第三話 国を奪われ、身体を奪われ、それでも【一般公開版】
夕食は、米によく似た穀物を柔らかく煮込んだものだった。白身魚と、細く刻んだ根菜が入っている。神殿で病人へ食べさせる粥に似ていた。
「これを、聖者様が?」
「お前の着ていた服を見て決めた」
「私の衣を見ただけで?」
「白い小袖、帯、草履、髪の結い方。自分が昔いた国に近い文化だろうと言っていた」
「聖者様の国にも、畳や障子があるのですか」
「あったらしい。お前を寝かせた和室も、聖者が自分で造った」
神が自分のために用意した部屋ではなかった。別の世界から来た男が、かつて暮らした故郷を思い出しながら造った部屋だった。
「聖者様は、どこの国から来たのですか」
「国じゃない。別の世界だ」
「別の世界……」
「魂だけがこの世界へ来て、今の身体を得たらしい。転生者というそうだ」
シズクには、神話よりも理解しがたい話だった。
食事を進めながら、シズクはエヴァの過去について尋ねた。
「エヴァは、以前は何をなさっていたのですか」
「王女だ」
「おうじょ……?」
聞いたことのない言葉だった。シズクが首を傾げると、エヴァは少し考えた。
「国を治める王の娘だ。戦では兵を率いた。父や兄たちが死ねば、俺が国を継ぐ立場だった」
シズクは匙を取り落とした。
国を治める血筋。兵を率い、国そのものを受け継ぐ立場。シズクの国には、それに当たる身分も言葉もない。ただ、神殿の長や豪族などとは比べものにならない、いと尊き御方なのだと理解した。
椅子から滑り落ちるように床へ降り、額をつける。
「数々の無礼、どうかお許しくださいませ」
「何をしている」
「そのような尊き御方とは知らず、同じ卓につき、名をお呼びし、その上、世話までさせてしまいました」
「顔を上げろ」
「どうか、命ばかりは」
「なぜ命乞いになる」
エヴァは立ち上がると、シズクの襟首をつかんだ。そのまま片手で軽々と引き起こす。
「俺はもう王女じゃない」
「ですが」
「ここに俺の国はない。お前の神殿もない。俺は王女じゃなく、お前も生け贄じゃない」
エヴァはシズクを椅子へ戻した。足が床につかず、ぶらぶらと宙に浮いた。
「同じ場所へ落とされて、生き残った女同士だ。それで十分だろう」
シズクは目を伏せた。
「エヴァは、なぜ大穴から落とされたのですか」
今度は、エヴァが黙った。
大きな手が、卓の上でゆっくり拳を作る。
「戦に負けた」
声は静かだった。
「国を奪われ、俺は捕虜になった。王の娘だったからな。敵にとっては、殺すより生かしておく方が価値があった」
捕らえられた後、エヴァは幾度となく辱めを受けた。敵兵たちは、彼女を一人の人間として扱おうとはしなかった。
最初は人間の兵たちだった。
エヴァは、心の中で自分の名を繰り返した。
エヴァ。王の娘。兵を率いた者。敵の玩具ではない。
その後は、魔物の群れ、動物だった。
人質の命と引き換えだった
それでも、エヴァは敵の望む言葉を一度も口にしなかった。
許してくださいとは言わなかった。
従いますとも言わなかった。
兵の配置を教えろと迫られても答えなかった。
逃げ延びた者たちの居場所を吐けと言われても、口を閉ざした。
「苦しくは……なかったのですか」
シズクは震える声で尋ねた。
「苦しかったに決まってるだろう」
エヴァは即座に答えた。
「痛かった。怖かった。身体が勝手に震えた。声も出た。泣いたことだってある。何度も気を失ったし、いっそ殺せと思った夜もあった」
それでも、屈するのとは別だとエヴァは言った。
身体を押さえつけられれば、動けない。
耐えきれない苦痛を与えられれば、声も出る。
恐怖に涙が流れることもある。
それは敗北ではない。
「俺の身体をどう扱うかは、鎖を持った連中が決めた」
エヴァは淡々と言った。
「だが、俺があいつらを主人と認めるかどうかは、俺が決める」
敵兵が求めたのは、最後には身体ですらなかった。
彼らが欲しかったのは、エヴァ自身の意思だった。
許してください。
もう逆らいません。
あなた方が主人です。
国などどうでもいい。
その言葉を、エヴァ自身の口から言わせたかった。
だからエヴァは、言わなかった。
頭を下げろと言われても、首が動く限り顔を上げていた。
見物する兵たちの顔を、一人ずつ覚えた。
誰が笑ったか。
誰が命令したか。
誰が酒を飲みながら眺めていたか。
誰が止めようとしなかったか。
全部、覚えた。
「俺を見世物にするなら、俺もお前らを見る。そう決めてた」
声を出せる間は敵を罵った。
声が出なくなれば笑った。
笑う力さえ失えば、心の中で自分の名を繰り返した。
エヴァ。
王の娘。
兵を率いた者。
国を守るために剣を取った者。
敵の玩具ではない。
壊れれば捨てられる物でもない。
「最後の方じゃ、向こうが俺を見るのを嫌がってたよ」
エヴァは薄く笑った。
「何をしても、俺が『はい』と言わんからな」
やがて身体は衰弱し、自力では立てなくなった。
それでも、敵兵が顔を覗き込めば目を開いた。
まだ見ている。
まだ覚えている。
まだ、お前を主人とは呼んでいない。
その目だけは、最後まで変わらなかった。
「最後には、大穴へ捨てられた」
エヴァは言った。
「壊れても屈服しない女なんぞ、見ていて気分が悪かったんだろうさ」
傷だらけの身体で、魔界の大穴へ運ばれた。
断崖の前で、最後にもう一度だけ命を惜しめと言われた。
頭を下げろ。
負けを認めろ。
新しい主人を認めろ。
そうすれば助けてやると。
「俺はもう、まともに声も出なかった」
エヴァは自分の喉へ触れた。
「だから笑ってやった」
その直後、断崖から突き落とされた。
シズクは膝の上で両手を握りしめていた。
「どうして、そこまで……」
「俺が屈したら、あいつらは俺だけじゃなく、俺について戦った兵も、最後まで国に残った民も、皆まとめて屈服させたつもりになる」
エヴァはシズクをまっすぐ見た。
「国は奪われた。身体も好きにされた。それでも、俺が俺であることまで渡す理由はない」
その声には、傷つかなかった者の強がりはなかった。
壊れなかったわけではない。
今でも思い出す夜はある。
触れられることが怖かった時期もあった。
それでも、壊されたままで終わることを拒んだ。
「それで、谷底へ落ちた俺を、聖者が助けた」
「聖者様が」
「ああ」
エヴァの表情が少し和らいだ。
「最初は、目を覚ましてすぐ殴りかかったがな」
「殴りかかったのですか」
「ああ。素手でな」
シズクは目を瞬いた。
つい先ほどまで聞いていた話では、エヴァは自力で立つことさえできないほど傷ついていたはずだ。
だが、そのことを尋ねるより先に、エヴァは話を続けた。
「聖者は殴り返さなかった。傷を治し、飯を食わせ、別の部屋を用意した。俺が自分から手を伸ばすまで、何もしなかった」
エヴァは椀を持ち上げた。
「だから俺は、もう一度、自分の身体を自分のものとして取り戻せた」
その言葉の意味を、シズクはまだ完全には理解できなかった。




