第一話 世界の果てから落ちた巫女
シズクが生け贄に選ばれたのは、十八になった年の春だった。
三月ものあいだ雨が降らず、田畑はひび割れ、山から引いた水路も底をさらしていた。井戸から汲み上げた水には泥が混じり、幼子や年寄りから熱を出した。
神がお怒りなのだと、里の老人たちは言った。清らかな娘を捧げれば、神は再び雨を降らせてくださる。そうして選ばれたのが、親を早くに亡くし、神殿で育てられた巫女のシズクだった。
白い小袖を着せられた。
長い黒髪を梳かれ、唇には薄く紅を引かれた。
まるで嫁入りの支度だった。
けれど、その先で待っているのは夫ではない。世界の果てだった。
里から山をいくつも越えた先に、川がそのまま大地の外へ流れ落ちる場所がある。対岸は見えない。底も見えない。ただ白い水だけが、雲と霧の向こうへ落ち続けていた。
里の者たちは、そこを神の滝と呼んでいた。
滝の底には神の国があり、捧げられた娘は神の妻となる。シズクも幼い頃から、そう教えられてきた。だが、滝から戻ってきた娘は一人もいない。
「お役目である」
長老は言った。
「里のため、喜んで神へ身を捧げよ」
背後では、大勢の里人が地面へ額をつけていた。その中に、シズクと目を合わせる者はいなかった。喜べるはずがなかった。死にたくない。そう叫びたかった。だが、縄を握る男たちの顔にも、恐れと疲れが刻まれていた。雨が降らなければ、彼らも死ぬ。シズクは断崖の前へ立たされた。
轟音が腹の底まで響いていた。
白い飛沫が霧となり、頬や髪を濡らす。
足元の先には、もう大地がなかった。
「神よ。この娘をお納めください」
背中を押された。
空と大地が反転した。
白い袖が激しくはためき、息が喉の奥へ押し込まれる。上を向いたのか、下を向いたのかも分からなかった。里人の姿は瞬く間に遠ざかり、やがて霧の向こうへ消えた。
水が身体を打った。
冷たい。
苦しい。
息ができない。
シズクはただ、死にたくないと願った。
誰にも届かない願いを胸に抱えたまま、意識を失った。
◇
目を覚ましたとき、シズクは布団の中にいた。頬の下から、乾いた藺草の匂いがした。
恐る恐る目を開く。
身体の下には、見慣れた畳が敷かれていた。枕元には低い行灯が置かれ、横へ引いて開ける障子と襖がある。壁際には背の低い箪笥があり、その上には畳まれた衣服が置かれていた。
神殿の客間とよく似ている。
けれど、何かがおかしかった。
障子が大きい。
鴨居は、シズクが腕を伸ばしても届かない高さにある。
畳一枚も見慣れたものより広く、天井を渡る丸太の梁は、神殿の大広間に使う柱よりも太かった。
壁の一部は、削った丸太を横に積み重ねて造られている。
和室だけを、巨大な木の館の中へ収めたような部屋だった。
自分が小さくなったのではない。
この館が、大きな何者かのために造られている。
「ここは……神の御殿なのでしょうか」
声を出した途端、胸の奥に痛みが走った。激しく咳き込む。襖の向こうから、重い足音が聞こえた。一歩ごとに、床板が低く鳴る。
襖が開いた。
現れた女を見て、シズクは布団を胸元まで引き上げた。
大きい。
里の男たちよりも背が高く、肩幅も広い。腕には鍛え抜かれた筋肉が浮かび、簡素な上衣から伸びる手足は太く逞しい。髪は、シズクの国では見たことのない、陽に透ける麦のような色をしていた。
大女は木の椀を持ったまま、シズクを見下ろした。
「目が覚めたか」
低く、よく通る声だった。
「無理に起きるな。滝の水を相当飲んでいた。胸も喉も痛むだろう」
「あ、あなたは……神様ですか」
「俺が神に見えるか?」
女は鼻で笑い、巨大な座卓の端へ椀を置いた。
「俺はエヴァだ。滝壺に浮いていたお前を引き上げた」
「滝壺……」
「息を戻したのは聖者だ。お前を見つけたときには、ほとんど息をしていなかった」
「聖者様が……」
「様をつけるかどうかは、本人に会ってから決めろ」
エヴァは巨大な椀から、小さな湯呑みへ温かな飲み物を移した。その湯呑みでさえ、シズクが両手で持つほど大きい。
「水に薬草と蜂蜜を入れた。少しずつ飲め」
シズクは警戒しながらも、湯呑みを受け取った。温かな甘さと薬草の苦味が、傷ついた喉へゆっくり染み込んでいく。
「私は……死んだのではないのですか」
「心の臓が動いているだろう」
エヴァは自分の胸を拳で叩いた。
「俺のも動いている。死者は腹も減らんし、寝汗もかかん。ここは死者の国じゃない」
「ですが、私は世界の果てから落ちました」
「世界の果て?」
「はい。里に雨が降らず、神へ捧げる生け贄として、神の滝から……」
エヴァの眉間に深い皺が寄った。怒っているように見え、シズクは身を固くした。だが、その怒りはシズクへ向けられたものではなかった。
「お前の国では、あれを滝と呼ぶのか」
「川が、崖の向こうへ落ちています。下には神の国があると」
「俺の国に滝はなかった」
エヴァは椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
巨大な椅子であるにもかかわらず、彼女が座ると不自然には見えない。
「俺の国にあったのは、底も向こう側も見えん断崖絶壁だ。水なんざ一滴も流れていなかった。俺たちは、そこを魔界の大穴と呼んでいた」
「魔界……」
「悪魔どもの国へ続く穴。落とされた者は、魂まで食われるとな」
「では、あなたも……」
「エヴァでいい」
「ですが」
「俺がいいと言ってる。今は休め」
反論を許さない口調だった。怖いはずなのに、不思議と嫌な感じはしなかった。この女は、シズクを傷つけるつもりがない。それだけは、言葉の端々から伝わってきた。




