第三十二話 初めて自分から選ぶ夜【一般公開版】
翌日、リーゼは二日酔いだった。
そして、昨夜の記憶は全部残っていた。最悪だった。
「おはようございます」
シズクが言う。
「……おはよう」
「覚えていますか?」
「聞くな」
「全部?」
「聞くな!」
エヴァは朝から楽しそうだった。
「好きなんだってな」
「殺すぞ」
「銃は俺が持ってる」
「返せ!」
「この状況で返す馬鹿がいるか」
「うがあああっ!」
だが、三日経っても、五日経っても、リーゼの気持ちは消えなかった。ノアと距離を取っている時も。夜、一人の部屋にいる時も。飛行機の残骸を整理している時も。
思い出す。
作業している横顔。自分の説明が通じた時の笑顔。危険だと思えば、こちらが言う前に離れるところ。
そして。
リーゼはようやく認めた。
フェロモンだけではない。
ある夜、リーゼはエヴァの部屋を訪ねた。
「話がある」
エヴァは一目で察した。
「決めたか?」
「……ああ」
「本当に?」
「ああ」
「聖者じゃなく、俺に先に言うんだな」
「貴様が正妻を自称したのだろう!」
「自称だけどな」
「うがあああっ!」
エヴァは笑った。それから、真面目になる。
「じゃあ最後に確認する」
「何だ」
「聖者に近づいたからじゃないな」
「ああ」
「数日離れてても?」
「ああ」
「やりたい?」
リーゼの顔が赤くなる。
「……ああ」
「よし」
エヴァは立ち上がった。
「じゃあ行ってこい」
「それだけか?」
「何を期待してた」
「お膳立てすると言っただろ!」
「してほしいのか?」
「違う!」
「じゃあ行け」
「貴様……!」
結局、リーゼは一人でノアのところへ行った。館から離れた作業場。ノアは工具を片づけていた。
「リーゼ?」
「ああ」
「どうしたの」
「話がある」
「うん」
リーゼは深呼吸する。航空任務より緊張している。世界壁へ向かった時より。墜落する時より。どうかしている。
「私は」
一度止まる。
「小官は――」
「緊張してる?」
「黙れ!」
ノアが少し笑った。
リーゼは睨む。
そして、言った。
「私は、貴様が好きらしい」
ノアの表情が止まった。
「らしい?」
「確定的な物言いをさせるな!」
「ごめん」
「だから」
リーゼは拳を握る。
「今夜、貴様と関係を持ちたい」
沈黙。
ノアはすぐには答えなかった。
「リーゼ」
「何だ」
「本当に?」
「ああ」
「僕の影響じゃなく?」
「ああ」
「嫌になったら」
「止める」
「途中でも?」
「止める」
「何もしないで一緒にいるだけでも」
「構わん」
ノアはようやく頷いた。
「分かった」
その夜、リーゼは、帝国航空隊大尉でも、世界壁越えの飛行士でも、小官でもなかった。
ただ、一人の女として自分で選んで、ノアの部屋へ入った。
夜が来た。
リーゼは自分の部屋の前で、三度深呼吸をした。それから背筋を伸ばし、まるで上官の執務室へ向かうような足取りで廊下を歩き始める。
ノックは三回。規則正しく、間隔も正確に。
「開いてるよ」
聖者の声がして、リーゼは扉を開けた。
聖者は窓辺に立っていた。月明かりが黒い角と黒髪を照らし、金色の目が静かにリーゼを見つめている。二メートルの巨躯が、夜の闇の中で輪郭を浮かび上がらせていた。
「約束通り、来たぞ」
リーゼは言った。声は震えていなかった。少なくとも、自分ではそう思った。
「ああ」
聖者は窓辺から離れ、ベッドの端に腰を下ろした。手で隣を示す。リーゼはベッドの反対側に座り、膝をぴったりと揃え、両手を腿の上に置いた。軍服の襟は正され、ボタンは一つも外れていない。
「その」
リーゼが口を開いた。
「小官は、本日、お前に、その、夜に部屋に行くと、伝えた。それはつまり、そういう意味であり、その、軍人として言ったことは守らねばならず、しかし、小官には経験がなく、いや、ある。あるぞ。知識としては」
「知識として」
「そうだ。知識としてはある」
リーゼは深く息を吸い、それから吐いた。それから立ち上がる。
「座ってくれ」
聖者が言った。
「座っている!」
リーゼは叫び、そして気づいた。自分がすでに立ち上がっていることに。ゆっくりと腰を下ろす。膝を揃える。両手を腿の上に置く。
「怖くない」
リーゼは言った。
「怖くない。怖くないぞ。小官は帝国航空隊大尉だ」
聖者は黙ってリーゼを見つめていた。金色の目が、月明かりを受けて静かに輝いている。その沈黙に、リーゼの緊張が限界に達した。
「怖くない!」
三回目を言った瞬間、リーゼはいきなり立ち上がった。そして聖者の胸に両手を突き、体重をかけてベッドに押し倒す。二メートルの巨躯が、意外にもあっさりと仰向けに倒れた。
「ふ、ふは……っ」
リーゼは聖者の上に跨がり、肩で息をしていた。瞳は見開かれ、焦点が定まっていない。完全にバキバキにイッている目だった。
「落ち着いて」
「小官は落ち着いている!大変落ち着いているとも!」
明らかに落ち着いていなかった。リーゼは自分の軍服のボタンに手をかけ、うまく外せずに引っ張る。
「脱ぐ!脱げ!私が、軍隊仕込みの……ち、違う、軍隊仕込みではない……なんだ……」
言葉が混乱している。ボタンが一つ飛んで、壁に当たって跳ねた。
「私が教えてやる!こういうことは、私の方が、その、経験が……ないが……しかし小官は帝国航空隊大尉だぞ!教本があれば一晩で習得する!」
「教本はない」
「ならば実地で覚える!実地訓練は得意だ!」
リーゼはついに軍服の上着を脱ぎ捨て、続いてシャツを頭から引っこ抜いた。鍛え上げられた上半身が露わになる。小さな胸、引き締まった腹筋、いくつもの古傷。
「ど、どうだ……!」
涙目だった。それでも引き下がらない。
聖者はしばらくリーゼを見上げていたが、やがてゆっくりと手を伸ばし、リーゼの腰にそっと触れた。
「わかった。教えてくれ」
「よ、よろしい!」
リーゼはそう言ってから、何をどうすればいいのかわからず、そのまま硬直した。聖者の金色の目が、静かに細められる。
「まず、息を吸おう」
「吸っている!」
「吸えてない」
リーゼは大きく息を吸い込んだ。それから、ゆっくりと吐く。肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。
それから、一度聖者の上から降りた。ベッドの横に立ち、震える指で軍服のベルトを外し、ズボンを脱ぎ、下着も脱ぎ捨てる。月明かりの下に、引き締まった裸身が晒された。
「小官は全裸だぞ、まだか!」
「まだだよ」
聖者はベッドに座ったまま、自分の上衣を脱いでいた。リーゼはそれを見て、再び目を見開く。
「上官より先に脱ぎ終わらないとはどういうことだ!」
リーゼは叫び、全裸のまま聖者を再度ベッドに押し倒した。上衣を脱ぎかけた聖者が、仰向けになる。
「教育してやる!貴様のような兵士は、こうしてやる!」
夜は長かった。
そして、翌朝。
シズクが洗濯場へ向かう途中、館の戸口でエヴァと会った。
エヴァは満面の笑みだった。
「どうしました?」
「いや」
「何ですか」
「洗濯物、増えるぞ」
シズクは止まった。館を見る。理解する。深く、深くため息をついた。
「……リーゼまで」
その時、館の奥から。
「エヴァアアアアアアッ!」
リーゼの絶叫が響いた。
エヴァは腹を抱えて笑った。
「元気そうだな!」
「何をしたのですか!」
「俺は何もしてない!」
「ではなぜ怒っているのです!」
「知らん!」
館の奥から、もう一度。
「貴様! 最初にもっと具体的に説明しておけええええっ!」
シズクは目を閉じた。
谷底には、また一つ日常が増えた。
そして洗濯物も、確実に増えた。




