第二十七話 世界壁の底の風呂には、規律というものがない
リーゼが谷底で初めて露天風呂へ入ったのは、歩き回っても傷が痛まなくなった日の夕方だった。
「……これは認めよう」
湯に肩まで浸かりながら、リーゼは言った。
岩を組んだ大きな湯船。そこへ温泉が流れ込み、溢れた湯はそのまま下流へ抜けていく。周囲には高い岩と木々。空を見上げても世界壁の上など見えない。
だが、風呂そのものは快適だった。
「何を認めるんだ?」
エヴァが聞く。
「谷底にも文明的な設備が存在することをだ」
「聖者が作ったけどな」
「またあの男か」
「大抵そうです」
シズクも湯へ浸かっている。三人で入るには十分すぎる広さだった。
リーゼは湯を手ですくった。
「配管もない。ボイラーもない。それでこの温度を維持しているのか」
「ぼいらあ?」
シズクが聞く。
「今はいい」
リーゼは諦めた。
そして、正面のエヴァを見る。
視線を少し下げる。
それから。自分を見る。黙る。
エヴァが気づいた。
「どうした?」
「何でもない」
「胸か?」
「言うな!」
シズクが静かに顔を背けた。もう慣れている。
エヴァは自分の胸を持ち上げるようにして笑った。
「戦うなら、お前くらいの方が便利だぞ」
「慰めるな!」
「別に慰めてない。俺は鎧に押し込むのが面倒だった」
「聞いていない!」
「走ると邪魔だし」
「聞いていないと言っている!」
「捕虜になった後は、まあ別の意味で便利がられたけどな」
リーゼが止まった。
「……それは」
まただ、急に笑ってよいのか分からない話を混ぜる。
シズクは湯へ顎まで浸かりながら言った。
「エヴァはそういう人です」
「お前はなぜ平然としていられる」
「慣れました」
「慣れるな!」
エヴァが笑う。
「いいじゃないか。昔の俺の胸をどう扱うかは連中が決めた。今は俺が決める」
「それは……そうかもしれんが」
「だから今は、聖者に好きなだけ揉ませてる」
「なぜ最後にそれを付け足す!」
「重要だから」
「重要ではない!」
シズクが訂正する。
「エヴァにとっては重要です」
「お前まで!」
リーゼは頭を抱えた。
数日、この館で暮らして分かったことがある。
エヴァには羞恥心がない。正確には、羞恥心を感じる場所がリーゼとはまるで違う。昼間に聖者と所構わずセックスをしている。夜中に大声で喘いでいる。翌朝には洗濯物が増えている。
たまに風呂へ来る前から裸で館を歩いている。行為のあとが、まざまざと分かるままで。
そして、そのすべてについて質問すれば普通に答える。
リーゼには理解できなかった。
「一つ聞きたい」
「何だ?」
「この館の規律はどうなっている」
エヴァが考える。
「規律?」
「生活上の規則だ!」
「便は便所」
「それだけか!」
「飲み水の上流を汚さない」
「そうではない!」
「知らない植物には触るな」
「もっと人間関係の話だ!」
エヴァはようやく意味を理解した。
「ああ。聖者とのことか」
「なぜそう即答できる!」
「お前、ずっと気にしてるだろ」
リーゼの顔が赤くなる。
「気にしているのは風紀だ!」
「俺はやりたい時にやる」
「それを風紀が無いと言うんだ!」
「嫌な時はやらん」
「当然だ!」
「聖者も嫌なら止める」
「それも当然だ!」
「じゃあ何が問題だ?」
リーゼが両手を上げた。
「うがあああっ!」
谷底に軍人らしくない叫びが響いた。
エヴァは腹を抱えて笑う。
「言っとくけどな。シズクも大概だぞ」
「え?」
シズクが顔を上げた。
リーゼも見る。
「この巫女が?」
「ああ」
「何の話ですか」
「最近ちょいちょい覗きに来るだろ」
「え?」
「バレてるぞ」
「え?」
シズクの顔が少しずつ赤くなる。
エヴァがにやにやしている。
「しかも見てるだけじゃない」
「エヴァ」
「何だ?」
「それ以上はいけません」
「もう遅い。こっちに見せつけてるだろ!」
リーゼがゆっくりとシズクを見る。
「……お前もなのか?」
「違います」
「何が違うんだ?」
「……色々です」
「答えになっていない!」
エヴァが笑いながら、さらに何か言おうとした。
シズクが湯を両手ですくう。
ばしゃん。
エヴァの顔へ浴びせた。
「おい!」
「黙ってください!」
「図星か」
もう一杯。
「わかった! わかったから!」
リーゼは二人を見た。
元王女。巫女。航空隊大尉。そして館の外にはオーガの聖者。
リーゼは湯船の縁へ額をつけた。
「……帝国軍規が恋しい」
シズクが同情するように言った。
「リーゼ」
「何だ」
「諦めると楽になります」
「その境地には絶対に行かん」
その時点では。
リーゼは本気でそう思っていた。




