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大瀑布の底のハーレム【一般公開版】 (R18版 日間76位ありがとうございます)  作者: 黒瀬 量衡
第八章 教授Ⅱ

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第五十二話 谷底の朝は、草刈りから始まる【一般公開版】

ティセラが目を覚ました時、館はまだ薄暗かった。


窓の外がようやく青み始めている。昨日の夜、紙へ書いた予定では、今日は日の出前から谷底の生活周期を観察することになっていた。


誰が最初に起きるのか。何から始めるのか。どの仕事を誰が担当するのか。地上の共同体なら、当番、職分、身分、契約、雇用など、何らかの制度がある。


この館には、それらがほとんどない。なのに暮らしは回っている。それが気になった。


ティセラは眼鏡を掛け、記録用の紙を持って部屋を出た。


廊下は静かだった。シズクの部屋も。リーゼの部屋も。エヴァの部屋も。まだ動く気配はない。


「やはり私が最初……」


玄関を開ける。外にノアがいた。


「おはよう、ティセラ」


「…………」


ノアは水路脇にしゃがみ、木製の格子を外していた。


「どうしたの?」


「何時から起きています?」


「少し前から」


「少しとは?」


「暗かったから、時間は分からないな」


ティセラは紙へ書く。


『聖者。夜明け前に活動開始』


「何を書いてるの?」


「観察記録です」


「僕の?」


「谷底生活の」


「同じじゃない?」


「違います」


ノアは笑って、水路から枯れ葉を取り除いた。


「今日はここが少し詰まってる。それが終わったら畑を見るよ」


「毎日?」


「毎日」


「何故です?」


「昨日なかったものが、今日あるから」


それだけ言うと、ノアは立ち上がった。


ティセラも後を追った。


水路。飲料水。調理場。生け簀。保存蔵。結界杭。畑の外周。


ノアは一つずつ見ていく。何かを大きく操作するわけではない。


見る。触る。音を聞く。水量を確かめる。昨日との差を確認する。


ティセラは途中で気づいた。


「これは点検ですね」


「そうだね」


「毎朝?」


「だいたい」


「誰かに任せないのですか?」


「今は僕が一番分かるから」


館の裏手から声がした。


「嘘つけ」


エヴァだった。


髪を適当にまとめただけ。上衣を着ているが、まだ寝起きの顔をしている。


「お前、他人に任せるのが下手なんだよ」


ノアが振り向く。


「おはよう、エヴァ」


「おう」


エヴァは欠伸をしてから、ティセラを見る。


「教授、朝っぱらから男を追い回してんのか」


「谷底生活の観察です」


「便利だな、研究って言葉は」


「昨夜、あなたも同じことを言っていました」


「俺は正しいからな」


「自信だけはありますね」


エヴァは笑った。


その時、ノアが畑の端で止まった。


「エヴァ」


「あ?」


「あれ」


昨日まで何もなかった畝の間。濃い紫色の芽が、何本も伸びている。


一本。二本。十本。二十本。


ティセラは目を細めた。


「昨日は?」


「なかった」


「完全に?」


「少なくとも夕方には」


ティセラの目が輝いた。


「採取を」


「待って」


ノアが腕を出した。


ティセラが止まる。


「何故です?」


「分からない植物だから」


「だから調べるのですが」


「調べる前に安全にする」


エヴァが近くに落ちていた棒を拾った。


「こうする」


紫色の草を突く。


つん。


何もない。もう一度。


つん。


草の先が。


ぱくり。


開いた。小さな牙が並んでいる。


ティセラが止まった。


「……植物?」


「多分な」


エヴァがもう一度突く。


がちん。


草が棒へ噛みついた。


「昨日なかったものが、今日あるって」


ノアが言った。


「こういう意味」


ティセラはしゃがんだ。


「興味深い」


「近づくな」


エヴァが襟を掴んだ。


「離してください」


「食われるぞ」


「研究者へそのような扱いを」


「研究者でも食われりゃ死ぬ」


後ろから。


「教授、エヴァの言うことを聞いた方がいいですよ」


シズクが来た。手には鎌。


さらに後ろに、リーゼ。軍人らしく上衣を整え、朝から妙にきちんとしている。


「朝から何を騒いでいる」


紫色の草が、リーゼの方を向いた。


「……何だ、あれは」


「草です」


シズクが答える。


「草がこちらを見ているぞ」


「谷底ですから」


「説明になっていない!」


エヴァが笑う。


「今日は草刈りだな」


リーゼが眉を寄せた。


「小官は昨日、館増設の資材整理を予定していた」


「放っとくと増えるぞ」


「どの程度」


ノアが言った。


「明日にはこの辺全部かも」


リーゼは鎌を取った。


「先に刈るぞ!」


「判断早いですね」


シズクが言った。


「軍人だからな!」


それから午前中いっぱい、全員で草を刈った。


普通の雑草。蔓。棘。噛みつく草。引き抜くと種を飛ばす草。地面の下へ逃げようとする根。


ティセラは何度も採取しようとし、そのたびに止められた。


最終的にノアが石で囲った一角へ、危険植物だけを隔離して積んだ。


「ここなら調べていいよ」


ティセラは満足した。


「最初からそうしてください」


エヴァが振り返る。


「俺たちは草刈ってたんだぞ」


昼。


ティセラの記録用紙は泥だらけになっていた。


『制度的な役割分担なし』


『危険発見時には、最も対応能力の高い者を中心に即時協働』


そこまで書き、少し考える。


『教授も草刈りへ参加』


書いてから、消そうとして、やめた。


夕方。


仕事を終える頃には、ティセラも腕が重かった。


エヴァは平然としている。


ノアもまだ、工具を片づけている。


「あなた方は疲れないのですか」


ティセラが聞く。


エヴァが答えた。


「疲れるぞ」


「そうは見えません」


「今日はまだ終わってないからな」


ノアが嫌な予感のする顔をした。


「エヴァ」


「何だ?」


「その顔やめて」


「何でだ」


「分かるから」


エヴァはノアの肩へ腕を回した。


「今日はよく働いた」


「毎日働いてるよ」


「今日は特にだ」


「だから?」


「寝るぞ」


ティセラが瞬きをする。


リーゼが即座にティセラの腕を掴んだ。


「教授」


「はい」


「観察対象ではない」


「まだ何も」


「顔に書いてある!」


シズクは、二人が館の奥へ消えるのを、少しだけ目で追っていた。


「……シズク」


リーゼが振り向く。


「何です?」


「お前も見るな」


「見ていません」


「今、見ていた!」


「廊下を見ていただけです」



夜。


エヴァは一日の仕事を終えたノアの肩へ腕を回し、そのまま館の奥へ連れていった。


「今日はよく働いた」


「毎日働いてるよ」


「今日は特にだ。だから、今夜は俺がもらう」


「言い方」


扉が閉じる。


シズクは廊下の向こうを少しだけ見つめたが、今度は自分から目を逸らした。


「見ないのか?」


リーゼが意外そうに聞く。


「見ません」


「本当か?」


「……今夜は」


「今夜は、とは何だ!」


ティセラは記録用紙を開きかけた。


リーゼがその手を押さえる。


「教授。夜間の私生活は観察対象から外せ」


「生活周期の一部ですが」


「外せ!」


館の奥から、エヴァの楽しそうな笑い声が聞こえた。


シズクは少し赤くなり、ティセラは眼鏡を直し、リーゼは頭を抱えた。



翌朝。


ティセラが起きると、ノアはもう水路を見ていた。エヴァも普通に畑へ出ていた。


ティセラは記録へ書く。


『昨夜は私生活のため観察を中断。ただし翌朝の作業能力低下は確認できず』


横からリーゼが紙を奪った。


「結局そこを記録するな!」


「生活周期の観察です」


「便利すぎるぞ、その言葉は!」

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