第五十二話 谷底の朝は、草刈りから始まる【一般公開版】
ティセラが目を覚ました時、館はまだ薄暗かった。
窓の外がようやく青み始めている。昨日の夜、紙へ書いた予定では、今日は日の出前から谷底の生活周期を観察することになっていた。
誰が最初に起きるのか。何から始めるのか。どの仕事を誰が担当するのか。地上の共同体なら、当番、職分、身分、契約、雇用など、何らかの制度がある。
この館には、それらがほとんどない。なのに暮らしは回っている。それが気になった。
ティセラは眼鏡を掛け、記録用の紙を持って部屋を出た。
廊下は静かだった。シズクの部屋も。リーゼの部屋も。エヴァの部屋も。まだ動く気配はない。
「やはり私が最初……」
玄関を開ける。外にノアがいた。
「おはよう、ティセラ」
「…………」
ノアは水路脇にしゃがみ、木製の格子を外していた。
「どうしたの?」
「何時から起きています?」
「少し前から」
「少しとは?」
「暗かったから、時間は分からないな」
ティセラは紙へ書く。
『聖者。夜明け前に活動開始』
「何を書いてるの?」
「観察記録です」
「僕の?」
「谷底生活の」
「同じじゃない?」
「違います」
ノアは笑って、水路から枯れ葉を取り除いた。
「今日はここが少し詰まってる。それが終わったら畑を見るよ」
「毎日?」
「毎日」
「何故です?」
「昨日なかったものが、今日あるから」
それだけ言うと、ノアは立ち上がった。
ティセラも後を追った。
水路。飲料水。調理場。生け簀。保存蔵。結界杭。畑の外周。
ノアは一つずつ見ていく。何かを大きく操作するわけではない。
見る。触る。音を聞く。水量を確かめる。昨日との差を確認する。
ティセラは途中で気づいた。
「これは点検ですね」
「そうだね」
「毎朝?」
「だいたい」
「誰かに任せないのですか?」
「今は僕が一番分かるから」
館の裏手から声がした。
「嘘つけ」
エヴァだった。
髪を適当にまとめただけ。上衣を着ているが、まだ寝起きの顔をしている。
「お前、他人に任せるのが下手なんだよ」
ノアが振り向く。
「おはよう、エヴァ」
「おう」
エヴァは欠伸をしてから、ティセラを見る。
「教授、朝っぱらから男を追い回してんのか」
「谷底生活の観察です」
「便利だな、研究って言葉は」
「昨夜、あなたも同じことを言っていました」
「俺は正しいからな」
「自信だけはありますね」
エヴァは笑った。
その時、ノアが畑の端で止まった。
「エヴァ」
「あ?」
「あれ」
昨日まで何もなかった畝の間。濃い紫色の芽が、何本も伸びている。
一本。二本。十本。二十本。
ティセラは目を細めた。
「昨日は?」
「なかった」
「完全に?」
「少なくとも夕方には」
ティセラの目が輝いた。
「採取を」
「待って」
ノアが腕を出した。
ティセラが止まる。
「何故です?」
「分からない植物だから」
「だから調べるのですが」
「調べる前に安全にする」
エヴァが近くに落ちていた棒を拾った。
「こうする」
紫色の草を突く。
つん。
何もない。もう一度。
つん。
草の先が。
ぱくり。
開いた。小さな牙が並んでいる。
ティセラが止まった。
「……植物?」
「多分な」
エヴァがもう一度突く。
がちん。
草が棒へ噛みついた。
「昨日なかったものが、今日あるって」
ノアが言った。
「こういう意味」
ティセラはしゃがんだ。
「興味深い」
「近づくな」
エヴァが襟を掴んだ。
「離してください」
「食われるぞ」
「研究者へそのような扱いを」
「研究者でも食われりゃ死ぬ」
後ろから。
「教授、エヴァの言うことを聞いた方がいいですよ」
シズクが来た。手には鎌。
さらに後ろに、リーゼ。軍人らしく上衣を整え、朝から妙にきちんとしている。
「朝から何を騒いでいる」
紫色の草が、リーゼの方を向いた。
「……何だ、あれは」
「草です」
シズクが答える。
「草がこちらを見ているぞ」
「谷底ですから」
「説明になっていない!」
エヴァが笑う。
「今日は草刈りだな」
リーゼが眉を寄せた。
「小官は昨日、館増設の資材整理を予定していた」
「放っとくと増えるぞ」
「どの程度」
ノアが言った。
「明日にはこの辺全部かも」
リーゼは鎌を取った。
「先に刈るぞ!」
「判断早いですね」
シズクが言った。
「軍人だからな!」
それから午前中いっぱい、全員で草を刈った。
普通の雑草。蔓。棘。噛みつく草。引き抜くと種を飛ばす草。地面の下へ逃げようとする根。
ティセラは何度も採取しようとし、そのたびに止められた。
最終的にノアが石で囲った一角へ、危険植物だけを隔離して積んだ。
「ここなら調べていいよ」
ティセラは満足した。
「最初からそうしてください」
エヴァが振り返る。
「俺たちは草刈ってたんだぞ」
昼。
ティセラの記録用紙は泥だらけになっていた。
『制度的な役割分担なし』
『危険発見時には、最も対応能力の高い者を中心に即時協働』
そこまで書き、少し考える。
『教授も草刈りへ参加』
書いてから、消そうとして、やめた。
夕方。
仕事を終える頃には、ティセラも腕が重かった。
エヴァは平然としている。
ノアもまだ、工具を片づけている。
「あなた方は疲れないのですか」
ティセラが聞く。
エヴァが答えた。
「疲れるぞ」
「そうは見えません」
「今日はまだ終わってないからな」
ノアが嫌な予感のする顔をした。
「エヴァ」
「何だ?」
「その顔やめて」
「何でだ」
「分かるから」
エヴァはノアの肩へ腕を回した。
「今日はよく働いた」
「毎日働いてるよ」
「今日は特にだ」
「だから?」
「寝るぞ」
ティセラが瞬きをする。
リーゼが即座にティセラの腕を掴んだ。
「教授」
「はい」
「観察対象ではない」
「まだ何も」
「顔に書いてある!」
シズクは、二人が館の奥へ消えるのを、少しだけ目で追っていた。
「……シズク」
リーゼが振り向く。
「何です?」
「お前も見るな」
「見ていません」
「今、見ていた!」
「廊下を見ていただけです」
夜。
エヴァは一日の仕事を終えたノアの肩へ腕を回し、そのまま館の奥へ連れていった。
「今日はよく働いた」
「毎日働いてるよ」
「今日は特にだ。だから、今夜は俺がもらう」
「言い方」
扉が閉じる。
シズクは廊下の向こうを少しだけ見つめたが、今度は自分から目を逸らした。
「見ないのか?」
リーゼが意外そうに聞く。
「見ません」
「本当か?」
「……今夜は」
「今夜は、とは何だ!」
ティセラは記録用紙を開きかけた。
リーゼがその手を押さえる。
「教授。夜間の私生活は観察対象から外せ」
「生活周期の一部ですが」
「外せ!」
館の奥から、エヴァの楽しそうな笑い声が聞こえた。
シズクは少し赤くなり、ティセラは眼鏡を直し、リーゼは頭を抱えた。
翌朝。
ティセラが起きると、ノアはもう水路を見ていた。エヴァも普通に畑へ出ていた。
ティセラは記録へ書く。
『昨夜は私生活のため観察を中断。ただし翌朝の作業能力低下は確認できず』
横からリーゼが紙を奪った。
「結局そこを記録するな!」
「生活周期の観察です」
「便利すぎるぞ、その言葉は!」




