第百七十一話 飯は美味いし、家事もしてくれる
朝。
レティは、ゆっくり目を開けた。
見慣れない天井。
高い。
少しだけ考えて。
昨日のことを思い出す。
転送罠。
谷底。
巨大な館。
異世界から来たらしい人々。
冒険者ギルドもレベルも通じない者たち。
そして。
自分と同じ日にやってきた。
アデラ。
麗華。
「……夢ではなかったでござるな」
小さく呟く。
隣を見る。
麗華はまだ寝ていた。
布団へ綺麗に収まっている。
昨夜は。
寝台ではなく床へ布団を敷くというだけで、三人とも妙に落ち着かなかった。
それでも。
麗華はよく眠っている。
もう一方を見る。
「……いない」
アデラの布団は空だった。
既に起きて、どこかへ行ったらしい。
レティも身体を起こす。
パジャマにもまだ慣れない。
だが。
着心地は悪くなかった。
布団を出る。
昨晩教わった通り。
履物を使う場所と。
使わない場所を確認しながら。
部屋を出た。
廊下を歩く。
館は朝から静かだった。
昨日は。
人が多い。
情報が多い。
何より。
世界の違いが多すぎた。
落ち着いて館を見る余裕などなかった。
朝の館は。
広い。
やはり何もかも大きい。
扉も。
柱も。
廊下も。
聖者の身体に合わせて作られていると聞いた。
しかし。
人間が使う場所は、きちんと調整されている。
不便というほどではない。
そんなことを考えていると。
「おはようございます」
声をかけられた。
振り返る。
シズクだった。
「おはようでござる」
シズクは既に普段着だった。
昨日と変わらない。
落ち着いた様子。
手には洗濯物を入れる籠を持っている。
「よく眠れましたか?」
「うむ。思ったよりは」
「よかったです」
「床で眠るというのは、最初は落ち着かなかったでござるが」
シズクが少し笑う。
「皆さん、最初はそう言います」
その時。
ぐう。
音がした。
レティが止まった。
シズクも止まった。
レティは自分の腹を見る。
「…………」
シズクが微笑んだ。
「お腹、空きました?」
レティは少し恥ずかしそうに咳払いした。
「まあ」
もう一度。
ぐう。
「……空いたでござる」
「でしたら、少し早めに軽く食べますか?」
レティが顔を上げる。
「よいのでござるか?」
「もちろんです」
「皆が揃ってからでは?」
「朝は起きる時間が少しずつ違いますから」
シズクは普通に答えた。
「先に軽く食べても大丈夫ですよ」
レティは少し驚いた。
「そういうものなのでござるか」
「はい」
「では……お願いするでござる」
「分かりました」
シズクはそのまま歩き出した。
レティもついていく。
途中。
シズクが思い出したように振り返った。
「そうだ」
「何でござる?」
「昨日の服と下着、全部出しておいてくださいね」
レティが瞬きをした。
「全部?」
「はい」
「洗うのでござるか?」
「洗います」
「拙者の分も?」
「もちろんです」
レティが少し戸惑う。
「自分でやるでござる」
シズクが首を傾げた。
「大丈夫ですよ」
「いや。しかし」
「洗濯はいつもまとめてしますから」
「しかし、拙者のものまで」
「三人分増えるくらいなら、そんなに変わりません」
レティは少し黙った。
昨日。
初めて会った時から。
シズクはずっとこうだった。
警戒していた自分に近づき。
敵意はないと伝え。
何も分からないこちらへ、一つずつ説明してくれた。
部屋を用意した。
布団の使い方を教えた。
パジャマまで用意した。
今朝は。
洗濯までしてくれるという。
「シズク殿は」
「はい?」
「この館の使用人なのでござるか?」
シズクが少し笑った。
「違いますよ」
「では、女中?」
「それも違います」
「メイド?」
「違います」
レティは困った。
「では何故、そこまで家事を?」
シズクは少し考えた。
「私が一番やっていますね」
「やはり仕事なのでは?」
「いえ」
シズクは首を横に振った。
「皆、それぞれ得意なことや、やることがありますから」
レティは昨日聞いた者たちを思い出す。
リーゼ。
スージー。
ティセラ。
クロエ。
アスラ。
ネイラ。
ルヴァナ。
エヴァ。
聖者。
それぞれ。
妙なほど専門が違う。
シズクは続けた。
「私は料理や洗濯、掃除ができますから」
「それで?」
「やっています」
「……それだけ?」
「それだけです」
レティは少し考えた。
自分の世界なら。
それだけの仕事を一人が毎日していれば。
立派に仕事として扱われる。
大きな家なら。
人を雇う。
それを。
この少女は。
当たり前のようにやっている。
しかも。
自分たち三人は昨日来たばかりだ。
「本当に親切でござるな」
シズクが少し不思議そうな顔をした。
「そうですか?」
「そうでござる」
「困っているなら、手伝うのは普通では?」
レティは少し笑った。
「リーゼ殿が聞けば喜びそうな言葉でござるな」
「普通、ですか?」
「うむ」
二人は食事用のバルコニーへ向かった。
まだ全員は集まっていない。
朝の風が通っている。
シズクが簡単な朝食を用意する。
昨夜ほど品数は多くない。
それでも。
温かい汁物。
焼いたもの。
穀物。
少しの果物。
レティは席につく。
一口。
食べる。
「…………」
シズクが見る。
「どうですか?」
レティはもう一口食べた。
「美味い」
「よかったです」
「いや」
レティは真顔になった。
「本当に美味いでござる」
昨晩も思った。
料理が美味い。
異常に。
自分の世界でも。
旅先で美味いものを食べたことはある。
祭り。
宿。
有名な食堂。
冒険者仲間と祝った夜。
だが。
ここでは。
これが普通らしい。
「これを毎朝?」
「だいたい」
「昼も?」
「はい」
「夜も?」
「はい」
レティは黙った。
昨日。
アデラが軍馬の話をしていた時。
リーゼが普通だ普通だと感動していた。
今なら。
少し分かる。
食事は美味い。
風呂もあるらしい。
洗濯までしてもらえる。
部屋もある。
危険な依頼もない。
モンスター退治もない。
少なくとも。
今のところ。
それだけなら。
かなり良い場所だった。
シズクが向かいに座る。
「昨晩は、本当によく眠れました?」
「うむ」
「三人も急に異邦人が来たので」
シズクは少し心配そうだった。
「緊張して眠れないのではと思っていました」
レティが首を振る。
「疲れていたのでござろう。すぐ眠れた」
「よかったです」
「麗華殿もまだ寝ていた」
「それなら安心ですね」
「アデラ殿はもういなかった」
「ああ」
シズクが頷く。
「先に起きていましたよ」
「どこへ?」
「露天風呂へ案内しました」
レティが止まった。
「朝から風呂?」
「はい」
「……贅沢でござるな」
「そうですか?」
「そうでござる」
レティはもう一口食べる。
やはり美味い。
少しずつ。
ここがどういう場所なのか。
分からなくなってきた。
シズクが言う。
「それにしても」
「何でござる?」
「昨日は皆、少し浮足立っていましたね」
「皆?」
「はい」
シズクは穏やかに笑った。
「久しぶりに谷底へ人が来ましたから」
レティは箸を止める。
「久しぶり?」
「はい」
「拙者たち三人が?」
「一度に三人というのも珍しいです」
「なるほど」
「おかげで」
シズクは少し嬉しそうだった。
「皆が楽しんでいる姿を、たくさん堪能できました」
レティが頷いた。
「なるほど」
一拍。
止まる。
「……堪能?」
「はい」
シズクは普通だった。
本当に。
普通の顔をしている。
「昨晩も、皆楽しそうでしたよ」
レティは昨日のリーゼを思い出す。
夜は。
目を閉じろ。
耳を塞げ。
鼻も塞げ。
廊下へ出るな。
音のする方へ行くな。
忍者には近づくな。
そして。
シズクの覗きを見つけるな。
レティはゆっくりシズクを見る。
「……シズク殿」
「はい?」
「昨晩」
「はい」
「覗いたのでござるか?」
シズクは少し考えた。
「はい」
あまりにも普通に答えた。
レティの箸が止まった。
「やはり」
「昨日は皆、いつもより賑やかでしたから」
「そうなのでござるか」
「はい」
シズクは少し満足そうに言った。
「メインディッシュはエヴァたちでしたね」
レティが完全に止まる。
「めいん……?」
「ああ」
シズクが言い直す。
「一番見応えがあったのは、エヴァと聖者です」
「…………」
「でも」
シズクは続ける。
「最後はリーゼとスージーで締めるのが、やはり良いですね」
レティは黙って聞く。
シズクは本当に。
食事の話をするように説明している。
「油物の後に」
一拍。
「さっぱりしたものを食べる感じで」
レティはしばらく黙った。
そして。
「なるほど」
シズクが頷く。
「分かっていただけました?」
「分かったでござる」
リーゼの言っていた意味が。
よく分かった。
シズク。
昨日から。
ずっと親切だった。
敵意など微塵もない。
家事もしてくれる。
飯も作ってくれる。
洗濯もしてくれる。
知らないことを聞けば丁寧に教える。
こちらの体調まで気遣う。
どう見ても。
善人である。
ただ。
夜の趣味だけが。
おかしい。
レティは汁物を飲んだ。
美味い。
非常に美味い。
シズクが尋ねる。
「おかわりします?」
「するでござる」
「はい」
シズクが立ち上がる。
レティはその背中を見る。
しばらく考える。
それから。
小さく頷いた。
飯は美味い。
見た目も普通。
普段は正常に家事をしてくれる人もいる。
親切。
善人。
それで。
十分ではないか。
夜に何をしているかなど。
知らなければいい。
いや。
知ってしまったが。
考えなければいい。
シズクが戻ってくる。
「どうぞ」
「かたじけない」
また食べる。
美味い。
レティは決めた。
「うむ」
「どうしました?」
「この谷底では」
レティは真面目に言った。
「飯が美味ければ、だいたいのことは気にしないことにするでござる」
シズクは少し考えた。
そして。
にこりと笑った。
「それがいいと思います」
その笑顔も。
とても普通だった。
だから。
レティは。
昨晩リーゼがあれほど必死だった理由について。
これ以上。
深く考えないことにした。




