第百九十話 元恋人は敵で、今の隣は何なのか
イルゼは、まだ眠っていた。
館の客室では、窓を少しだけ開けて風を通している。墜落時に負った額の傷、右肩の強い打撲、三本の肋骨骨折。普通なら、しばらく寝台から動けない怪我だ。
もっとも、この谷底では普通の治療だけをしているわけではない。
ティセラが寝台の脇で、小さな瓶を光へ透かしていた。
「経過は良好です。呼吸も安定していますし、骨折部の治癒も始まっています。このまま眠らせておけば、明日にはかなり楽になるでしょう」
リーゼは瓶を見る。
「昨日使ったものか」
「はい。聖者から定期採取している原液を希釈したものです」
スージーが猫耳を動かした。
「原液?」
ティセラはいつも通り、何の感情もなく答えた。
「ノアくんの精液です」
スージーの猫耳が直立した。
リーゼは額を押さえた。
「教授。新入りの前でも説明を省略しないその姿勢だけは評価するが、もう少し言い方というものを考えろ」
「事実ですので」
「事実なら何でもそのまま言えばよいというものではない!」
ティセラは不思議そうな顔をした。
「以前、生命の危険がある患者には採取直後の原液を直接使用しています。現在は定期的に採取試験を行い、採取量、保存性、希釈倍率、治癒速度、投与方法について研究しています。イルゼさんは緊急状態ではありませんでしたから、保存していた原液を希釈して使用しました」
スージーは寝台を見る。
「……効いてるのよね?」
「非常によく」
「じゃあ、イルゼなら文句言わないと思う」
リーゼが横を見る。
「分かるのか」
「昔だったらね」
その一言のあと。
スージーの耳が、少しだけ伏せた。
「怪我が治るなら毒じゃない限り飲む女だったから。味がどうとか、原料がどうとか、あんまり気にしないの」
リーゼは眠るイルゼを見る。
「軍人らしいと言えば軍人らしいな」
「そういうところは、たぶん今も変わってない」
また。
昔のイルゼを知っている言葉だった。
リーゼは何も言わなかった。
◇
イルゼを眠らせている間に、改めて事情を聞くことになった。
場所は屋根付きのバルコニー。
スージーを中心に、リーゼ、エヴァ、シズク、レティ、アデラ、麗華、ティセラ、それにクロエとアスラたちも集まっている。
スージーはしばらく茶を見ていたが、やがて口を開いた。
「イルゼ・アーベントロート。私と同じ世界の人間。ドイス帝国軍人。今は……ドイス残党ね」
アデラが腕を組む。
「前に話してた連中か」
「そう。戦争に負けてドイスという国そのものは滅びた。でも、軍人や支持者の一部は残った。地下に潜って、資金を集めたり、武器を集めたり、古代遺物を探したりしてる」
レティが言う。
「国を再興するためでござるか」
「それを目指してる連中もいる。イルゼが今どの程度そこへ関わっているのかは、まだ分からない」
リーゼがすぐに聞く。
「昨日の飛行は?」
「知らない。私がイルゼと最後に会ったのは、かなり前だから」
「最後に会った時が、裏切られた時か」
スージーが頷いた。
「そう」
そこから。
少し時間をかけて。
スージーは話した。
最初に会った時、イルゼは軍人を名乗っていなかった。
冒険家。
護衛。
遺跡へ入れる戦闘技能を持った女。
そんな程度だった。
二人で遺跡へ入った。
一度。
二度。
そして、それが当たり前になった。
「私は古代文字を読む。罠を探す。遺跡の構造を考える。イルゼは周囲を警戒して、危ない時には前へ出る。移動に飛行機を使う時は、操縦もほとんどあの人だった」
そこで。
リーゼの顔が少し変わった。
「ほとんど?」
「イルゼ、自分で飛ぶのが好きなのよ」
「軍用機だけではないのか」
「輸送機でも小型機でも、飛べるものなら割と何でも。着陸できる場所がない山の中にも降ろしたし、砂漠の岩場にも降ろした。私は何度も死ぬと思った」
リーゼの眉が上がる。
「無理な着陸をするタイプか」
「する」
「機体を傷める」
「傷める」
「そして本人は、降りられたのだから問題ないと言う」
スージーが。
止まった。
「……何で分かるの?」
リーゼは腕を組んだ。
「昨日の墜落を見れば分かる」
全員がリーゼを見る。
「左翼を地面へ擦って機首を振り、木へ正面から突っ込むのを避けた。その前に一度接地して速度も殺している。エンジンが不調で、片翼も傷んでいた。それでも操縦を最後まで捨てなかった」
スージーの猫耳が動く。
リーゼは続ける。
「墜ちたのではない。最後まで降ろそうとしていた」
少しだけ。
声が違った。
軍人が。
飛行士の仕事を評価している声だった。
エヴァが笑う。
「気に入ったか?」
リーゼが睨む。
「違う!」
「でも腕は認めてんだろ」
「それとこれとは別だ!」
スージーが。
小さく笑った。
「イルゼも同じこと言いそう」
リーゼが止まる。
「……そうなのか」
「うん」
また。
妙なところで。
似ていた。
◇
スージーは話を続けた。
冒険を何度もした。
命を預けた。
助けた。
助けられた。
いつの間にか。
恋人になっていた。
ルヴァナが聞く。
「告白とかは?」
ネイラが妹を見る。
「今、そこを聞くの?」
「だって気になるじゃん」
スージーは苦笑した。
「ちゃんとしたのはなかったと思う。気づいたら同じ部屋を取ってたし、旅が終わっても次の仕事まで一緒にいた」
「自然に?」
「まあ」
スージーはそこで茶を飲んだ。
「それくらいには、信用してた」
空気が少し変わる。
「でも、ある宝を見つけた時に全部壊れた」
遺跡の最深部。
二人で辿り着いた。
スージーが遺物を調べようとした。
その背後で。
銃を抜く音がした。
振り向く。
イルゼ。
銃口。
「そこで初めて、自分はドイスの軍人だって言った」
シズクが静かに聞く。
「それまでは、一度も?」
「一度も」
「では、すべて騙されていたのでしょうか」
スージーの表情が。
少し曇る。
「それを聞いた」
リーゼが見る。
「何と答えた」
「全部じゃない、って」
リーゼは露骨に嫌そうな顔をした。
「最悪だな」
スージーが思わず笑った。
「でしょ?」
「ああ。一番処理に困る答えだ」
「そうなのよ」
全部嘘だったなら。
全部捨てられる。
任務だったと言われれば。
敵だったと割り切れる。
だが。
一緒に笑ったことも。
傷ついた時に付き添ったことも。
抱き合ったことも。
全部が嘘ではない。
ただ。
最後にはドイスを選んだ。
「宝を持って逃げた。それ以来、一度も会ってない」
アデラが聞く。
「お前は撃たれなかったのか」
「撃たれてない」
「殺せたんだろ?」
スージーは少し黙る。
「できたと思う」
リーゼがスージーを見る。
「何故、殺さなかった」
「知らない」
即答。
「聞けなかったもの」
◇
話が終わって。
しばらく。
誰も口を開かなかった。
最初に口を開いたのはエヴァだった。
「で」
スージーを見る。
「お前、まだ好きなのか?」
「エヴァ!」
リーゼが即座に叫んだ。
スージーも。
「何でそうなるのよ!」
「いや、昨日見てたら」
「怪我人だったから!」
「そうか?」
「そう!」
エヴァは今度。
リーゼを見る。
「大尉は?」
「何がだ」
「気になるか?」
「何が!」
「元恋人」
「小官には関係ない!」
少し。
早かった。
全員。
黙る。
スージーがリーゼを見る。
リーゼも。
言ってから気づいた。
「……何だ」
「別に」
「何だ、その顔は」
「何でもない」
「なら見るな」
「そっちが見てるんでしょ」
「貴様が先に見ただろう!」
麗華が茶を口へ運ぶ。
アデラが小声で聞いた。
「これ、何なんだ?」
麗華も小声だった。
「わたくしに聞かないでくださる?」
レティがさらに小声で加える。
「拙者も分からぬでござる」
エヴァだけは。
完全に分かっている顔だった。
◇
午後。
リーゼは墜落現場へ戻った。
目的は機体確認。
ということになっていた。
実際。
必要だった。
燃料。
弾薬。
武装。
搭載物。
そして。
修理できるかどうか。
スージーも付いてきた。
「飛行機、直せそう?」
「まだ分からん」
リーゼは壊れた翼を見る。
「小官の世界の機体とは構造が違う。だが、基本は同じだ。翼で揚力を作り、推進器で前へ進む」
「そこまでなら私も分かる」
「なら手を出すな」
「何でよ」
「考古学者だろう」
「昔、イルゼの飛行機は何度も手伝った」
リーゼの手が止まった。
ほんの一瞬。
「……そうか」
「何、その返事」
「何でもない」
機首を見る。
プロペラ。
エンジン。
翼。
操縦索。
リーゼはしばらく無言で調べる。
やがて。
小さく言った。
「これなら」
「何?」
「時間をかければ、飛ばせるかもしれん」
スージーの猫耳が立った。
「本当?」
「完全修復は無理だ。交換部品がない。ただ、損傷している部分の一部は工作室で代用品を作れる可能性がある」
スージーが嬉しそうな顔をした。
リーゼはそれを見る。
少し。
面白くない。
何故かは。
自分でも分からない。
「嬉しいのか」
「そりゃね。イルゼ、飛べなくなるの一番嫌うから」
「……詳しいな」
「昔の話よ」
「そうか」
また。
それだけ。
スージーがリーゼを見る。
「大尉」
「何だ」
「何か怒ってる?」
「怒っていない」
「本当に?」
「本当だ」
「じゃあ何でプロペラをそんな怖い顔で見てるの」
「これは元からこういう顔だ!」
スージーが笑った。
リーゼはますます不機嫌になった。
◇
夕方。
館へ戻ると。
イルゼが起きていた。
まだ寝台からは出ていない。
だが。
上半身を起こしている。
ティセラが横で記録を取っていた。
「安静と言ったはずですが」
「寝すぎた」
「まだ数時間です」
「十分だ」
「十分ではありません」
リーゼが客室へ入る。
「教授の言うことを聞け」
イルゼが見る。
「お前か」
「リーゼロッテ・ヴァイス。帝国航空隊大尉だ。昨日も名乗った」
「覚えている」
イルゼは少し身体を動かし。
顔をしかめた。
「飛行機は?」
リーゼが即座に答える。
「右翼は比較的無事。左翼は翼端と支持部を損傷。プロペラも一枚が曲がっている。エンジンは未分解だが、墜落前から不調だったな」
イルゼの目が。
変わった。
「見たのか」
「ああ」
「修理は」
「可能性はある」
イルゼが。
初めて。
真っ直ぐリーゼを見る。
敵を見る目ではない。
「本当に?」
「小官の世界とは構造が違う。部品もない。元通りにはできん」
一拍。
「だが、飛ばせるところまでは戻せるかもしれない」
イルゼは黙った。
そして。
「そうか」
ほんの少しだけ。
笑った。
「礼を言う」
リーゼが眉を上げる。
「随分素直だな」
「飛行機を直す相手には敬意を払う」
「軍人より飛行機が上か」
「場合による」
リーゼが。
少し笑った。
「そこは同意する」
スージーが扉のところで。
二人を見る。
何だ。
これは。
昨日まで。
知らない同士だった。
一人は。
自分の今の隣にいる航空大尉。
一人は。
自分を裏切った昔の恋人。
普通なら。
もっと険悪になると思っていた。
なのに。
飛行機の話になった途端。
妙に。
話が通じている。
イルゼが聞く。
「お前も飛ぶのか」
リーゼが胸を張る。
「飛行士だと言っただろう」
「どんな機体だ」
「貴様のものより軽い」
「遅そうだな」
リーゼの眉が動く。
「旋回では負けん」
「速度がなければ追いつけん」
「追いつく必要があると思うか?」
「面白い」
「何がだ」
「飛べるようになったら試してみたい」
リーゼが。
一瞬。
黙る。
そして。
「望むところだ」
スージーが。
とうとう言った。
「ねえ」
二人が同時に見る。
「何だ」
「何だ」
スージーの猫耳が寝た。
「何で仲良くなってるの?」
二人。
同時。
「仲良くない」
スージーは頭を抱えた。
そこまで揃うな。
◇
夜。
イルゼは再び薬が効いて眠った。
リーゼとスージーは。
廊下を歩いていた。
並んで。
いつものように。
スージーが言う。
「意外だった」
「何が」
「イルゼと大尉」
「小官と?」
「もっと嫌うと思ってた」
リーゼは少し考える。
「嫌いだ」
「即答」
「貴様を騙し、裏切った。ドイス残党でもある。信用する理由はない」
「うん」
「だが」
スージーを見る。
「飛行士としての腕は別だ」
スージーは。
少し笑った。
「イルゼも多分、同じこと言う」
「それは知らん」
「絶対言う」
「何故分かる」
「昔の恋人だから」
リーゼが止まった。
スージーも止まる。
猫耳が。
ぴくり。
「あ」
リーゼ。
「……そうか」
また。
その返事。
スージーが顔を覗き込む。
「大尉」
「何だ」
「もしかして」
「何だ」
「妬いてる?」
リーゼの顔が。
一気に赤くなった。
「誰が!」
声。
大きい。
客室から。
イルゼ。
「……うるさい」
二人。
固まる。
リーゼが客室へ向かって叫ぶ。
「寝ろ!」
「寝ていた」
「なら起きるな!」
「お前が起こした」
「貴様!」
スージーが口元を押さえる。
笑っている。
リーゼが振り返る。
「何がおかしい!」
「いや」
スージーは笑いながら。
リーゼの横へ戻った。
肩が。
少しだけ。
触れる。
「何でもない」
リーゼは離れなかった。
スージーも離れなかった。
そのまま。
二人で歩く。
後ろの部屋には。
昔の恋人。
今の隣には。
何なのか。
まだ名前をつけていない女。
そして。
その二人は。
どちらも軍人で。
どちらも飛行機乗りで。
どうやら。
空の話を始めると。
スージーよりも。
互いの方が。
少しだけ話が通じるらしい。
それが何となく。
面白くなくて。
それ以上に。
少しだけ。
面白かった。




