第五十一話 教授は、谷底にもう新しい常識ができ始めていると記録する
数日、かかった。紙が増えた。ティセラの記録。リーゼの機械図。ノアの前世知識。シズクの昔話。エヴァの戦場経験。
最後。
ティセラは、全てを机へ並べた。
リーゼ。
「結論は?」
ティセラ。
「分かりません」
リーゼが机を叩く。
「ここまでやって!?」
「研究とはそういうものです」
「その言葉、便利すぎるぞ!」
ティセラは続けた。
「ただし、分かったことはあります」
第一。
シズク。エヴァ。リーゼ。ティセラ。四人が、別世界から来たという証拠はない。
巨大な一つの世界。遠く離れた地域。そこから、同じ谷底へ落ちた。その可能性は十分にある。
第二。
地域差は、文化だけではない。
人体。生態系。魔力。出生。性別。宗教。社会構造。全て違う。
第三。
文明は一列に並べられない。
シズク。ノアの前世の、古い日本に似た社会。しかし、鬼がいる。狐や狸が化かす。子供が自然に現れることがある。子供の性別が変わる。
男。両性。女。信仰と現実の異類が、生活の中で混ざっている。
エヴァ。身体。生存。強さ。弱い者は、早く成熟し、多く子を残し、老いる。強い者は、子ができにくい。ほとんど老化しない。月経すら女性共通のものではない。人間。獣。軍馬。魔物。全て高強度。高捕食圧。馬まで。人を食う。
ノアが小さく言う。
「世紀末生態圏」
ティセラ。
「その名称は採用しません」
エヴァ。
「俺は好きだぞ」
「だから採用しません」
リーゼ。帝国。王国。共和国。鉄道。電気。工場。銃。大砲。飛行機。ノアの前世でいう、第一次世界大戦期ヨーロッパに近い世界観。機械によって、人間の能力が急激に拡張された文明。
ティセラ。多種族。魔法科学。魔宝石。体系化された術式。高度な研究機関。そして、何故か学院が何でもする。
リーゼが紙を見る。
「そこは結局、説明できなかったな」
ティセラ。
「普通に繁栄しています」
エヴァ。
「そこが分からないんだって」
シズク。
「私もまだ少し」
ティセラが不満そうになる。
ノア。前世。科学。情報。工業。核兵器。人工衛星。コンピュータ。無人機。遠隔攻撃。自動化。リーゼの文明を、さらに先へ。人間を機械で強くする段階から、人間そのものを危険な場所から外す段階へ。
ティセラは書く。
『発達方向が異なる』
ノア。
「どれが一番進んでる、とは言えないね」
「はい」
そして、ティセラは最後の一枚を出した。
五人。
ノア。エヴァ。シズク。リーゼ。ティセラ。
地上での肩書。
元王族。巫女。帝国航空隊大尉。王立魔法学院教授。そして、前世の記憶を持つオーガ。
谷底では。畑。水。料理。洗濯。魔物。建物。怪我。設備。食料。生存。そちらが先。
ティセラ。
「性についても同様です」
リーゼ。
「まだそこへ戻るのか」
「まとめです」
シズク。性別境界がもともと曖昧。女性を好きになることにも、そこまで大きな意味を持たせない。
エヴァ。性別より強さ。そして本人が選べること。
リーゼ。最も固定的な男女観を持つ。だが、谷底へ来てその規範も、すでに変化し始めている。
リーゼ。
「何故そこで小官を見る」
シズク。
「裸で館を歩いていましたし」
「言うな!」
エヴァ。
「聖者と寝る時はもっと――」
「それ以上言うな!」
ティセラは書く。
『谷底共同体では、出身社会の規範より、本人の意思確認を優先する傾向』
ノアは、そこだけ少し真面目に言った。
「それは、そうしてほしい」
エヴァ。
「ああ」
シズク。
「私も」
リーゼは、少し黙って。
「……異論はない」
ティセラが頷いた。
「つまり」
四人を見る。そして、外にいるノアも。
「私たちは、地上の文化をそのまま持ち込んでいるわけではありません」
シズク。
「混ざっている?」
「はい」
ノアの水路。ティセラの魔法。リーゼの機械。エヴァの戦闘。シズクの生活。
シズクが、途中で聞いた。
「私は生活だけですか?」
沈黙。
リーゼ。
「覗き」
シズク。
「リーゼ」
エヴァ。
「洗濯」
「エヴァまで」
ノアが外で笑う。
ティセラも、少しだけ笑った。
そして、最後の一行を書く。
『谷底では、出身地とは異なる新しい共同体規範が形成され始めている』
エヴァが、横から覗いた。
「難しく書いたな」
「研究記録ですから」
「要するに」
エヴァは、椅子へ背を預ける。
「同居人だろ?」
沈黙。
シズク。
「そうですね」
ノア。
「間違ってはいないかな」
ティセラは、しばらく考えた。
「……否定できません」
リーゼ。
「数日かけた研究を一言で終わらせるなあああっ!」
館へ、いつもの声が響いた。
世界の形は、まだ分からない。
四人が、本当に同じ世界から来たのかも、分からない。
けれど。
今、同じ場所にいる。
それだけは、もう誰にも疑いようがなかった。




