第二十話 谷底の大尉
リーゼロッテ・ヴァイスが、自分の足で立てるようになったのは、それから二日後だった。
「リーゼロッテ」
エヴァが呼ぶ。
「何だ」
「長い」
「何がだ」
「名前だ」
リーゼロッテは眉を寄せた。
「人の名を長い短いで評価するな」
「今日からリーゼでいいな」
「待て」
「シズク。こいつは今日からリーゼだ」
「はい。リーゼですね」
「お前まで即座に受け入れるな!」
こうして決まった。本人の同意は、あまり関係なかった。
「横暴だぞ」
「元王族だからな」
「それは免罪符ではない」
「もう王族じゃないから安心しろ」
「何を安心しろというのだ!」
シズクは少し離れて、そのやり取りを見ていた。
リーゼ。
確かに呼びやすい。
それに、立っている姿を改めて見ると、墜落直後とはかなり印象が違った。
背はシズクより高い。身体は細いが、弱々しくはない。肩、腕、腹、脚。余分な肉がほとんどなく、全体が引き締まっている。いかにも鍛えている身体。
ただし。
シズクは自分の胸と、リーゼの胸を見比べた。
「何だ」
気づかれた。
「いえ」
「今、どこを見た」
「見ていません」
「見ただろう」
エヴァまで見る。
「おお」
「何だ」
「本当に無いな」
「何がだ!」
「胸」
「言うな!」
エヴァは自分の胸を見下ろしてから、リーゼを見る。
「空を飛ぶには便利そうだな」
「どういう意味だ!」
「風の抵抗が少ない」
「貴様!」
シズクが静かに言った。
「エヴァ。たぶんそういう仕組みではありません」
「知ってる」
「では言わないでください」
「面白いだろ」
リーゼがシズクを見る。
「……いつもこうなのか?」
「はい」
即答だった。
「慣れます」
「慣れたくない」
「私も十二日前はそう思っていました」
リーゼの飛行服は破損がひどかった。洗えるものは洗ったが、しばらく普段着にはできそうにない。そのため、館に残っていた漂着衣類から着られるものを選ぶことになった。
胸回りだけは、驚くほど調整がいらなかった。
エヴァが布を合わせながら言う。
「ここ、詰めなくていいな」
リーゼの眉が動く。
シズクは嫌な予感がした。
「エヴァ」
「何も言ってないだろ」
「これから言う顔をしています」
「シズクより手間がかからなくていいなって」
「それ以上はやめてください」
「俺の服なんか胸で取られるから布を食うんだぞ」
「聞いていない!」
リーゼが叫んだ。
エヴァは楽しそうだった。
「大丈夫だ。胸なんぞ戦場じゃ邪魔なだけだ」
「……それは慰めているのか?」
「俺はでかいまま戦ってたからな。走ると揺れるし、鎧に収めるのも面倒だった」
シズクは淡々と言う。
「この人は下着の話を始めると長いです」
「なぜそんな情報を平然と受け流せる!」
「慣れました」
「恐ろしい場所だな、ここは」
「谷底ですから」
「谷底は関係ないだろう!」
そのリーゼへ割り当てられたのは、館の西側にある空き部屋だった。
寝台。机。椅子。棚。窓。
シズクの部屋とはまるで違う。
「私の部屋には畳があります」
「タタミ?」
「床に敷くものです」
「床なら板があるだろう」
「そういうものではありません」
早くも通じない。
エヴァが寝台を叩く。
「リーゼはこっちの方が馴染みあるだろ」
リーゼは寝台を確認する。毛布を捲る。脚を揺らして強度を見る。
窓。入口。家具の配置。最後に、扉から窓までの距離まで確かめた。
「悪くない」
「まず出口を見るのですね」
シズクが聞く。
「当然だ」
「なぜですか」
「侵入された時の退路を確保するためだ」
エヴァが笑った。
「寝る時まで戦争か」
「軍人なら当然だ」
「俺は捕虜になってから寝台を見ると、まず縛る場所があるか確認する癖がついたぞ」
リーゼが止まった。
「……何?」
エヴァは平然としていた。
「手首と足首を固定しやすい柱があるか、とかな」
「エヴァ」
シズクが呼ぶ。
「あ?」
「リーゼが困っています」
見る。
リーゼは本当に、どういう顔をすればいいのか分からない顔をしていた。
「……それは、笑ってよい話なのか?」
エヴァは肩をすくめた。
「俺が笑って話してるんだから、好きにしろ」
「好きにしろと言われても」
「無理に笑わんでもいいぞ」
エヴァは寝台へ腰掛けた。
「昔は嫌でも縛られた。今は縛られるなら俺が頼んだ時だけだ。この差はでかい」
「何の話をしている!」
「寝台の話」
「違うだろう!」
シズクはもう驚かなかった。
「エヴァは、自分の昔のことをこういうふうに話します」
「お前は平気なのか?」
リーゼが聞く。
「最初は困りました」
「今は?」
「長くなりそうならお茶を淹れます」
エヴァが吹き出した。
「いい女になったな、シズク」
「誰のせいですか」
「俺」
「自覚があるなら少し控えてください」
「嫌だ」
リーゼは額を押さえた。
「小官は、墜落後の精神状態がまだ正常ではない可能性がある」
エヴァが笑う。
「出たな、小官」
リーゼが顔を上げる。
「何だ」
「緊張すると小官になるんだな」
「ならん!」
「なっています」
シズクが言った。
「お前まで!」
荷物も部屋へ運ばれた。
衣類。地図。書類。飛行帽。目を覆う透明な道具。工具。
ただし、一つだけ無い。
リーゼは荷物を一通り確認してから、低い声で聞いた。
「私の拳銃は」
エヴァが答える。
「俺が預かる」
「返せ」
「嫌だ」
「私物だ」
「知ってる」
「なら返せ」
「まだ怪我人だろ」
「銃の扱いに怪我は関係ない」
「お前、昨日立とうとして倒れたろ」
リーゼが黙る。
「それは……」
「倒れながら撃たれちゃ困る」
「小官は帝国航空隊大尉だぞ!」
エヴァがにやりとした。
「ほら」
「何がだ!」
シズクが頷く。
「本当ですね」
「何が!」
「小官になりました」
「貴様ら……!」
拳銃は返されなかった。弾も別の場所へ保管された。
「元気になって、ここがどういう場所か分かって、それでも必要なら考える」
エヴァはそう言った。
「敵対する気なら?」
リーゼが聞く。
「その時は返さない」
「当然だな」
「あと俺とやり合うなら銃があっても別にいいぞ」
リーゼの目が細くなる。
「随分な自信だな」
「戦場暮らしが長いからな」
エヴァは腕を組んだ。
「捕虜になった時は全部取られたぞ。武器も服も尊厳も」
リーゼの表情がまた固まった。
エヴァは続ける。
「だから今回は武器だけだ。随分待遇がいい」
「エヴァ」
「何だ」
「またリーゼが困っています」
「忙しい奴だな」
「貴様のせいだ!」
「そのうち慣れる」
「慣れたくない!」
シズクが小さく笑った。
聞き覚えがある。自分も、同じことを言った気がする。
その夜。
三人の女が、同じ館にそれぞれの部屋を持った。
巫女。元王女。航空隊大尉。
生まれた国も。身分も。知っている世界も。何一つ同じではない。
それでも谷底では。
誰が王の娘だったかより。誰が大尉だったかより。
どの部屋で眠るか。誰が明日の洗濯をするか。夕食の後片付けを誰がするか。
そちらの方がずっと大事だった。
そしてリーゼはまだ知らない。
この館では。
元王女の下ネタにどう反応するかも。
意外と重要な生活技能だった。




