第三十五話 牙塔の麓の食物連鎖
滝壺へ着いた頃。
リーゼだけが膝をついていた。
「……殺す」
肩で息をする。
「いつか……絶対……エヴァを……」
エヴァは汗一つかいていない。
「元気そうだな」
「どこを見てそう判断した!」
シズクもようやく地面へ降ろされた。乱れた上衣を直す。
「私は楽でした」
「知っている!」
「景色もよく見えました」
「貴様もだんだんエヴァに似てきたぞ!」
「それは嫌です」
「シズク?」
三人の前には、巨大な水面が広がっていた。大瀑布から落ちてきた水が作る、巨大な滝壺。
だが、滝壺という言葉からリーゼが想像する規模ではない。向こう岸が見えない。水煙。霞。遠くに巨大な大瀑布。水面は遥か彼方まで続いている。
リーゼは立ち上がった。
「……何度見ても、これは滝壺と呼ぶ大きさではないな」
「滝壺ですよ」
シズクが言う。
「湖ではないのか」
「滝壺です」
「海では」
「私は海を見たことがありません」
「比較ができん!」
エヴァは大きな岩へ腰を下ろした。
「少し休んで、それから漂着物を見るぞ」
リーゼが振り返る。
「待て」
「何だ」
「今日は行軍訓練だ」
「そうだな」
「漂着物回収訓練ではない」
「来たついでだ」
「訓練をついでにするな!」
シズクもエヴァの隣へ座った。
「今日は何か流れてきていますかね」
「水が増えてるからな。箱くらいあるかもな」
リーゼは二人を見る。完全に観光気分である。
「……小官の訓練計画は」
「帰りも歩くんだろ?」
「当然だ!」
「じゃあ帰り頑張れ」
「今も頑張らせろ!」
そんなことを言っている時だった。
シズクが水面の向こうを見る。
「あ」
エヴァも見る。
「今日は近いな」
リーゼが眉を寄せる。
「何がだ?」
遥か沖。大きな生き物が飛んでいた。翼を広げ、水面すれすれを進んでいる。鳥に、少し似ている。
だがリーゼの知る鳥としては、あまりにも大きい。
「……あれは何だ」
「鳥みたいなものです」
「みたいな?」
「正式な名前は知りません」
シズクはのんびり答えた。
「たまにいます」
エヴァも眺めている。
「今日は低いな」
リーゼは嫌な予感を覚えた。
「低いと何かあるのか?」
「食われやすい」
「何に――」
水面が盛り上がった。
「……待て」
リーゼが立ち上がる。
黒い巨大な影が、飛んでいる生き物の真下を追っている。
「おい」
エヴァとシズクは座ったまま。
「おい!」
ばしゃああああああんっ!
水面が炸裂した。巨大な魚のようなものが、空へ飛び出した。
口が開く。巨大な顎。並ぶ牙。
飛んでいた獣を、そのまま呑み込んだ。
「…………」
リーゼが指を差す。
魚のようなものは巨大な身体を捻り。再び水面へ落ちていく。
どおおおおおんっ!
水柱。
リーゼの指が震える。
「…………あ」
シズクは普通に見ている。
エヴァも普通に見ている。
「…………あば」
「どうしました?」
「…………あばば」
リーゼの顔が引きつる。
「あばばばばばばば!」
エヴァが横を見る。
「何だよ」
「あれだ!」
「魚だな」
「あれを魚で済ませるな!」
シズクが微笑む。
「滝壺の雄大な自然ですね」
エヴァが頷く。
「ああ」
「違うだろおおおおっ!」
リーゼが叫んだ。
「空を飛んでいた巨大生物を! さらに巨大な魚が丸ごと食ったぞ!」
「いつものことだ」
「いつも!?」
「毎日じゃないですよ」
シズクが訂正する。
「見られない日もあります」
「頻度の問題ではない!」
リーゼは頭を抱える。
「貴様ら、これを日常の景色として見ているのか!」
「綺麗だろ」
「怖い!」
「あ」
シズクが水面を指差した。
「今日は頭を食べられなかったみたいですね」
「……何?」
魚が少し離れた水面へ浮かんでいた。巨大な口。そこから、今しがた食われた獣の頭と首だけが飛び出している。残りの身体は、すでに魚の口の中だった。
「……何だ、あれ」
リーゼの声が震える。
「大きすぎたんでしょうか」
シズクは首を傾げる。
「頭が引っ掛かってますね」
「冷静に分析するな!」
巨大魚が頭を外へ出したまま潜った。
「潜ったぞ!」
「ああ」
エヴァが立ち上がる。
「少し上がっとくぞ」
「何故だ」
「波が来る」
「波?」
直後。
ざあああああああっ!
水面が大きく膨らみ、岸へ押し寄せた。
「うわっ!」
リーゼは慌てて走った。
シズクも裾を持ち上げて避難する。
エヴァは慣れた様子で高い岩へ登った。
大きな波が岸を洗う。石が転がる。砂が動く。水が引いていく。
リーゼの履き物は濡れていた。
「先に言え!」
「言っただろ」
「一息前では遅い!」
「次から早めに言う」
「次がある前提で話すな!」
水面が再び盛り上がった。
シズクが指差す。
「また出てきました」
「もう見たくない!」
巨大魚が再び水面から飛び出した。今度は獲物を狙っていない。身体そのものを水上へ踊らせる。口から、まだ獣の頭が飛び出している。
「何をする気だ」
リーゼが呟く。
空中で、魚が。
ぶるんっ!
巨大な身体を捻った。口から出た頭が振り回される。身体は魚の腹の中。首だけが、限界まで引っ張られ。
ぶちっ。
千切れた。
「……あ」
シズク。
「……お」
エヴァ。
「…………」
リーゼ。
巨大魚は水へ落ちた。
そして、千切れた獣の頭は、落ちなかった。勢いをつけられ、ぐるぐると回転しながら、空を飛んでいる。
こちらへ。
「……待て」
リーゼが言った。
エヴァが立ち上がる。
「逃げろ!」
「何でこっちへ来るんだああああっ!」
三人が走る。
数秒。
巨大な影。
そして。
どおおおおおおんっ!
獣の頭部が、三人がいた場所のすぐ近くへ落ちた。
土。石。泥。水。一斉に吹き上がった。
リーゼは地面へ伏せ。
両腕で頭を守っていた。
やがて、静かになる。
「…………」
ゆっくり顔を上げる。
巨大な頭。牙。鱗。角。千切れた首。
リーゼは震える指でそれを指した。
「どこが」
エヴァが立つ。
「ん?」
「どこが雄大な自然なんだああああっ!」
シズクも立ち上がった。
「かなり雄大でしたよ?」
「規模の話をしているのではない!」
エヴァは泥を払う。
「いいもん見たな」
「二度と見たくない!」
「リーゼ」
シズクが言う。
「滝壺に来ると、たまにこういうことがあります」
「来る前に言え!」
「聞かれませんでしたので」
「聞くと思うか!?」
エヴァが巨大な頭へ近づこうとして、止まった。
「……待て」
「今度は何だ!」
声が変わっていた。
エヴァは巨大な口を見る。半開き。牙の間。暗い奥。
「こいつ」
シズクも覗く。
「何か、まだ口に入っていますね」
リーゼが顔を引きつらせた。
「また食い物か?」
「多分」
「もう放っておけ!」
「使える物かもしれん」
「食い物を資源扱いするな!」
シズクは近くに落ちていた長い枝を拾った。
リーゼが見る。
「何をする」
「知らないものは」
シズクは棒を両手で持つ。
「まず突きます」
「その生活規則をこんな時まで使うのか!」
エヴァは剣を抜いている。
「やれ」
「はい」
シズクが、獣の口へ棒を伸ばした。
奥。
何かに当たる。
つん。
反応なし。
もう一度。
つん。
ぴくり。
動いた。
三人が止まった。
「……動きました」
「生きてるのか?」
エヴァが剣を構える。
リーゼも腰へ手を伸ばした。何もない。
「……拳銃」
「今言うな」
「だから返せと言っている!」
三人で慎重に、口の中を見る。何かがいる。細い。長いもの。いや。脚。
人間の脚。
「人?」
シズクの声が変わった。
エヴァが巨大な顎へ手を掛ける。
「開けるぞ」
「待て、罠かもしれん!」
「死にかけなら待てん」
「小官も手伝う!」
三人で顎を開く。
ねばついた液体。酷い臭い。半ば溶けた布。その中に女がいた。
長い髪。細い身体。そして耳。
「……長い」
シズクが呟いた。
人間の耳とは違う。先端が。細く尖っている。
リーゼも見る。
「何だ、この耳は」
エヴァが答える。
「知らん」
女の服は、ほとんど残っていなかった。何かに溶かされたように穴が開き。布地そのものが崩れている。
なのに、その下の身体には目立った傷がない。
「どうなってる」
エヴァが眉を寄せる。
シズクが女の顔を見る。
「これ」
鼻の上。耳へ向かって伸びる細い枠。その枠に支えられた二枚の透明な板。
リーゼの目が変わった。
「眼鏡だ」
「めがね?」
シズクが聞く。
「ああ」
リーゼがしゃがむ。
「私の国にもある。視力を補う道具だ」
「目が悪い人が使うのですか?」
「普通はな」
リーゼが触れようとして、手を止めた。
透明な板の縁。細かな文字のような光が、一瞬、走った。
「……普通の眼鏡ではない」
エヴァが女を引き出す。
どろり。
粘液が流れ落ちる。
女は裸同然。
だが皮膚には、傷一つない。
エヴァが首筋へ触れる。
「脈がある」
シズクも胸を見る。
「息もしています!」
リーゼの顔が引きつる。
「待て」
「何だ」
「こいつ」
巨大な獣の頭を見る。その口。女。溶けた服。傷一つない身体。
「これに食われていたのか?」
「そうらしい」
シズクが答える。
「その前にも、何かに食べられていたかもしれませんね」
「何故そんな発想になる!」
「口の奥に」
シズクが棒で示す。大きな半透明の膜。袋のようなもの。その中に。さらに。何かの牙。鱗。別の生き物の一部。
エヴァが眉を上げた。
「こいつが食った奴が、さらに何か食ってたのか?」
リーゼがゆっくり振り返る。
「……待て」
シズクも気づく。
「では」
三人。
女を見る。巨大獣。その腹の中に別の獣。その腹の中に。さらに別の獣。そして。最後に。この女。
リーゼの顔が引きつった。
「何匹に食われたんだ、こいつは」
返事はない。当の女は気絶したまま。
ただ、鼻に掛かった奇妙な眼鏡だけが淡い光を、一度、瞬かせた。
シズクが呟く。
「……また、拾いましたね」
エヴァが女を抱え上げる。
「ああ」
リーゼは巨大な獣の頭と、エヴァに抱えられた女を交互に見る。
「お前たち」
「何だ?」
「人間を拾うことに慣れすぎていないか?」
シズクは少し考えた。
「リーゼで二人目です」
「二人目で慣れるな!」
エヴァが笑う。
「三人目だな」
「誰を数えている!」
「俺。シズク。リーゼ。こいつ」
「貴様自身まで拾われた側に入れるな!」
「事実だろ」
リーゼは頭を抱えた。
そして、大きく息を吸った。
「うがあああっ!」
谷底へいつもの叫びが響いた。
その腕の中で、第四の漂着者の長い耳が。
ほんの少し動いた。




