第十三話 慣れとは恐ろしいものです【一般公開版】
シズクが谷底へ落ちてから、十二日が経った。
十二日もあれば、人間はかなりのことに慣れるらしい。
朝になれば、大瀑布の轟音で目を覚ます。顔を洗い、水場へ行く。飲み水の槽を確認し、台所へ野菜を運ぶ。生け簀の魚を見る。畑を一周して、昨日までなかった芽を見つけたら、それが知っているものかどうかを確かめる。
知らないものには触らない。
漂着物を拾いに行くなら棒を持つ。
分からないものは、まず突く。
結界の外で妙なものを見つけたら、近寄って勇敢さを証明しようなどとは考えない。
走る。鐘を鳴らす。生き残る。
エヴァから何度も言われたことだった。二週間にも満たない。それでもシズクは、もう水場の順番を間違えなかった。
台所には、ノアが作ったシズク専用の踏み台もある。最初に使っていた木箱とは違い、幅が広く、四本の脚がつき、足を載せるところには滑りにくいよう細かな溝まで彫られていた。
その横には、漂着物から拾った針と、ノアが木を削って作ってくれた糸巻きを入れる小箱がある。
エヴァの破れた上衣を繕った。
ノアの作業着も直した。もっとも、ノアの服はとにかく大きい。
「……一着で、私の小袖が三着は作れそうです」
そう文句を言いながら巨大な袖口を縫っている自分に気づき、シズクは少し笑った。十二日前、谷底へ落ちてきたばかりの自分なら、こんな暮らしは想像もしなかった。
ここがどこかも分からなかった。
明日まで生きているかも分からなかった。
今では、明日は何を繕うか、どの畑を見るか、どの布を洗うかまで考えている。生活には慣れた。
問題があるとすれば。
「……またですか」
朝の洗濯場。シズクの前には、布の山があった。昨日、洗った。確かに洗った。干した。取り込んだ。
それなのに朝になれば、また新しい山ができている。
毛布。大判の布。エヴァの衣服。ノアの衣服。そして、十二日前のシズクなら名前すら知らなかった下着類。
黒。赤。白。紫。
覚えたくもなかった名前まで、今ではかなり覚えてしまった。
「エヴァ!」
返事がない。
「エヴァ!」
館へ戻る。
台所にはいない。薪置き場にもいない。畑にもいない。
ノアについては、最初から館の中を探す必要がなかった。聖者は普段、必要最低限しかシズクやエヴァの近くにいない。
オーガの身体から自然に出る、匂いとも魔力ともつかないもの。ノアは前の世界の言葉で「フェロモンに近いのかもしれない」と言っていた。
シズクには、その言葉そのものは今でもよく分からない。ただ、長く近くにいると身体が妙に熱くなる。落ち着かない。理由もなく聖者を意識してしまう。
館のような閉じた場所では、その作用が籠もるらしく、さらに強くなる。だからノアは自分から距離を取っていた。食事も別。長い雑談もしない。日中の作業も、基本的には別々。
何かを作る。狩りに出る。結界を見回る。館を補修する。必要な時だけ戻ってくる。
エヴァと親しい間柄だというのに、二人が一日中一緒にいることはない。シズクが来てからは、なおさらだった。それなのに今日は、エヴァまで見当たらない。
シズクは嫌な予感を覚えた。
この十二日で、その嫌な予感だけは妙によく当たるようになっていた。果樹園の方から声が聞こえた。
エヴァ。そして、少し離れたところからノアの声。
シズクは立ち止まった。
「……またですか」
木々の方を見る。確認する必要はなかった。
シズクは小さくため息をつき、それから果樹園へ向かって声を張った。
「朝ですよ!」
エヴァの返事が飛んでくる。
「知ってる!」
「畑を見る時間ではありませんか!」
「もう見た!」
「では、洗濯物を見てください!」
少し間があった。
「増えてるか?」
「増えています!」
「じゃあバルトリに入れとけ!」
「誰のせいだと思っているのですか!」
エヴァが笑っている。
少し遠くからノアの声も聞こえた。
「ごめん、シズク!」
「聖者は謝るくらいなら増やさないでください!」
シズクが空を仰いでいると、服を整え終えたエヴァが林から出てきた。まだ肌が上気し、額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「なあシズク、聞いてくれ」
「聞きません」
「まだ何も言ってないだろ」
「どうせろくなことではありません」
エヴァは構わず続けた。
「今朝な、聖者を見かけたら急に思いついたんだ。父親と娘の設定だ」
「……設定」
「そうだ。俺が嫌がる娘で、聖者が無理矢理犯す父親。それがよかったんだ。背徳感がすごくてな」
「まだ何も聞いていません」
「しかもだ、俺の設定では、シズクは俺が父親に孕まされて産んだ子供で、妹として育てていることになってるんだ」
「……は?」
シズクの動きが止まった。
「つまりな、俺は父親に孕まされて、お前を産んだ娘であり、お前の姉であり、母親でもある設定なんだ。そこに実の娘の妹を守りたい気持ちと、父親を独占したい気持ちが入り混じってな、もう滾るのなんのって」
「なんですか、その面倒くさい設定は」
「面倒くさくていいんだ。面倒くさいから滾るんだ」
「知りません」
エヴァはまったく悪びれずに笑っている。
「お前は俺の娘で妹なんだぞ」
「やめてください」
シズクは耳を塞いだ。
「なんで毎回毎回、誰も聞いていないのに説明するのですか」
「滾ったからだ」
「理由になっていません」
「滾ったことを誰かに伝えたくなるんだ。聞いてくれ」
「嫌です」
シズクは果樹園の方へ歩き出した。エヴァがその後ろを追いかける。
「聞こえません」
最初の数日は、二人がそういうことをしていると分かるだけで顔が熱くなった。
今はもう、呆れしか出てこない自分に、シズクは少しだけ驚いていた。
七日ほど経つと、
――また始まった。
と思うようになった。
十日を過ぎる頃には、
――また洗濯物が増える。
が真っ先に頭へ浮かぶようになった。
人間の順応というものは恐ろしい。館でも、川辺でも、畑の向こうでも、果樹園でも。二人は互いに望めば、どこかへ姿を消す。
そして戻ってくる。
大抵、何かしら洗うものを増やして。




