第五十九話 巫女と元王女は、青い魔族の魔法陣を回し蹴りで割る
同じ頃、別の支流を見て回っていたエヴァとシズクも、一人の女を見つけていた。
ノアはさらに別の場所で作業をしているため、ここにいるのは二人だけだった。
「エヴァ、あそこに何かありませんか?」
シズクが木々の間を指した。
浅い水の流れる窪地の先に、長い紫色のものが見える。その下には、青い腕があった。
「人だな」
「青いですが」
「青くても人の形はしてる」
二人はすぐには近づかなかった。
谷底では、見慣れないものへ不用意に手を出さない。シズクも、もう十分にそれを覚えている。
近くに落ちていた細い枝を拾う。
「まず、これで確かめます」
「そうしろ」
少しずつ近づくと、倒れている女の姿がはっきりした。
青い肌に長い紫髪、ティセラのように尖った耳を持っているが、顔立ちも肌の色もまるで違う。
身体はすらりとして手足が長く、腰も細い。その一方で、乳房は非常に大きく、尻も豊かに張っていた。
女の身体には、紫色の忍装束らしきものが張りついている。
近くで見ると布ではなかった。長い紫髪の一部が身体へ伸び、そのまま皮膚の表面を覆って衣服の形を作っている。
そして、何故か乳房は一房ずつ包まれ、乳輪と乳首とヘソと尻と股間の線も分かりやすい。
シズクは女の格好を見て首を傾げた。
「私の知っている忍びの装束とは、かなり違います」
「忍びなのか?」
「分かりません。ただ、あの手のものは武器でしょうか」
女の両手には鉤爪があった。
エヴァが見る。
「近づいたら引っかかれそうだな」
「ですので、先につつきます」
シズクは枝の先で、女の肩を軽く押した。
一度、二度。
三度目で、女の瞼が動いた。
「起きました」
女の目が開く。
黒い眼球の中に、白い瞳が浮かんでいた。
「……貴様ら」
口が開くと、舌の先まで尖っている。
シズクが少し驚く。
「舌も尖っているのですね」
「シズク」
「はい?」
「本人の前で観察を始めるな」
「すみません」
青い女は身体を起こそうとした。
「ここは、どこだ」
エヴァが答える。
「谷底だ」
「どこの領域だ」
「知らん」
女が眉を寄せる。
「貴様は何者だ」
「エヴァ」
「所属は?」
エヴァは少し考えた。
「今は畑」
女が黙った。
シズクが横から補足する。
「以前は、かなり高い身分の方だったそうです」
「余計な情報を足すな」
「畑だけでは誤解されると思いまして」
女の視線が二人の間を動いた。
「貴様らが、私を捕らえたのか?」
「違う」
「流れていたところを見つけました」
「信用できるか」
女が指を動かす。
その瞬間、エヴァとシズクの左右、背後、頭上へ、紫色の魔法陣が一斉に展開された。
シズクが息を呑む。
「エヴァ」
「ああ」
女が低く言う。
「動くな。妙な真似をすれば、その場で焼く」
エヴァは周囲の魔法陣を見回した。
「これが攻撃するのか?」
「試してみるか?」
「分かった」
エヴァはシズクの身体を片腕で抱え、そのまま持ち上げた。
「エヴァ、私は自分で動けます!」
「今は荷物だ!」
「荷物ではありません!」
魔法陣が一斉に強く輝く。
エヴァはシズクを脇へ抱えたまま、片足を軸に身体を大きく回した。
回し蹴り。
伸びた脚が最初の魔法陣へ触れる。
ぱりんっ。
そのまま二枚目、三枚目へと脚が通る。
ぱりんっ、ぱりんっ。
エヴァの脚が大きな円を描き終える頃には、周囲に展開されていた魔法陣がまとめて砕け散っていた。
女が固まる。
「……何をした」
エヴァは足を下ろした。
「蹴った」
「見れば分かる! 何故、魔法陣が蹴りで割れる!」
「知らん」
「知らん?」
「ああ」
女の顔が引きつる。
「術には構成があり、魔力の流れがあり、術式がある。それを足で蹴って割るなど――」
「でも割れたぞ」
「だから、それがおかしいと言っている!」
シズクがエヴァの腕の下から声を掛けた。
「エヴァ、そろそろ下ろしていただけますか?」
「まだだ」
「もう周りにはありません」
「また出すかもしれん」
女は実際、再び手を動かした。
今度はエヴァの足元や木々の間、少し離れた空中へ、次々と魔法陣が現れる。
エヴァが走った。
女が何かをするより先に間合いを詰め、また身体を捻る。
二度目の回し蹴り。
ぱりんっ、ぱりんっ、ぱりんっ。
近くに展開された魔法陣が連続して砕ける。
「何故だ!」
「だから知らんって」
「そんなものが通るか!」
「通ってるぞ」
何度か術を出すうちに、女の動きは明らかに鈍くなっていった。
呼吸も荒くなり、新しく現れる魔法陣も最初ほど速くない。
シズクがそれに気づく。
「エヴァ、かなり弱っているように見えます」
「ああ」
女はもう一度指を動かしたが、光は途中で揺らぎ、形になる前に消えた。
そのまま膝から力が抜ける。
エヴァは今度こそシズクを地面へ下ろした。
「ありがとうございます。次からは、できれば一言いただけると助かります」
「暇があったらな」
女は地面へ倒れた。
それとほぼ同時に、身体を覆っていた紫色のものにも変化が起きる。
髪から伸びていた部分が皮膚から離れ、順に元の長い紫髪へ戻っていった。
やがて身体を覆っていたものは完全になくなる。
「服が髪へ戻りました」
「さっきの術と関係あるのかもな」
「そうかもしれません」
女は完全に意識を失っている。
そして、その時になって初めて、腹の前へ大きな紫色の魔法陣が現れた。
先ほどのものとは出る位置が違う。
攻撃の時はエヴァたちの周囲へ現れたが、今度は女自身の腹の前で静かに回転している。
エヴァが見る。
「これも割るか?」
シズクはすぐに首を振った。
「エヴァ、少し待ってください。先ほどのものとは違うように見えます」
「攻撃じゃねえのか?」
「こちらへ向けられていませんし、この方が意識を失ってから勝手に出ました。しばらく様子を見た方がよいと思います」
「分かった」
二人は少し距離を取って見守った。
魔法陣から出る光は、女の身体へ薄く重なっているように見える。
そこでシズクが、少し離れた草むらに何かが落ちていることへ気づいた。
「エヴァ、あれは腕ではありませんか?」
「ああ、腕だな」
青い左腕が一本、草の間に落ちている。
二人が見ていると、女の肩の切断面から肉色の細いものが伸び始めた。
切断された腕の断面からも、同じものが伸びる。
「触手でしょうか」
「肉みたいだな」
何本もの肉触手が互いを探るように動き、やがて一本が繋がった。
続けて二本、三本。
繋がった触手が縮むにつれ、切断された腕が草の上を引きずられてくる。
「勝手に戻っています」
「便利だな」
「便利で済ませてよいのでしょうか」
腕は肩まで引き寄せられ、切断面同士が合わさった。
腹の前では、先ほどからの魔法陣が回り続けている。
しばらくすると、腕の接合部分も少しずつ閉じ始めた。
シズクがそれを見つめる。
「この魔法陣も、身体を治すことと関係があるのでしょうか」
「そう見えるな」
「ですが、本人に聞くまでは分かりませんね」
「起きたら聞けばいい」
エヴァは女の尖った耳を見る。
「こいつ、ティセラと同じ種類か?」
「耳は似ていますが、他はかなり違います」
「何なんだろうな」
「それも本人に聞きましょう」
二人は、腹の前の魔法陣を消そうとはせず、そのまま少し様子を見ることにした。
何の術なのかは分からない。
ただ、少なくとも今は自分たちへ攻撃しておらず、腕が繋がるのと同じ頃に傷も閉じ始めている。
その程度までなら、二人にも分かった。




