第百八十三話 最近、キマイラを見ませんね
昼食の後。
屋根付きのバルコニーでは、いつものように何人かが食後の茶を飲んでいた。
少し離れた土俵では、エヴァとアデラが何やら次の勝負について話している。ルヴァナも混ざっているので、放っておけば午後にはまた相撲が始まるだろう。
麗華は茶器を置き、庭の向こうを眺めた。
黒がいた。
四メートル級の巨体で、口に大きな籠を咥えている。
籠には肉、果物、野菜。それから何かの葉まで大量に詰まっていた。
黒は館へ寄らず、そのまま森の方へ歩いていく。
麗華が首を傾げた。
「そういえば」
レティもそちらを見る。
「何でござる?」
「最近、キマイラを見ませんわね」
アデラも振り返った。
「言われてみりゃそうだな」
以前なら、黒が館の周辺にいればキマイラも近くにいることが多かった。
獅子頭。
山羊頭。
竜頭。
そして蛇の尻尾。
一頭だけで何人分もうるさい。
それが、ここ数日ほとんど姿を見せていない。
レティが言った。
「体調でも崩したのでござろうか」
すると。
ルヴァナが。
何でもないことのように言った。
「妊娠してるからじゃない?」
沈黙。
麗華。
「……はい?」
アデラ。
「何?」
レティ。
「妊娠?」
リーゼも、少し離れた席から勢いよく振り向いた。
「待て!」
ルヴァナが驚く。
「え?」
「あれ? 知らなかった?」
「小官も知らん!」
「大尉も?」
「何故、小官まで当然知っている側に入れられた!」
スージーの猫耳がぴんと立った。
「私も聞いてないわよ」
「スージーまで?」
ルヴァナが周囲を見る。
「あれ? これ、みんな知ってると思ってた」
ティセラが茶を飲みながら言った。
「私は知っています」
全員の視線が教授へ向いた。
リーゼが立ち上がる。
「教授!」
「はい」
「何故報告しない!」
「危険事象ではありませんので」
「四メートル級のキマイラが妊娠したんだぞ!」
「妊娠は病気ではありません」
「そういう問題ではない!」
エヴァも土俵の方から戻ってきた。
「何騒いでる?」
アデラが指差した。
「キマイラが妊娠したって」
「ああ」
エヴァは普通だった。
リーゼが振り向く。
「貴様も知っていたのか!」
「知ってるぞ」
「何故!」
「見りゃ分かるだろ」
「分からん!」
◇
事情を聞くことになった。
ティセラが記録板を持ってくる。
「最初に変化へ気づいたのは、二週間ほど前です」
麗華が聞いた。
「見た目で?」
「食欲と行動ですね」
キマイラは元からよく食べる。
だが。
さらに食べるようになった。
黒と一緒に出歩く時間が減った。
長時間横になっていることが増えた。
水をよく飲む。
さらに、腹部にわずかな変化。
ティセラが触診。
魔力反応。
脈。
身体内部の状態。
複数の観察から。
妊娠。
ほぼ確定。
レティが聞いた。
「父親は?」
沈黙。
全員。
黒が消えていった森を見る。
アデラが言った。
「……聞く必要あるか?」
ティセラが答える。
「行動記録上、黒である可能性が非常に高いです」
リーゼが額を押さえた。
「黒なのか……」
スージーが横を見る。
「意外だった?」
「いや」
リーゼは考える。
黒。
四メートル級。
キマイラ。
四メートル級。
いつも一緒。
竜頭は黒に対する欲望を隠そうともしない。
蛇尾に至っては、黒を一貫して「お兄ちゃん」と呼びながらまとわりつく。
「……むしろ、今まで考えなかった小官がおかしいのか?」
スージーが答えた。
「谷底では考えない方が楽なこともあるから」
「それはそうだな」
麗華は、まだ別のところで引っかかっていた。
「少々お待ちくださいませ」
「何でしょう」
ティセラが見る。
麗華は慎重に尋ねた。
「キマイラが妊娠したということは」
一拍。
「何が生まれますの?」
全員。
止まった。
ティセラも。
止まった。
リーゼが。
ものすごく嫌そうな顔で教授を見る。
「教授」
「はい」
「分からないんだな?」
「分かりません」
「即答!」
レティが言う。
「馬のようになるのでござろうか」
アデラ。
「キマイラみたいになる可能性もあるだろ」
スージー。
「両方混ざる?」
麗華。
「すでに混ざっているものへ、さらに混ざりますの?」
全員。
キマイラを想像する。
獅子。
山羊。
竜。
蛇。
そこへ。
黒。
リーゼが両手で顔を覆った。
「増やすな……!」
ティセラが言う。
「非常に興味深い事例です」
「教授だけ喜ぶな!」
◇
その日の午後。
結局。
様子を見に行くことになった。
ただし。
大人数で押しかけない。
ティセラ。
スージー。
リーゼ。
レティ。
アデラ。
麗華。
そこへ。
シズク。
六人。
いや。
七人。
十分多い。
リーゼが気づいた。
「これでも多くないか?」
ティセラが答える。
「遠くから観察するだけにしましょう」
森の手前。
川に近い。
少し開けた場所。
そこに。
簡単な雨除け。
大量の枯れ草。
布。
羽毛。
毛布。
巨大な寝床が作られていた。
リーゼが止まる。
「いつの間に」
シズクが答える。
「少し前に作りました」
「誰が?」
「聖者とエヴァと黒と、皆で」
「小官は?」
「お仕事をされていました」
リーゼ。
黙る。
最近。
第五。
新種。
土俵。
地図。
管理記録。
色々。
忙しかった。
スージーが肩を叩く。
「大尉、全部把握しなくても共同体は回るのよ」
「分かっている!」
寝床。
その中央。
いた。
キマイラ。
横になっている。
確かに。
以前より。
腹部が少し丸い。
獅子頭が。
こちらに気づく。
「何よ」
山羊頭も。
「あ、見舞い?」
竜頭は。
こちらより。
黒を見ていた。
黒が。
籠を置く。
「ぶるるるっ」
蛇尾が。
すぐ。
にょろ。
黒へ伸びる。
「お兄ちゃーん。遅ーい」
リーゼが。
小声で。
「元気そうだな」
ティセラが答える。
「健康状態は良好です」
獅子頭が言う。
「何よ。妊娠したくらいで見物?」
麗華が。
少し慌てる。
「申し訳ございません。最近お姿を見ないので、体調を崩されたのかと」
獅子頭。
少し。
表情が柔らかくなる。
「ならいいけど」
山羊頭が笑う。
「最近さー、ちょっと動くと疲れるんだよね」
竜頭。
「黒が全部持ってきてくれるから動く必要もない」
蛇尾。
「お兄ちゃん優しいのー」
黒。
「ぶひひーん」
リーゼが黒を見る。
「完全に世話を焼いている……」
アデラが笑う。
「いい雄じゃねえか」
黒は。
何となく。
胸を張った。
◇
問題は。
食事だった。
黒が運んできた籠。
肉。
果物。
野菜。
羽毛ガチョウの可食部。
バロメッツの肉。
魚。
さらに。
麦飯まで。
リーゼが籠を見る。
「食い過ぎでは?」
獅子頭が即座に言う。
「二人分だから!」
山羊頭。
「いや、何人分か分かんないけどね」
リーゼの顔が止まる。
「……何人分?」
ティセラが答える。
「胎児数も現時点では断定できません」
リーゼ。
教授。
見る。
「一頭とは限らない?」
「限りません」
リーゼが。
ゆっくり。
空を見る。
「そうか……」
スージーが笑う。
「現実逃避しないの」
レティは。
キマイラを見る。
「何か必要な物があれば、拙者も運ぶでござる」
山羊頭。
「ほんと? じゃあ果物!」
獅子頭。
「肉!」
竜頭。
「黒」
リーゼが即座に言う。
「それは食べ物ではない!」
竜頭が。
ものすごく。
嫌そうな顔をした。
「誰が食べ物って言ったのよ」
「貴様の言い方が悪い!」
蛇尾が。
くすくす。
「お兄ちゃんは、ここにいるだけでいいのー」
黒。
「ぶるるるっ」
アデラが小声で言った。
「俺、なんか居ちゃいけない話聞いてる気がする」
麗華も。
「わたくしもですわ」
◇
帰り道。
レティが。
まだ考えていた。
「しかし、本当に何が生まれるのでござろう」
アデラも。
「気になるな」
麗華。
「生まれるまでは分からない?」
ティセラ。
「現在は、そうですね」
リーゼが。
警告する。
「教授」
「はい」
「無理に調べるなよ」
「しません」
「絶対だぞ」
「母体と胎児の安全を優先します」
リーゼが。
少し安心した。
「それならいい」
スージーが。
猫耳を揺らす。
「大尉、なんだかんだ心配なのね」
「当然だ!」
リーゼは。
後ろを振り返る。
木々の向こう。
巨大な寝床。
黒。
キマイラ。
今は。
見えない。
「共同体の一員だからな」
スージーが。
少し笑った。
その時。
遠くから。
キマイラの声。
竜頭。
「黒ー! もっとこっち来てー!」
獅子頭。
「ちょっと! 押すな!」
山羊頭。
「腹つぶれるって!」
蛇尾。
「お兄ちゃーん!」
黒。
「ぶひひひーん!」
リーゼは。
前へ向き直った。
「……元気ならいい」
アデラが。
笑いながら言う。
「ほんとにな」
そして。
館へ戻ると。
ルヴァナが。
何でもない顔で聞いた。
「どうだった?」
リーゼが答える。
「元気だった」
「でしょ?」
「それより貴様」
「何?」
「いつから知っていた」
ルヴァナは。
少し考えた。
「結構前?」
リーゼの眉が。
ぴくっ。
「何故、小官に言わなかった!」
「知ってると思ってた!」
「またそれかああああっ!」
館に。
大尉の声が響いた。




