ってきた。白い厚手の衣をまとい、濡れた髪を布で拭いている。形はシズクの国の着物に少し似ていたが、帯ではなく腰紐で前を留めていた。
「ばすろーぶ、という」
エヴァはシズクの向かいへ座った。
「聖者が昔いた世界の衣服だ。湯浴みの後に着る」
「先ほどの方が、聖者様なのですか」
「そうだ」
「その……人では、ないのですか」
「俺の国じゃ、オーガと呼ばれていた魔物だ。人を犯して、孕ませ、数を増やす。俺も何匹産んだかわからん。」
「怖くはないのですか」
「今さら?」
エヴァは鼻で笑った。
「最初は警戒したさ。目を覚まして、いきなり殴りかかったくらいにはな」
「ですが……」
「それと今とは別の話だ」
エヴァは腕を組んだ。
「聖者は俺を傷つけなかった。俺が望まないこともしなかった」
「では、先ほどのことは……」
「俺が望んだ」
迷いのない答えだった。
シズクは昼間聞いた話を思い出す。俺の身体をどう扱うかは、鎖を持った連中が決めた。だが、俺があいつらを主人と認めるかどうかは、俺が決める。
今なら、その言葉の意味がほんの少しだけ分かる気がした。
「俺と聖者は夫婦みたいなものだ。儀式を挙げたわけじゃないが、互いにそう思っている」
エヴァは立ち上がり、廊下へ向かって声をかけた。
「聖者。入っていいぞ」
重い足音が近づいてきた。
戸口へ現れた男を見て、シズクは椅子の背へ張りついた。身長は二メートルほどある。頭が戸枠へ届きそうだった。館の扉や天井が大きく造られている理由を、シズクはようやく理解した。
額には黒い角。髪も黒い。目は金色。
簡素な上衣を着ているが、その下の身体は人間の男とは比べものにならないほど大きく逞しい。男は怯えるシズクを見て、少し離れたところで足を止めた。
「僕はノアだ」
低い声だった。
「ここでは、聖者と呼ばれている」
「聖者様……」
「様はいらない」
「では、聖者……」
隣でエヴァが笑った。
「それでいい。俺もそう呼んでる」
ノアはシズクの様子を確かめるように見た。
「身体はどう?」
「まだ少し胸が痛みます」
「明日も休んで。話は体調が戻ってからでいい」
「私は、ここにいてもよいのでしょうか」
「行く場所があるなら止めない。ただ、上へ戻る道はまだ見つかっていない」
シズクは俯いた。
戻れたとしても、里では自分はすでに死者だ。生け贄が帰ってくれば、神の怒りを持ち帰ったと恐れられるかもしれない。
「急いで決めなくていい」
ノアはそれだけ言った。
シズクはこくりと頷いた。
◇
和室へ戻っても、心臓の鼓動はなかなか治まらなかった。
布団へ潜り込んでも、まぶたを閉じるたびに、さきほど目にした光景が浮かんでは消える。
戸の向こうの二人。戦場を生き抜いたというエヴァが、あれほど無防備な姿を見せていたこと。巨大な聖者の腕の中で、何も隠そうとしていなかったこと。
シズクには理解できないことばかりだった。
男女が夫婦になるとは、ああいうことなのだろうか。神殿では教えられなかった。里の誰も話してはくれなかった。
だからこそ、恐ろしいはずの光景なのに、不思議と目を逸らせなかった。
昼間。
エヴァは自分の過去を語った。
身体を奪われた。
自由を奪われた。
人としての尊厳さえ踏みにじられた。
それでも心だけは渡さなかった。
そんな女が、今は自ら誰かへ腕を回し、自らその腕の中へ身を預けていた。それは屈服ではない。今日一日で生まれたものでもない。
幾度も言葉を交わしたのだろう。
幾度も同じ食卓を囲んだのだろう。
傷の残る夜を越えたのだろう。
触れられることが怖かった時には、聖者は待った。
拒めば退き。
求めれば受け止めた。
そうした日々が、何度も重ねられてきた。だから今、エヴァはあれほど無防備になれる。同じように身体が震えていても。同じように声が乱れていても。
奪われることと、自ら選ぶことは違う。
エヴァはもう、誰にも奪われてはいなかった。自分の身体を、自分の意思で誰かへ預けることができる。それができるところまで、あの女は長い時間をかけて戻ってきたのだ。
シズクには、それを何と呼べばいいのかまだ分からなかった。
愛。信頼。夫婦。
どの言葉もしっくりこない。
ただ、なぜか神聖なものを見たような気がしていた。あれは何だったのだろう。答えはまだ見つからない。けれど、一つだけ確かなことがある。
ここは神の国でも、魔界でもない。
生け贄として命を終える場所でもない。
ここには、人が畑を耕し、食卓を囲み、笑い、傷を癒やし、誰かを信じて生きている日々がある。世界の果てだと思っていた場所には、確かに暮らしがあった。そして、自分はその暮らしの入口へ立ったばかりなのだ。
ここは世界の終わりではない。
ここは――何かの始まりだ。
遠くから微かに館の床が軋む音が聞こえた。シズクは掛け布団を頭まで引き上げた。
「……まだ、するのですか」
誰にも聞こえない声で呟く。返事などあるはずもない。それでも、頬が熱くなる。結局、シズクはなかなか眠ることができなかった。
やがて、遥か頭上にあるはずの空から差し込む光が、谷底を少しずつ白く染め始める。
谷底にも朝が来る。シズクがようやく目を閉じたのは、その頃だった。




