第十六話 世界壁の底で、命を繋ぐ
館へ着くと、ノアは女を大広間の長椅子へ寝かせた。
普段なら、必要がなくなればすぐ外へ出る。だが今日は違う。命がかかっている。
エヴァが厚い飛行服を必要な範囲だけ切り開いた。
シズクは息を呑む。
打撲。裂傷。折れているらしい腕。胸も腹もひどい。こんな状態でまだ息をしていること自体がおかしかった。
「これで……生きているのですか」
女の胸は、かすかに上下している。
ノアが首筋へ指を当てた。
「脈はある。でもかなり弱い」
エヴァは濡れた衣服を見て、眉を寄せた。
「やっぱり俺と同じか」
「同じ?」
「俺もここへ落ちた時は、ほとんど死にかけてた」
シズクはエヴァを見る。
国を失い、捕らえられ、身体を壊され、最後には谷へ捨てられた。
それなのに。
「でも、エヴァは目を覚まして、すぐ聖者を殴ったのでしょう?」
「ああ」
「そんな身体で?」
「だから、後から考えればそこがおかしいんだ」
エヴァは女の濡れた髪を払った。
「俺も落ちた後、どこかの水に入った。池か川かも知らん。そのまま流されて、滝壺まで来たらしい」
シズクが女を見る。
「この方も川へ落ちた」
「ああ」
ノアが困った顔をした。
「多分、僕のせいだと思う」
「聖者の?」
「この辺りの水や土には、僕の身体から出たものがかなり混ざってる」
シズクは黙った。意味を考える。十二日間、この谷底について色々聞いた。
そして。
嫌な方向に理解が進んだ。
「……どのくらい、混ざっているのですか」
ノアが目を逸らした。
エヴァは平然と答える。
「聖者、一人だった頃はかなり好き勝手に暮らしてたからな」
「好き勝手?」
「小便する場所も決めてなかった。大便も、その辺で済ませることがあったらしい」
「聖者!」
「最初は僕しかいなかったから……」
「だからといって!」
「あと自慰も、そこら中でしてた」
「エヴァ!」
シズクが頭を抱える。
ノアはますます居心地悪そうにした。
「誰かが来るなんて思ってなかったんだよ」
「思っていなくても、もう少し節度というものが!」
「だから今は便所を作ったんだって」
「そういう問題ではありません!」
エヴァは笑った。
「まあ、そのおかげで助かってる奴がいる」
シズクの声が止まる。
エヴァが女を指した。
「聖者の身体から出たものは、水や土に染み込んでる。それに妙な力がある」
ノアが続ける。
「傷を治す力だと思う。全部が同じ強さじゃないけど、水に混ざったものでも多少は効く」
「回復する?」
「うん」
「だから、この方はまだ生きている?」
「多分」
エヴァが頷く。
「俺もそうだ。落ちて、水に浸かった。だから本来なら動けない身体で目を覚まして、聖者を殴れた」
「やはり殴ったことは反省していないのですね」
「目を開けたら角の生えた巨体が覗き込んでたんだぞ。殴るだろ」
「殴りません」
「俺は殴った」
ノアが女の脈を取り直した。その表情が険しくなる。
「……下がってる」
エヴァの顔から笑みが消えた。
「薄い水だけじゃ足りなかったか」
「このままだと危ない」
「なら濃いのを使う」
シズクが二人を見る。
「濃いもの?」
エヴァが答えた。
「聖者の体液を、そのまま使う」
シズクは固まった。
「……まさか」
「そのまさかだ、精液だ」
「そんなものが治療になるのですか?」
「俺で確認した」
エヴァは自分の腹へ手を当てた。
「ここへ来てから一度、魔物に腹をやられた。血が止まらなくてな。俺も聖者も、朝までは無理だと思った」
ノアは何も言わない。
「だから、死ぬなら最後くらい自分の好きなことをしようと思った」
シズクには、その先を聞かなくてもだいたい分かった。
「その時、聖者の精液が傷へ触れた」
エヴァは腹を軽く叩いた。
「塞がった」
「……本当に?」
「ああ。そこから確かめた。薄まったものでも効く。濃ければもっと効く」
ノアが補足する。
「僕自身にも、どうしてなのかは分からない。でも傷だけじゃない。古い損傷にも少しずつ作用するみたいなんだ」
シズクはエヴァを見る。
「昔の傷も?」
「ああ」
エヴァは少しだけ表情を変えた。
「かなり戻った。全部かどうかは知らんがな」
そして口元を歪める。
「壊された場所を全部数えるなら、帳簿が一冊いるけどな」
「エヴァ……」
「冗談だ」
少し間を置く。
「半分くらいは」
「どちらなのですか」
エヴァが笑った。
「捕虜だった頃は、身体の中が壊れようが誰も気にしなかった。使えれば使う。使えなくなれば別の使い方を考える。聖者の言う『人権』ってのがあったとしても、俺には配給されなかったらしい」
「笑って言うことではありません」
「泣いて言えば満足か?」
シズクは黙る。
エヴァは肩をすくめた。
「昔、俺の身体を誰がどうしたかは変えられん。でも今どう使うかは俺が決める。昔は選べなかった。今は選べる」
そこで、いつもの笑みに戻った。
「おかげで今は走れる。戦える。食える。寝られる。聖者の相手も毎晩できる」
「最後はいりません!」
「回復した証拠だろ」
「もっと他にあります!」
「俺には大事だ」
ノアが額を押さえる。
「エヴァ、病人の横だからね」
「聞こえてない」
「そういう問題じゃないよ」
シズクは呆れながらも、エヴァの言いたいことは分かった。壊された身体も。治っていく身体も。今はエヴァ自身のものなのだ。
ノアが女を見る。
「それより、彼女を助けよう」
「ああ」
エヴァが答え、それからシズクを見る。
「あと、お前も同じ治療を受けてるぞ」
「……私?」
「落ちてきた時」
シズクが固まる。
「聞いていません」
「今言った」
「そういう意味ではありません!」
「お前も危なかった。息はしてたが、心臓が止まりかけてた」
シズクは自分の胸へ手を当てる。
とくん。
とくん。
今は何事もなかったように動いている。
シズクはノアを見る。
「聖者」
「うん」
「本当ですか」
「……本当」
「なぜ教えてくださらなかったのです!」
「目を覚ましたばかりのシズクに、いきなり説明するのは難しいと思って」
「今でも十分難しいです!」
エヴァが肩を叩く。
「いいじゃないか。助かったんだから」
「それは感謝しています!」
「俺なんか、この治療法を知った時は得したと思ったぞ」
「なぜですか」
「治療と夜の楽しみが一緒に済む」
「一緒にしないでください!」
「効率がいい」
「人命救助を効率で語らないでください!」
「僕も、それは分けて考えてほしいかな……」
ノアが小さく言った。
エヴァは笑ったが、すぐに女へ視線を戻した。
「後で好きなだけ混乱しろ。今はこいつだ」
女の胸の動きが、さらに小さくなっていた。
シズクの表情が変わる。
「……助けましょう」
「ああ」
ノアも頷いた。
「できることは全部やる」
シズクは袖を捲った。
「私は何をすれば?」
「湯」
エヴァが即答する。
「布を煮ろ。手も洗え。傷の泥を落とす」
「はい!」
シズクは走った。
湯を沸かす。布を煮る。手を洗う。必要なものを運ぶ。
十二日前。自分もこうして助けられた。何も知らないまま。死にかけて。
今度は自分が動く側だった。泥を拭う。血を拭う。傷を洗う。エヴァが止血する。ノアが呼吸と脈を確認する。
それでも。女の鼓動は弱くなっていく。
ノアとエヴァが目を合わせた。
エヴァが一度だけ頷いた。




