第五十六話 教授は、興味だけで聖者を選ぶ【一般公開版】
ティセラは、三日考えた。
きっかけは、単純だった。ノアを、もっと知りたい。前世の記憶。オーガの身体。異常なフェロモン。治癒作用を持つ体液。谷底の土地への影響。そして、他者へ強い作用を与える身体を持ちながら、本人はそれを利用することを避ける。
研究対象として、非常に興味深い。少なくとも、ティセラ自身はそう整理していた。
夕方。
新しく作った研究室。
まだ棚は半分。机も仮置き。リーゼが設計した二号洗濯機は、今日も外で試運転している。工房は、木工区画と、金属工作、魔法区画へ少しずつ分かれ始めた。便所も増えた、客室の壁もほぼ完成した。
谷底は、わずか数日でまた少し変わった。
ノアは、軒下で工具を研いでいる。
ティセラは、そこへ行った。
「聖者」
「何?」
「あなたと性交してみたいのですが」
がりっ。
砥石が、変な音を出した。
ノアが、ゆっくり顔を上げた。
「……何て?」
「聞こえなかった?」
「聞こえた」
「では」
「どうして?」
ティセラは考える。
「興味があります」
「僕に?」
「あなたの身体に」
ノアが微妙な顔になる。
「もう少し言い方ない?」
「好意があると言えばよいですか?」
「あるの?」
「特には」
「即答だね」
ティセラには恋愛感情はない。嫌いでもない。信用している。一緒に暮らしていて。居心地も悪くない。ただ、それを恋愛だとはまだ思わない。
「興味だけでは駄目ですか?」
ノアは少し黙った。
「駄目とは言わない」
「では」
「でも今日はしない」
ティセラが瞬きをする。
「何故?」
「今日、僕の近くに長くいたから」
「それが?」
「今の判断が僕の影響かもしれない」
ティセラは、少し考える。確かに、今日も増築作業で、かなり長い時間ノアの近くにいた。
「では、離れれば?」
「うん」
「どのくらい?」
「何日か」
「実験ですね」
ノアが笑う。
「そう言えばティセラは納得するんだ」
「はい」
その日から、ティセラは必要な作業以外、ノアへ近づかなかった。
一日。まだ興味がある。
二日。変わらない。
三日。むしろ、自分の意志だという確信が増した。
夕方。
ティセラはまた、軒下へ行った。
「聖者」
ノアが顔を上げる。
「まだ興味があります」
「好意は?」
「特に変わりません」
「そこは変わらないんだ」
「はい」
ノアは笑った。
「分かった」
「では?」
「今日はいいよ」
「随分簡単ですね」
「三日考えたんでしょ?」
「はい」
「ならティセラ自身の判断だと思う」
その夜、二人は何度か確認した。
やめるか。続けるか。今も自分で選んでいるか。
ティセラは、その確認の多さの方へ途中から興味を持った。
「また聞くのですか?」
「聞くよ」
「さっきも答えました」
「今は?」
ティセラは少し考える。
「続けたいです」
「なら分かった」
ティセラは一度、隣室へ戻った。
戻ってきた彼女は白衣を羽織り、眼鏡を指で押し上げた。エヴァへ相談した結果らしい。
「メガネの白衣のお姉さん、だそうです」
ノアはしばらく呆然としていたが、やがて笑った。
「君も大概だな」
「観察対象の好みを反映しました」
「研究じゃなくて、ティセラがしたいことをしてね」
「これも私がしたいことです」
「それならいい」
ティセラは室内を一度見回し、机の上の記録用紙を伏せた。
「今夜の詳細は記録しません」
「どうして?」
「私生活だからです」
ノアは少し驚き、それから嬉しそうに笑った。
扉が静かに閉じた。
翌朝。
ティセラは、いつも通り食卓へ来た。
リーゼが、一度見て、もう一度見た。
「教授」
「はい」
「昨夜」
「聖者と性交しました」
リーゼが机を叩いた。
「聞く前に言うな!」
シズクが身を乗り出す。
「どうでした?」
「お前も聞くな!」
ティセラは考える。
「非常に興味深かったです」
エヴァが笑う。
「またやるか?」
「追加観察には価値があります」
リーゼ。
「研究計画へ入れるな!」
ノアが外の机から言った。
「ティセラ」
「はい?」
「次は、研究だからじゃなくて」
少し考える。
「ティセラがしたい時にしてね」
ティセラは、不思議そうにノアを見る。
「今回も私がしたかったのですが」
ノアが止まる。シズクが笑う。エヴァも笑う。リーゼだけ頭を抱えた。
「何か違いますか?」
ノアは少し考え、笑った。
「いや。それならいい」
その日の午後、ティセラは新しい研究室へ入った。
自分の机。自分の棚。魔宝石。標本。紙。
外では、二号洗濯機の水音。
工房から、リーゼの声。
畑から、シズクとエヴァの声。
さらに遠く、ノアが増築用の木材を削っている。
ティセラは、記録用紙を開いた。
『谷底生活観察』
その下へ。
『観察期間、延長』
さらに。
『終了予定、未定』
眼鏡を直す。
外から。
リーゼの声が響いた。
「教授! 二号機から水が溢れているぞ!」
ティセラが立ち上がる。
「今行きます!」
紙をそのまま机へ置いた。
研究室を飛び出す。
外では、シズクが笑っている。
エヴァも。ノアも。リーゼだけ、本気で困っている。
ティセラは、もう、それを観察するためではなく、一緒に止めるために水場へ走っていった。




