第二話 世界の果てを見上げて
昼を過ぎる頃には、シズクはどうにか歩けるようになった。濡れた白い小袖は洗われ、館の裏で干されているという。代わりに渡されたのは、柔らかな布で作られた上衣と、脚を左右別々に包む奇妙な衣服だった。
「ずぼん、というのですか」
「聖者がそう呼んでいる。裾を踏まんし、山や畑じゃ便利だぞ」
脚の形が出るため恥ずかしかったが、確かに歩きやすかった。
和室を出た途端、シズクは改めて館の大きさに圧倒された。廊下は大人が三人並んでも余るほど広い。天井も高く、扉の取っ手はシズクの肩より上にある。棚は背伸びしても上段へ届かず、窓も、椅子も、食卓も、何もかもが一回りどころか二回りは大きい。
「この館は、エヴァが建てたのですか」
「俺じゃない。聖者だ」
「すべて大きいのですね」
「聖者の身体に合わせてある。俺にはちょうどいいが、お前には暮らしにくいかもしれんな」
エヴァはシズクの頭上へ手を置いた。
「まあ、そのうち踏み台くらい作ってやる」
館の外へ出る。丸太を組み上げた大きな家だった。屋根も扉も、まるで人の住居というより、巨人の館である。
前庭の先には畑が広がっていた。大根や葱に似た、シズクにも見覚えのある野菜。赤や黄色の丸い実をつける、見知らぬ草。エヴァの腰ほどまで伸びた、幅広の葉を持つ野菜。
「これは俺の国の豆だ。こっちは聖者が知っていたもの。あの大根に似たやつは、滝壺へ流れ着いた荷箱から種を拾った」
「以前にも、人が流れ着いたのですか」
「人とは限らん。樽や木箱、壊れた船、獣の死骸。上からは色々と落ちてくる」
館の脇には、分厚い石で造られた小屋があった。
エヴァが扉を開くと、雪山のように冷たい空気が流れ出した。中には、魚や大きな肉の塊が保管されている。
「寒い……」
「保存蔵だ。氷の力を持つ石が埋め込まれている。聖者が狩った獣も、すぐに食べきれんものはここへ入れる」
「これほどの獣を、一人で狩るのですか」
「聖者は大抵の獣より大きくて強い」
エヴァは当然のように言った。
シズクは、ますます聖者という人物の姿を想像できなくなった。
◇
館の裏手を抜けると、轟音が一層大きくなった。地面が震えている。空気に混じる水気も濃くなり、髪や頬がじっとり濡れた。木々の間を抜けたところで、シズクは立ち止まった。
壁があった。
山ではない。峰も、稜線も、頂も見えない。ただ黒い岩肌だけが左右へ果てしなく続き、空へ向かって伸びている。見上げても、上端には届かない。岩壁は途中から白い霧と雲に呑まれ、その先にも壁が続いているのか、空があるのかすら分からなかった。
その壁の一角から、白い水が落ちている。
あまりにも高く、あまりにも幅が広い。滝というより、空そのものが崩れ落ちているようだった。
「あれが……私の落ちた滝」
「おそらくな」
巨大な滝の下には、果ての見えない水面が広がっている。激しい飛沫と霧の中へ、流木が浮かんでいた。
「あそこに、お前が引っかかっていた」
エヴァが滝壺の一角を指した。
「俺が泳いで引き上げた」
「どうして、私は生きていたのでしょう」
エヴァはすぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ、目が険しくなる。
「運がよかったんだろう」
「運だけで、あれほど高い場所から……」
「谷底には、落ちてくる者を受け止めるものがある」
「何があるのですか」
「今は知らなくていい」
「エヴァは、ご存じなのですか」
「さあな」
明らかに何かを知っている顔で、エヴァは肩をすくめた。
「そのうち、聖者から聞け」
それ以上は答えるつもりがないらしい。
エヴァは地面へしゃがみ込み、小枝で土の上に大きな円を描いた。
「これは聖者の考えだ。確かめたわけじゃない」
円の内側をなぞる。
「この内側全部が、巨大な断崖になっている。場所によって川が流れ込めば、お前の国のように大滝になる。俺の国の近くには川がなかった。ただの乾いた断崖だった」
「同じ場所なのですか」
「たぶんな」
「では、崖に沿って歩けば、私の国とエヴァの国を行き来できるのでは」
「俺の国では、そんなことを考える奴はいなかった」
エヴァは円の外側へ、小さな印をつけた。
「魔界の大穴に近づくこと自体が禁じられていた。崖に沿って進んでも、何もないと思われていた。だから皆、崖に背を向けて領土を広げた」
「向こう側へ行こうとは……」
「誰も思わなかった。平地を奪い、川を押さえ、隣国と戦う方が大事だったんだ」
エヴァは、その印の周囲へ複数の点を描いた。
「俺の国。敵国。交易をしていた国。名だけ知る遠方の国。俺たちは、この辺り全部を世界だと思っていた」
次に、それらを囲む小さな円を描く。
さらに、その外側へ、比べものにならないほど大きな円を描いた。
「だが、谷底へ流れ着く物を調べると、俺たちの知らん文化や生き物がいくつもある。聖者の考えじゃ、俺たちが世界だと思っていた範囲全部を合わせても、本当の世界じゃ一つの国ほどでしかないらしい」
「一つの……国」
シズクには、その大きさを想像することさえできなかった。
「では、私の国も」
「どこにあるかは分からん。お前の国が、俺たちの知る世界と同じ場所にあるとも限らん」
エヴァは小枝を放り捨てた。
「俺たちは世界を知っていたんじゃない。知っている土地だけを、世界と呼んでいただけだ」




