第三十六話 牙塔から落ちてきた女は、今回かなり元気です
館へ戻ると。
エヴァは拾ってきた女を、そのまま客間の寝台へ寝かせた。
もちろん、その前に全身を洗っている。何匹の腹の中を通ってきたのか分からない。そのまま寝台へ放り込む勇気は、さすがのエヴァにもなかった。身体そのものには、ほとんど傷がない。
だが服は酷い。上衣も。下衣も。靴も。何かに溶かされたようにぼろぼろになっていた。
辛うじて原形を残しているのは。鼻の上に掛かった、奇妙な眼鏡だけだった。
シズクが寝台の横から、女の顔を覗き込む。
「……大丈夫ですかね?」
エヴァが首筋へ指を当てた。
「今回は大丈夫そうだな」
「今回は?」
リーゼが振り返った。
「どうかしたのか?」
「いや」
エヴァはあっさり答える。
「シズクの時は、かなり危なかったからな」
「ああ」
リーゼも、それは聞いている。
神の大瀑布から落ち、滝壺へ流れ着いたシズクは、心臓まで止まりかけていた。
「今回は呼吸もしっかりしてる。脈も悪くない。聖者の回復薬を無理に使うほどじゃないだろ」
リーゼの眉が動いた。
「回復薬?」
シズクが固まった。
エヴァも。
一瞬、黙った。
リーゼが二人を見る。
「何だ」
「いや」
「何だ、その顔は」
シズクが小声で言った。
「説明していませんでしたか?」
「何をだ」
「リーゼを助けた時にも、聖者の回復効果のあるものを使っています」
「ほう」
リーゼは頷く。
「薬品か?」
沈黙。
「……おい」
エヴァが答えた。
「聖者の身体から出るやつだ」
リーゼが止まる。
「…………」
シズクが目を逸らす。
「濃いものほど効くそうです」
「…………」
「俺にも効いたぞ」
「…………」
リーゼの顔が、ゆっくり、赤くなった。
「貴様らあああああっ!」
館が震えた。
外からノアの声がする。
「何!?」
「聖者は来るなああああっ!」
「ええ!?」
シズクが耳を押さえた。
「リーゼ、元気ですね」
「小官にも使ったのか!」
「救命措置です」
「それは分かっている!」
リーゼは頭を抱える。
「分かっているが! 何故この館では重要な説明が毎回後から出てくるんだ!」
エヴァが笑った。
「助かったんだからいいだろ」
「そういう問題ではない!」
寝台の女は、その騒ぎでも起きなかった。
次の問題は服だった。
「着せるものがありませんね」
シズクが言った。
拾った女の服は使えない。洗濯でどうにかなる段階を越えている。
エヴァが寝台の女を見る。
それから。
シズクを見る。
「シズクより大きいな」
「そうですね」
「でも俺より小さい」
「そうですね」
二人が頷く。
シズク以上。エヴァ未満。
そこで、二人の視線がリーゼへ向いた。
「何だ」
エヴァが見る。
シズクも見る。
胸元を。
「……何だ」
もう一度、寝台の女を見る。リーゼを見る。
エヴァが結論を出した。
「戦力外だな」
「何の戦力だ!」
「服」
「小官の服だって着られる!」
シズクが首を横へ振る。
「胸のところが無理です」
「うがあああっ!」
リーゼは自分の胸を押さえた。
「最近は大きくなってきている!」
エヴァが頷く。
「ああ。それは俺も思う」
リーゼの顔が明るくなる。
「だろう!」
「シズクも大きくなってるけどな」
止まった。
シズクが自分の胸元を見る。
「そういえば」
エヴァも自分を見る。
「俺もまた増えた気がするな」
リーゼの顔から、希望が消えた。
「待て」
「何だ?」
「小官が大きくなる」
「ああ」
「シズクも大きくなる」
「そうですね」
「エヴァも大きくなる」
「そうだな」
「…………」
リーゼは震えた。
「追いつけないではないか!」
シズクが首を傾げる。
「追いつく必要がありますか?」
「ある!」
「何故です?」
「知らん!」
リーゼは頭を抱えた。
「これはあれだ!」
「あれ?」
「アキレスと亀だ!」
シズクとエヴァが同時に首を傾げる。
「誰だ?」
「亀?」
リーゼが机へ手をついた。
「速いアキレスが、先を進む亀を追う! だがアキレスが亀のいた場所へ到着した時には、亀は少し先へ進んでいる!」
「はあ」
「次の場所へ着いても、亀はまたその先へ進んでいる!」
リーゼは自分を指差す。
「小官が大きくなる!」
シズク。
「こいつも大きくなる!」
エヴァ。
「こいつも大きくなる!」
そして、絶望した。
「永久に追いつけん!」
入口から声がした。
「あ、それ知ってる」
全員が振り返る。
ノアだった。
女の状態を確認するため、十分に距離を取ったまま、戸口に立っている。
リーゼの顔が上がった。
「知っているのか!?」
「アキレスと亀だよね」
「そうだ!」
「ゼノンのパラドックス」
リーゼの顔が、ぱっと明るくなった。
「そう! それだ!」
シズクがノアを見る。
「聖者の世界にもあった話なのですか?」
「うん。かなり昔からある哲学の話」
リーゼは嬉しそうにノアへ近づきかけ。
途中で止まった。自分で決めた距離を思い出したらしい。それでも機嫌は明らかによくなっている。
「そうか」
「うん」
「そうか!」
何故か胸を張った。
「やはり貴様とは文明的な話が通じる!」
エヴァが笑う。
「さっきまで胸の話だったぞ」
「余計なことを言うな!」
ノアが困った顔になる。
「何のアキレスと亀だったの?」
「聞くな!」
「分かった」
シズクが小声で言った。
「リーゼ、機嫌が直りましたね」
「聞こえているぞ!」
結局、服はシズクのものを基準に、胸回りだけ少し余裕のあるものを選んだ。
形はノアの助言で洋風。
長いシャツ。腰を締めるスカート。その上から簡単な上着。
シズクの巫女装束では似合わない。
エヴァの服では大きすぎる。
リーゼの服では、別の意味で合わない。
「だから何故そこで小官を見る!」
「確認です」
「確認するな!」
服を着せ終える。
改めて見ると、奇妙な女だった。
長い髪。細い身体。尖った耳。そして、眼鏡。
ノアが少し離れた場所から眺める。
「もしかすると」
「何だ?」
「エルフかもしれない」
リーゼが振り返った。
「エルフ?」
「僕の前の世界の物語に出てきた種族。こういう尖った耳をしてるんだ」
リーゼは寝台を見る。
尖った耳。
それからノアを見る。
「御伽話じゃあるまいし」
エヴァが笑った。
「お前、この谷底に来てから何回それ言った?」
「今回は別だ!」
「ドラゴンも御伽話だったんだろ?」
「……そうだが」
「魔物も」
「そうだが!」
シズクが言った。
「では、エルフもいるのでは?」
リーゼは反論しようとして、もう一度、女の耳を見た。
「…………」
沈黙。
そして。
「……うがあああっ」
今日の叫びは。
少しだけ小さかった。




