第十五話 世界壁の底で、翼の主を拾う
ノアが叫んだ。
「落ちてる!」
飛行機と呼ばれたものは、まともに空を進んでいなかった。片側へ傾いている。後ろに黒いものを引いている。上下へ揺れながら、こちらへ近づいてくる。
ノアはすぐ走り出した。
「北の川へ落ちる!」
エヴァも動く。
「シズク!」
「行きます!」
館の裏から畑を抜け、木々の間へ入る。
ノアは速い。
あっという間に先へ行く。
エヴァも速い。
十二日間、毎日歩いた。畑仕事もした。最初より体力はついた。それでも、戦場を駆けていたエヴァについていけるはずがない。
距離が開く。
「ま、待ってください!」
エヴァが振り返る。
「もっと走れ!」
「走っています!」
「遅い!」
「無茶です!」
上空の音が大きくなる。
近い。
エヴァが舌打ちし、突然戻ってきた。
「え?」
「失礼するぞ」
「何を――」
身体が浮いた。
「ひゃっ!」
エヴァがシズクの胴へ腕を回し、そのまま小脇へ抱えた。本当に荷物のように。
「エ、エヴァ!」
「口閉じろ! 舌噛むぞ!」
「待っ――」
走り出した。
「――てええええっ!」
景色が流れた。
木。草。岩。
全部が恐ろしい勢いで後ろへ消えていく。
「速いです!」
「喋るなって言っただろ!」
「こんな運び方するとは聞いていません!」
「これが一番速い!」
「せめて背負うとか!」
「腕が使えなくなる!」
「私は荷物ではありません!」
「今は荷物だ!」
前方でノアが結界の境界を越える。エヴァも続く。
結界の外。
シズクが一人なら絶対に入らない場所。その時、上空の唸りが一気に大きくなった。
ノアが振り返る。
「伏せて!」
エヴァも空を見る。
あの羽ばたかないものが、もう森のすぐ上まで落ちてきていた。
「シズク!」
「はい!」
「目閉じて、耳塞いで、口開けろ!」
「え?」
「いいからやれ! 聖者が、近くで何か爆ぜる時はそうしろって言ってた!」
「なぜですか!」
「俺も詳しくは知らん!」
エヴァがシズクを抱えたまま姿勢を低くする。シズクは訳も分からないまま、言う事をきいた。
次の瞬間。頭上を巨大な影が通った。
ばきばきばきばきっ!
木々が折れる。枝が飛ぶ。その間に、聞いたことのない甲高い音、低く軋む音、何かが裂ける音が混ざった。
何が何に当たったのか。何が壊れたのか。
シズクには分からない。ただ、空を飛んでいた異様なものが森を壊しながら突き抜けていく。
エヴァがシズクの頭を胸元へ押し込んだ。
どおおおおおんっ!
腹の底まで衝撃が響く。大地が揺れた。次に、凄まじい水音。
やがて静かになった。
エヴァが顔を上げる。
北の川。
あの異様なものは川岸を削り、半分ほど水へ沈んでいた。翼のような部分が千切れ、胴は斜めに傾いている。
薄い煙。白い湯気のようなもの。そして鼻につく奇妙な臭い。
シズクは顔をしかめた。
「何の臭いですか?」
ノアはすぐには近づかなかった。少し離れた岸から壊れた飛行機を見ている。
「燃料かもしれない」
「ねんりょう?」
「飛行機を動かすための、燃えやすい液体」
エヴァの顔が変わる。
「漏れてるのか?」
「可能性が高い」
「火がついたら?」
「危ない」
「爆ぜる?」
「その可能性もある」
エヴァは即座にシズクをさらに後ろへ下がらせた。
「ここにいろ」
「人が乗っているのでしょう?」
「ああ」
「助けなくていいのですか!」
「助ける」
エヴァの返事は早かった。
「だが三人まとめて燃えたら馬鹿だろ」
ノアも周囲を見る。火は見えない。煙も、少なくとも急に増えてはいない。川面には薄く光る何かが流れている。
シズクにはそれが何なのか分からない。ただ、ノアとエヴァが警戒している。なら危ないのだ。
ノアが目を凝らした。
「人がいる」
「生きてるか?」
「分からない」
短い沈黙。
「僕が行く」
「ああ。俺も行く」
「シズクは岸から動かないで」
「でも」
「燃料が漏れてるかもしれない」
ノアの声がいつもより強かった。
「絶対に近づかないで」
シズクは頷いた。
「……分かりました」
ノアとエヴァだけが水へ入る。壊れた飛行機へ近づく。
シズクは岸から見た。近くで見ても、理解できない。
一つのものの中に、見覚えのあるようなもの、ないもの、硬そうなところ、布のようなところ、様々なものが組み合わさっている。
エヴァは聖者から聞いていた通り、「金属の塊」と呼ぶ。だがシズクには、どこが金属なのかすら判断できない。こんなものが本当に空を飛んでいた。その事実だけが、どうしても理解できなかった。
「いた!」
エヴァの声。
透明な板の割れた狭い囲い。その中に一人、人がいた。何本もの帯で椅子のようなものへ固定されている。
ノアが枠へ手を掛ける。
動かない。
「エヴァ」
「ああ」
二人で力を入れる。
ぎぎぎぎっ。
シズクが聞いたことのない嫌な音。何が軋んでいるのか。何を曲げているのか。何を引き剥がしているのか。
岸から見ているシズクには分からない。ただ、しばらくして人が通れるだけの隙間ができた。
エヴァが帯を短刀で切る。
ノアが中の人間を抱き上げた。
「女だ!」
「岸へ!」
二人が戻ってくる。
ノアは飛行機のすぐそばでは止まらない。
かなり離れた岸まで女を運び、十分な距離を取ってからようやく地面へ寝かせた。
シズクも近づく。
女だった。若い。二十代半ばほどに見える。
ただし、服装はシズクが今まで見たことのないものだった。
頭には耳まで包むような革の覆い。
その上から、目の前だけを透明な板で塞ぐような奇妙な道具をつけている。何のためのものなのか、シズクには分からない。
首元には厚い布。
手にも革の覆い。
身体には、風を通さないためなのか、厚く動きにくそうな衣。
足には、見慣れた履き物より遥かに長く、足首を越えて脛の途中まで覆う筒のような革の履き物。
ニーソックスなら知っている。脚へ布を履くという奇妙な風習も、今では知っている。
だがこれは布ではない。硬そうだ。それ以上は分からない。
「変わった格好ですね」
「空を飛ぶなら寒いんじゃないか?」
エヴァが言う。
「風も強いだろうしな」
「では、空を飛ぶための服?」
「多分な」
シズクは女を見る。
この格好から何者なのかを判断することはできなかった。武人のような鎧でもない。弓も刀も槍も見当たらない。
エヴァが頭の覆いを慎重に外し、透明な道具も取り外した。
淡い金髪。短く切っている。額から血。顔にも傷。片腕はあり得ない向きへ曲がっている。服の下にも血。胸の動きは弱い。
ノアが首筋へ指を当てる。
「脈はある」
「息は?」
「ある。でも弱い」
エヴァが女の身体を確認した。
「腕。肋骨。腹もひどいな」
「すぐ運ぼう」
ノアが女を抱き上げる。エヴァは墜落した飛行機を一度振り返った。
「荷物は?」
「後」
ノアが即答した。
「燃料が漏れてるかもしれない。今は人が先」
「ああ。人間が先だ」
エヴァも迷わなかった。
「だが、あの金属の山は後で絶対回収するぞ」
「エヴァ」
「燃えないと分かってからだ。分かってる」
シズクが女を見る。服は濡れている。川へ落ちたから当然だ。だがエヴァは、その濡れた衣服を見て少しだけ目を細めた。
「……聖者」
「何?」
「こいつ、この川に浸かってたんだよな」
「そうだけど」
「だからまだ生きてるのか」
シズクには意味が分からない。
「川に落ちると助かるのですか?」
「後で説明する」
エヴァが答えた。
「まず館だ」
「私も走ります」
「駄目だ」
「まだ何も――」
「遅い」
「さっきより頑張ります!」
「死にかけた奴がいる。一刻でも早く戻る」
シズクは後ずさった。
「まさか」
「諦めろ」
「自分で――」
身体が浮く。
「またですか!」
「口閉じろ!」
「私は荷物ではありません!」
「今は荷物だ!」
ノアが女を抱いて先へ走る。
エヴァはシズクを小脇へ抱えたまま、その後を追った。
シズクは凄まじく揺られながら思った。
谷底へ落ちて十二日。
色々なものに慣れた。
だが、空から理解できないものに乗った女が落ちてくる暮らしにまで慣れる日は、来てほしくなかった。




