第二十六話 はじめて谷底に助手がうまれた
「何が問題だ」
リーゼが聞いた。
エヴァは答えず。
少し離れた場所で作業を続けるノアを見た。
「お前、聖者を最初に見た時、何だと思った?」
「……人間ではない」
「まあな」
「角がある。二メートルを超える巨体。異常な腕力。傷を治す体液。しかも女の精神と身体へ影響する」
リーゼの声が硬くなる。
「率直に言えば、化け物ではないのか」
シズクが少し顔を強張らせた。
だが、エヴァは怒らなかった。
「ああ」
あっさり頷く。
「身体だけ見れば、そう思っても仕方ない」
リーゼが少し意外そうな顔をする。
「否定しないのか」
「俺だって最初に殴ったからな」
「それは聞いた」
「でもな」
エヴァの声が変わった。
「お前、昨日から聖者がほとんど館に入ってこないのに気づいたか?」
「……ああ」
「食事も外だ」
「見た」
「雨の日もだ」
リーゼが黙る。
「俺と聖者は一年一緒にいる。それでも昼間は必要以上に一緒にいない。シズクが来てからは、もっと離れるようになった」
「なぜだ」
「お前が今言ったからだよ」
エヴァは自分のこめかみを指した。
「聖者の身体は、近くにいる女へ勝手に作用する」
リーゼの顔が険しくなる。
「なら、なおさら危険だ」
「危険だぞ」
即答だった。
「だから、聖者自身が一番気をつけてる」
「本人が?」
「ああ」
エヴァは指を折る。
「館には長居しない。寝てる女の部屋へ勝手に入らない。必要が終われば出ていく。触る時は聞く。俺が相手でも確認する」
「お前とは、その……関係があるのだろう」
「ある」
「それでも?」
「それでもだ」
エヴァはリーゼを見る。
「聖者が一番怖がってるのは、自分が女を襲うことじゃない」
「何?」
「女が自分から望んだ時、それが本当にその女の意思なのか分からなくなることだ」
リーゼは黙った。
シズクも。
何度も聞いた話だった。だが改めて聞くと、ノアがいつも遠くにいる意味が、よく分かる。
「俺たちが『したい』と思っても、あいつは聞く」
エヴァが続ける。
「本当にいいのか。嫌じゃないか。身体が勝手にそうなってるだけじゃないのか」
リーゼがノアを見る。
遠く、こちらへ背を向け一人で部品を削っている。
「……そこまでしているのか」
「一年だぞ」
エヴァが鼻で笑った。
「毎日面倒なくらいにな」
シズクが言う。
「本当に何度も確認します」
「シズク?」
「事実ではありませんか」
「まあな」
リーゼはしばらく考えた。
「だが危険性が消えるわけではない」
「その通り」
「なら管理すればいい」
エヴァが眉を上げた。
「管理?」
「屋外で作業する。距離を取る。時間を決める。長時間連続して接触しない。異常を感じたら作業を中止する」
一つずつ、軍人らしく数えていく。
「必要なら交代要員を置く」
「俺か?」
「貴様しかいない」
「シズクは?」
「技術的な監視役にならん」
「失礼ですね!」
リーゼは聞いていない。
「危険だから近づかない、では何もできない。危険性を把握し、手順を定める。それが管理だ」
エヴァが笑った。
「お前、そういうところは聖者と合いそうだな」
リーゼはノアへ歩き出す。
数歩。
そして止まった。
振り返る。
「どのくらい離れればいい」
エヴァが大笑いした。
「もう怖がってるじゃないか!」
「安全確認だ!」
「はいはい」
リーゼは顔を赤くした。
それでも、ノアから少し離れた位置まで行く。
「聖者」
ノアが振り返った。
「何?」
「貴様の仕事を見せろ」
「……貴様?」
「私は基本的にこういう話し方だ」
「そっか」
ノアは笑った。
「でも、近くにいると危ないよ」
「聞いた」
「エヴァから?」
「かなり詳しく」
遠くからエヴァが叫ぶ。
「俺は説明が上手いからな!」
「余計なことまで聞いた!」
リーゼが怒鳴り返す。
そして、ノアを見る。
「危険なら手順を決める」
「手順?」
「屋外。距離を取る。時間制限。異常が出れば中断」
ノアが少し驚いた。
それから、ゆっくり頷く。
「それなら、いいかもしれない」
「私は機械を知っている」
リーゼは言った。
「お前の知識を全部理解できるとは言わん。だが、あの二人よりは話が早い」
遠くから、シズクが叫んだ。
「聞こえています!」
エヴァも叫ぶ。
「俺も聞こえてるぞ!」
リーゼは初めて、少し楽しそうに笑った。
墜落した飛行機は壊れた。銃は取り上げられた。部下はいない。帝国も、世界壁の遥か上。ここでは、航空隊大尉という肩書きそのものには、大した意味がなかった。
だが、自分にできることは、ようやく一つ見つかった。
「では聖者」
リーゼは腕を組む。
「まず、その歯車からだ」
ノアも頷いた。
「うん」
谷底に、初めて。
聖者の技術を理解できる助手ができた。




