第五十三話 洗濯物は、昨夜のことをよく覚えている【一般公開版】
朝食の後、シズクは洗濯場へ向かった。
籠は二つあった。
昨日の草刈りで汚れた作業着。泥の付いた手拭い。汗を吸った上衣。
一つ目は、いつもの洗濯物だった。
問題は、二つ目である。
シズクは籠の前で止まった。
「…………」
昨夜、エヴァと聖者が使っていた寝具。
それだけなら、もう何度も洗っている。この谷底へ来たばかりの頃なら、籠の中身を見るたびに顔を赤くしていた。
今では。
「また多いですね」
で済む。
だが、今日は違う。シーツを持ち上げる。昨夜、そこにいた自分も。
シズクは静かにシーツを戻した。
「……何をしているのでしょう、私は」
「洗濯だろ?」
背後から声がした。
シズクの肩が跳ねた。
「エヴァ!」
「何だよ」
エヴァが籠を覗く。
「ずいぶん考え込んでたな」
「何でもありません」
「昨日のこと思い出してたか?」
「思い出していません」
「嘘つけ」
「嘘ではありません」
「顔真っ赤だぞ」
「朝から働いていますので」
「まだ洗濯始めてないだろ」
シズクは答えなかった。
エヴァが笑う。
「昨日は覗くだけじゃ済まなかったもんな」
「エヴァ!」
「呼んだら来たのはシズクだろ」
「それは……」
「嫌だったか?」
シズクが止まる。
嫌だった。そう言えば、話は簡単だった。だが、昨夜、扉の隙間から見ていた。見つかった。呼ばれた。逃げることもできた。それでも、自分から部屋へ入った。そして、二人の前にいた。
シズクは小さく言った。
「……嫌では、ありませんでした」
「ならいいだろ」
「よくありません」
「何で?」
「恥ずかしいからです」
エヴァが笑う。
「それは俺には分からんな」
「でしょうね」
「おう」
そこだけは、エヴァも否定しなかった。
シズクは籠を抱えた。
「洗います」
「頼む」
「エヴァも手伝ってください」
「何でだ」
「原因の一人でしょう」
「聖者も呼ぶか?」
「呼ばなくて結構です!」
「ほら、やっぱ思い出してる」
「エヴァ!」
声が大きくなった。
少し離れた場所から。
「朝から何をしている!」
リーゼが来た。その後ろにはティセラ。さらにノア。
シズクが固まる。
ノアと、目が合った。昨夜、見られた。自分が。二人を見ていただけではない。二人からも。自分を見られていた。
ノアは普通だった。
「おはよう、シズク」
「……お、おはようございます」
「顔赤いけど大丈夫?」
「大丈夫です!」
リーゼが眉を寄せる。
「声が大きいぞ」
「元気ですので!」
「何故朝からそんなに挙動不審なんだ」
エヴァが口を開く。
シズクは即座にエヴァの口を両手で塞いだ。
「言わなくていいです!」
「んー」
リーゼ。
「何を隠している」
「何も!」
ティセラがシズクを見る。
「脈拍が上がっていますね」
「教授も調べなくていいです!」
「まだ何もしていませんが」
「しそうなので!」
ノアは、何となく察したのか、少し困ったように笑った。
「洗濯機の試運転、始めようか」
「はい!」
シズクは、誰より早く返事をした。
洗濯場の横には、新しい設備が組まれている。
一号機。これまで使っていたバルトリ。大量の水を木製の槽へ流し込み、内部へ渦を作る。丈夫な衣類。毛布。シーツ。大量の布を一度に洗うには強い。
だが、細かな調整はできない。
その隣。
二号機。こちらは、見るからに複雑だった。水車。回転軸。歯車。大きな木槽。水を導く管。
そして、槽の側面にはティセラが刻んだ魔法陣。
リーゼが図面を広げる。
「水車の回転を、この軸で取る」
指を動かす。
「回転数は歯車で落とす」
さらに。
「槽内の羽根を直接回転させる。ただし、一方向へ回し続けると布が絡む」
ティセラが続けた。
「そこで魔術側から水流へ補助をかけます」
「右回り」「左回り」「停止」「排水」
シズクが槽を覗く。
「全部変えられるのですか?」
「理論上は」
リーゼが言う。
ノアが笑った。
「今日それを確かめる」
「壊れませんか?」
シズクが聞いた。
リーゼ。
「壊れないように作った」
エヴァ。
「昨日一回軸飛んだぞ」
「試作だからだ!」
「壁に刺さってたな」
「言うな!」
ティセラ。
「飛距離は興味深かったですが」
「教授も記録するな!」
二号機へ。
まず、どうでもいい古布を入れた。ノアが水門を開く。水が入る。リーゼが軸を接続。
ごと。
ごとごと。
槽の中が回り始める。
「右回転」
ティセラが魔法陣へ触れる。流れが整う。
リーゼが見ている。
「速度を落とせ」
ノアが歯車を一段変える。回転がゆっくりになる。
「反転」
ティセラが術式を切り替える。
一度、止まる。そして、反対へ。
シズクの目が少し大きくなった。
「動きが変わりました」
「成功だ」
リーゼの顔が明るくなる。
「これなら薄手の衣類にも使える」
ティセラも頷く。
「魔力消費も少ないですね。主動力は水ですから」
ノア。
「魔法は補助だけ」
「非常に合理的です」
「リーゼの機械知識がなかったら、もっと雑なのになってたよ」
リーゼが少し胸を張る。
「当然だ」
エヴァが胸を見る。
「張るほどないぞ」
「何の話をしている!」
「胸」
「見れば分かることを言うな!」
シズクが小さく言った。
「少し大きくなっていますよ」
「シズク!」
ティセラ。
「以前の測定値と比較しますか?」
「しなくていい!」
その騒ぎの横で、二号機は順調に回っていた。
一号機。単純。強い。大量。
二号機。工業。魔術。調整可能。
ティセラは記録へ書いた。
『ノアの前世知識』『リーゼの機械工学』『私の魔術制御』
三つ。違う地域の知識。一つの設備。
「面白い」
ティセラが呟く。
ノア。
「でしょ?」
「はい」
シズクも、二号機を見る。自分が落ちてきた頃には、なかったもの。リーゼが来て。ティセラが来て。谷底の暮らしが、少しずつ変わっている。
ただ今日に限っては、洗濯機より洗濯物の方が、シズクには問題だった。
試運転が終わる。
「じゃあ実際の洗濯物を」
ノアが言う。
シズクが、びくりと反応した。
エヴァが笑った。
「シズク」
「何です?」
「二個目の籠持ってこい」
「一個目からです!」
「何で」
「順番です!」
「どっちでもいいだろ」
「よくありません!」
リーゼが不思議そうにする。
「何を揉めている」
「何でもありません!」
エヴァ。
「昨夜の――」
シズクが飛びついた。
「エヴァ!」
リーゼ。
「何だ!?」
ティセラ。
「昨夜?」
ノア。
「エヴァ、やめてあげて」
エヴァは、シズクに口を押さえられたまま、楽しそうに笑っていた。
結局、昨日の作業着から洗った。
二号機。右回転。左回転。排水。問題なし。
次。寝具。
シズクは一枚ずつ入れる。
昨日、この布のすぐ近くに自分もいた。
ノアの顔。エヴァの顔。二人から見られた。その時のことを思い出すたび、腹の奥が妙に落ち着かなくなる。
「…………」
シズクは、黙って洗濯物を押し込んだ。
リーゼ。
「シズク」
「はい」
「また顔が赤いぞ」
「暑いです」
「さっきも言ったが涼しい」
「水場は意外と体力を使います!」
「そういうものか?」
「そういうものです!」
ティセラが首を傾げる。
「昨夜から何か――」
「ありません!」
「まだ質問していません」
「先に答えました!」
午後、洗濯終了。
新しい二号機も、一度、軸受けが熱を持った以外は問題なく動いた。
リーゼとティセラとノアは、工房へ戻った。エヴァも、畑の様子を見ると言って去った。シズクだけが、洗い上がった寝具を干す。
白い布。風。昨日の夜とは全く違う、清潔な匂い。
けれど、シズクの頭の中から記憶は洗い流されなかった。むしろ、自分が見ていたことより、自分が見られていたことそちらの方が、強く残っていた。
部屋へ戻る。戸を閉める。背中を預ける。
「……恥ずかしい」
それなのに、嫌ではない。
昨夜、呼ばれた時、断れた。逃げることもできた。それでも、自分で部屋へ入った。誰かに命じられたわけではない。生贄でも、巫女の役目でも、村のためでもない。
ただ、自分がそうしたかった。
そして今日になっても、エヴァと聖者の視線を思い出している。
シズクは両手で顔を覆った。
「……昨日だけではなかったのですね」
自分で言って、ますます恥ずかしくなる。
二人を好きなのかもしれない。
ただ、今すぐ答えを決める必要はない。ここでは誰かに役目を決められることも、自分の気持ちを差し出すよう命じられることもない。
それだけは、もう分かっていた。
シズクは水で顔を洗い、夕食へ向かった。
夕食。
シズクは、いつも通りの顔を作って座った。
エヴァがすぐに見る。
「お」
シズク。
「何です?」
「またすっきりした顔してんな」
箸が止まる。
「洗濯で汗をかきましたから」
「二回も?」
シズクがエヴァを見る。エヴァは、完全に分かっている顔だった。
「…………」
「何だよ」
「エヴァ」
「おう」
「今夜の洗い物は、自分で洗ってください」
「何で!?」
リーゼが眉を寄せる。
「何の話だ?」
シズク。
「家事分担の話です」
エヴァ。
「違うだろ」
「家事分担です」
ティセラが、シズクを見る。
「脈が速いですね」
「教授」
「はい」
「ご飯を食べましょう」
「しかし――」
「食べましょう」
ノアは、軒下の机で何となく事情を察しているらしく、黙って食事を続けていた。
エヴァだけが、最後までにやにやしていた。




