第二十九話 覗いてしまうと【一般公開版】
その夜。
リーゼは物音で目を覚ました。
最初は魔物かと思った。身体が先に動く。寝台から起きる。拳銃は没収中。代わりに、枕元へ置いていた棒を掴んだ。
扉を静かに開ける。暗い廊下。遠くで響き続ける大瀑布の轟音。
そして。
それとは別の、妙に規則的な音。
リーゼは眉を寄せた。
「……まさか」
昼間の記憶が蘇る。
いや、いくら何でも、夜中まで。
リーゼは音を立てず、廊下を進んだ。
大広間へ続く角を曲がる。
そこで止まった。
人影がある。
誰かが床へ伏せていた。
「……何だ?」
一瞬、侵入者かと思った。
だが違う。
黒髪。見慣れた巫女服。ただし、下半身が露出していた。
シズクだった。
館の廊下は薄暗く、窓から差し込む夕暮れの光が埃を金色に浮かべていた。
寝室の扉は、わずかに開いている。
シズクは息を殺して、その隙間から中を覗いていた。
中では、エヴァとノアが激しく交わっていた。
リーゼは数秒理解できなかった。
それから、大広間の中から、再びエヴァの声が聞こえた。
リーゼの顔が引きつる。
「…………」
さらに、規則的な床の軋み。
エヴァの声。
ノアの低い声。
そして、そのすべてを。
シズク真剣そのものの顔で覗いている。
「……お前」
小さく呼んだ。
シズクの肩が跳ねた。
勢いよく振り返る。
「っ!」
互いに固まる。
リーゼ。
シズク。
数秒。
シズクが、自分の尿や体液で濡れている人差し指を、口元へ当てた。
「しっ」
「しっ、ではない!」
リーゼも小声だった。
「何をしている!」
「見れば分かるでしょう」
「分かりたくない!」
「では見ないでください」
「私はお前を見ている!」
シズクは少し考えた。
「それなら問題ありません」
「問題だらけだ!」
シズクは再び戸の隙間へ顔を戻した。
リーゼの目が見開かれる。
「戻るな!」
「静かにしてください。気づかれます」
「気づかれて困ることをするな!」
「別に困りません」
「なら隠れるな!」
「見つかったらエヴァが話しかけてきて集中できません」
リーゼは頭を抱えた。
そこなのか。問題はそこなのか。そして最悪なことに、リーゼは戸の隙間へ目を向けてしまった。
リーゼは顔を背けることが出来ないまま固まっていた。
見なければよかった。完全に、見なければよかった。戻れ。自室へ。今すぐ。足を動かせ。動かない。なぜだ。
軍では緊急時に身体が硬直した場合、呼吸を整え、周囲を確認し――。
そういう問題ではない。
「何をやっているんだ、小官は……」
思わず小官になった。
隣から声がする。
「リーゼ」
「何だ!」
「もう少し下がってください」
「なぜだ」
「私が見えません」
リーゼが勢いよく、シズクを見る。
「貴様!」
「声が大きいです」
「誰のせいだ!」
結局。
リーゼは逃げた。自室へ戻り。寝台へ入る。目を閉じる。開く。また閉じる。忘れろ。見なかった。何も見なかった。自分は帝国航空隊大尉。世界壁越えの飛行任務へ参加した軍人。
夜中に他人の情事を覗くために訓練を受けた覚えはない。
まして。先客の巫女と場所を取り合うためでもない。
「……この館はおかしい」
誰も答えなかった。
翌朝。
リーゼはほとんど眠れないまま食卓へついた。
シズクが普通に朝食を並べている。何事もなかったような顔だった。
リーゼは睨む。
シズクも気づく。
「おはようございます」
「……おはよう」
「眠れましたか?」
「誰のせいだと思っている」
「エヴァですか?」
「お前だ!」
シズクは首を傾げた。
「私は静かにしていました」
「声が出ていた!」
エヴァはまだ来ていない。
ノアはすでに屋外の机で食事を始めている。
シズクはリーゼの向かいへ座った。そして。何でもないことのように言った。
「昨晩の二人、かなり良かったですね」
リーゼの手から匙が落ちた。
からん。
「……何?」
「昨晩です」
「分かっている!」
「エヴァ、いつもより声が大きかったでしょう。あれは見せにきてましたね。私も覗きましたが、良いものを見ました」
「知らん!」
「見ていたではありませんか」
「見ていない!」
「見ましたよね?」
「事故だ!」
シズクが少し笑った。
「最初は皆そう言います」
「皆とは誰だ!」
「私も最初は偶然でした」
リーゼの顔が引きつる。
「……最初は?」
「はい」
「今は?」
シズクは味噌汁のような汁物を一口飲んだ。
「自分から見に行くことが多いです」
「堂々と言うな!」
「リーゼも昨日来たではありませんか」
「物音の確認だ!」
「でも私とエヴァの2人を覗いていました」
「途中で身体が動かなかっただけだ!」
「分かります」
「分かるな!」
シズクは妙に嬉しそうだった。
「覗き仲間ができました」
「誰が仲間だ!」
「私一人だと、エヴァにからかわれるので助かります」
「私は助からん!」
「次から一緒に行きますか?」
「行かん!」
「良い場所がありますよ」
「場所まで決めているのか!」
シズクは少し身を乗り出した。
「昨日の場所より、廊下の反対側の柱の陰の方が見やすいです」
「情報を共有するな!」
「あと、エヴァは途中からこちらに気づいて、見せてくれます。」
リーゼが止まった。
「……何?」
「こちらも見せますが」
「待て」
「はい」
「気づいていた?」
「エヴァは結構鋭いので」
リーゼの顔から血の気が引く。昨日の自分。戸の前。シズクの隣。中を見て、動けなくなって。
「……小官は」
「はい」
「帝国航空隊大尉だぞ」
「知っています」
「軍の広報も兼ねて、世界壁越えへ挑んだ人間だ」
「立派ですね」
「それが何で」
リーゼは両手で頭を抱えた。
「谷底で元巫女と一緒に情事を覗いているんだ……」
シズクは少し考え。
「谷底に慣れてきたからでは?」
「関係あるか!」
そこへエヴァが入ってきた。
「何の話だ?」
リーゼとシズクが同時に黙る。
エヴァは二人を見る。
そして、にやりと笑った。
「仲良くなったみたいだな」
「違う!」
リーゼが叫ぶ。
シズクは静かに頷いた。
「はい。覗き仲間です」
「シズク!」
「おお、大尉殿もついにか」
エヴァの笑みが深くなる。
「違うと言っているだろおおおっ!」
朝の館に。
リーゼの絶叫が響いた。




