第十四話 世界壁から落ちてきた翼
「バルトリがなかったら、私はこの館を出ていたかもしれません」
朝食の時、シズクはエヴァに言った。
館内の卓についているのは、シズクとエヴァだけだった。大きな戸は開け放してある。
そのずっと向こう、館から離れた場所にノア用の巨大な机が置かれている。ノアはそこで一人、朝食を食べていた。
声を張れば会話はできる。だが、近くはない。それがこの家では当たり前だった。
「その程度でか?」
エヴァがパンを噛みながら言う。
「その程度?」
「洗濯は水がしてくれるだろ」
「誰が洗濯場まで運ぶと思っているのですか」
「シズク」
「分かっているではありませんか!」
遠くからノアが言う。
「僕も運ぶよ」
「聖者は一度に持てる量が違いすぎます」
「それは……そうだね」
「あと、聖者」
「何?」
「昨夜も洗濯物を増やしましたね」
沈黙。
エヴァが笑う。
「増やしたな」
「エヴァは黙っていてください」
「俺も増やしたぞ」
「だからです!」
遠くのノアが困ったように言う。
「少し控えようか」
エヴァが即座に振り返る。
「何を?」
「エヴァ」
「俺と聖者が仲良くすることか?」
「言い方だけ綺麗にしないでください!」
ノアの笑い声が遠くから聞こえた。シズクは二人を睨んだ。エヴァは平然とパンをちぎる。
「でもな。洗えば綺麗になるだけ、ここは随分ましだぞ」
シズクは嫌な予感を覚えた。
「……何と比べているのですか」
「捕虜だった頃」
やはり。
「汚れた寝床を、替えてくれる奴なんぞいなかったからな。今は自分で好きにして、自分で汚して、自分で洗える。大した出世だ」
「それを出世と呼ぶのですか」
「呼ぶ」
エヴァは笑った。
「昔は嫌でも汚された。今は好きで汚してる。この差はでかいぞ」
シズクは返事に詰まった。エヴァはそんな顔を見ると、さらに続ける。
「それに捕虜生活のおかげで、寝具が多少ひどいことになったくらいじゃ動じなくなった」
「それを長所として数えないでください」
「使える経験は全部使うんだよ」
「エヴァは本当に何でもそうしますね」
「ああ。人生、元を取らんとな」
遠くからノアが言った。
「エヴァ、それは元を取るって言わないと思う」
「細かいこと言うな、聖者」
「かなり大事なところだと思うけど」
シズクは頭を抱えた。けれど、もう本気で困っているわけではない。この二人はこういう二人なのだ。
エヴァが嫌なら止まる。ノアも止まる。二人ともが望んでいるなら、シズクが口を挟むことではない。
問題は洗濯物である。たぶん。
朝食を終える頃、エヴァが川の方を見た。
「今日は漂着物を見に行くぞ」
「昨日も見ませんでしたか」
「水が増えてる」
シズクも川を見る。確かに、いつもより少しだけ流れが強い。
「雨ですか?」
「多分な」
「昨日は降っていませんでした」
「ここじゃなくて上だ」
エヴァが指を上へ向ける。もちろん、見上げても地上など見えない。
巨大な壁。
大瀑布。
遥か上は水煙と霞の向こうだ。
「しばらく前に、上のどこかで雨が降ったんだろ。それがようやくここまで回ってきた」
「しばらく前?」
「ああ」
「雨が降ってから、ここへ届くまでそんなにかかるのですか」
「どれだけ上にあると思ってる」
シズクは大瀑布を見上げた。
上。
自分が落とされた場所。
今は見えないどころか、雨水ですら流れてくるまで長い時間がかかる場所にある。
「では、今この瞬間に地上で雨が降っていても」
「俺たちには分からん」
「何日かして?」
「水が増えて、初めて気づくこともある」
エヴァが川を顎で示した。
「水が増えた後は、流れてくる物も増える。だから見に行く」
シズクは立ち上がった。
「では棒を持ってきます」
「覚えたな」
「十二日も毎日言われれば覚えます」
「じゃあ今日は俺が言う前に、拾う物の裏まで見るんだぞ」
「黒い虫がびっしりついているものはエヴァがお願いします」
「なんでだ」
「嫌だからです」
そんな話をしていた時だった。
低い音がした。遠い。それなのに、急速に近づいてくる。
ぶうううううううう――。
シズクが足を止めた。
「何ですか?」
鳥ではない。獣でもない。雷でもない。巨大な虫が、どこか遠い空で唸っているような音。
エヴァも顔を上げる。
少し離れたところで食器を片づけていたノアも、同時に空を見ていた。
大瀑布。水煙。その遥か上。
黒い点。
「鳥?」
シズクが目を細める。点は少しずつ大きくなる。
翼のようなものがある。だが羽ばたかない。鳥の羽毛のようなものも見えない。細長いものの左右へ、真っ直ぐな翼が伸びている。生き物には見えない。なのに、空を飛んでいる。
「……何ですか、あれ」
ノアの顔色が変わった。
「飛行機だ」
「ひこうき?」
初めて聞く言葉だった。
エヴァが目を細める。
「あれか」
「知っているのですか?」
「見たことはない」
エヴァは空を指す。
「聖者が前に話してた。人間が作る、空を飛ぶ金属の塊」
「金属の?」
シズクはもう一度見る。
「……あれが?」
自分には材質など全く分からない。ただ、奇妙な形のものが空を飛んでいる。それだけだ。
「中に人が乗ってる」
エヴァが言った。
シズクは振り返る。
「人が?」
「ああ」
「空に?」
「そういう乗り物らしい」
「乗り物……」
人が乗る。空を飛ぶ。金属の塊。
言葉を一つずつ理解しても、全部をつなげると理解できない。そんなものを人間が作る。そんなものに人間が乗る。
シズクの国には、考え方そのものが存在しなかった。




