第十二話 明日も、この谷底で
館へ戻った時には、陽が傾き始めていた。
結界の内側へ戻った。
そう思っただけで、シズクはほっとした。昨日まで、この谷底のすべてが知らない場所だった。それが今日一日で。
水場。台所。生け簀。洗濯場。便所。畑。結界。滝壺。
少しずつ名前のある場所へ変わった。
夕食前、洗濯場へ戻る。
朝からバルトリへ入れてあった毛布を取り出す。
「重い……」
「水を吸ってるからな」
エヴァと二人で物干しへ掛ける。
「これを全部手で洗うのは大変ですね」
「だから聖者がバルトリを作った」
「聖者の知識は、本当に生活を便利にするのですね」
「ああ」
エヴァは頷いた。
「エロにも使われるがな」
「なぜ必ずそこへ戻るのですか!」
「事実だからだ」
夕方。
ノアが戻ってきた。大きな獣の肉を肩へ担いでいる。
「ただいま」
「おかえり、聖者」
「おかえりなさい、聖者」
ノアはシズクを見る。
「ただいま、シズク。今日はかなり歩いた?」
「はい。エヴァから色々教わりました」
「無理してない?」
「大丈夫です」
「ならよかった」
「バルトリも見ました」
「あれ、ちゃんと回ってた?」
「はい。とても便利です」
「毛布を手で洗うの、大変だったからね」
横からエヴァが口を挟む。
「今晩はまた洗濯物増やすけどな」
ノアが止まった。
「エヴァ」
「巫女服を着るんだろ?」
「シズクの前で言わなくていいよ」
「もう全部教えた」
ノアがシズクを見る。シズクは視線を逸らした。
「全部って……」
「パンツ、ブラジャー、Tバック、Oバック、ガーターベルト、ニーソックス」
エヴァは指を折る。
「あと、お前が黒、紫、赤、白を好きなこと」
ノアが額へ手を当てた。
「エヴァ……」
「胸の先が隠れないブラジャーも」
「お願いだから、その辺で」
シズクは気になっていたことを思い出した。
「聖者」
「何、シズク」
「胸の先だけ隠れないブラジャーには、何か実用上の意味があるのですか」
ノアが完全に止まった。エヴァが腹を抱えて笑う。しばらくして、ノアは静かに答えた。
「……ないよ」
「やはり趣味なのですね」
「エヴァがそう言った?」
「はい」
「うん。それで合ってる」
巨大なオーガが、本気で恥ずかしそうにしている。シズクは少しだけ面白くなった。
夕食の後。
皿を洗う。
調理台はノアの身体に合わせて高いため、シズクは木箱へ乗った。ノアがそれを見る。
「シズク用の踏み台、明日作ろう」
「この箱で十分です」
「滑ると危ないよ」
「でも」
「すぐ作れるから」
明日作る。
その言葉は、明日もシズクがここにいることを、当然の前提としていた。胸が少し温かくなった。
片づけが終わる。
シズクが自室へ戻ろうとすると、エヴァが椅子から立ち上がった。
「さて」
「はい?」
「巫女服を着るか」
シズクの足が止まった。
「……本当に着るのですか」
「そのために聖者が用意したんだからな」
エヴァは楽しそうに白と赤の衣を取り出した。シズクの小袖と袴によく似ている。ただし、ところどころ妙に身体へ沿うよう作られている。
「聖者は一日で作ったのですか」
「似たようなのを前から作ろうとしてたらしい」
「なぜ?」
「白と赤が好きだったんじゃないか」
「それは私の国の巫女とは関係ないのでは」
「たぶんな」
エヴァは衣を身体へ当てる。
そして突然、シズクを見る。
「そうだ。シズク」
「何でしょう」
「巫女服の下着って、褌とさらしか?」
あまりにも普通に聞かれ、シズクも普通に答えてしまった。
「私のところでは、下は褌で、胸はさらしを巻きます」
「なるほど」
エヴァは真剣に考え始めた。
「褌とさらしか……」
「なぜそんなに真剣なのですか」
「こすぷれなら再現性は大事だろ」
「そんな再現性はいりません」
「いや」
エヴァが顎へ手を当てた。
「待て」
「何を?」
「巫女服の下からガーターベルトの線が少し見えてる方が、くるんじゃないか?」
シズクは止まった。
「……エヴァ?」
「そうなると普通のパンツだと邪魔か」
「エヴァ」
「Tバック?」
「エヴァ!」
エヴァが顔を上げた。
「なんだ」
「昼間、私にそれらの名前を教えていた人ですよね」
「ああ」
「なぜ今、普通に組み合わせを考えているのですか」
エヴァも少し考えた。
「……確かに」
「確かにではありません!」
「聖者に影響されたな」
「ものすごくされています!」
エヴァは白い巫女服。赤いガーターベルト。黒いTバック。そして褌とさらし。それらを真剣に見比べる。
「昔の俺なら、何に使うかも分からなかったんだよな」
「私が今その状態です」
「一年って怖いな」
「聖者が怖いのでは?」
「それもある」
エヴァは笑った。
「なあ、聖者」
まだ近くにいたノアが振り返る。
「何、エヴァ」
エヴァはさらしを手に取った。
「さらしで縛って半脱ぎって、くるだろ?」
ノアが黙った。シズクには意味が分からない。
だが。
エヴァの口元がにやりと上がった。
「くるんだな」
「……エヴァ、覚える方向がおかしくない?」
「お前が教えたんだろ」
「僕、そこまで教えた記憶ないんだけど」
「一年も一緒にいれば学習する」
エヴァはさらしを腕へ軽く巻いてみる。
「俺、嫌がっていい?」
「え?」
「捕まった女戦士って設定で」
ノアが少し困った顔をした。エヴァはもう乗り気だった。
「くっころしていい?」
「くっころ?」
シズクが聞き返す。ノアが片手で顔を覆った。
「シズクは知らなくていいよ」
「待て、聖者。教育は大事だ」
「その教育はいらない」
「女戦士が敵に捕まって、『くっ、殺せ』って抵抗するやつだ」
「エヴァ」
「なるほど」
シズクは頷いた。
「納得しなくていいから」
ノアが慌てる。エヴァはさらに楽しそうになった。
「よし。今晩は男装した女戦士で、途中で女だとばれて捕まることにするか」
「設定が増えてない?」
「さらしをほどかれながら、『くっ、殺せ!』って言う」
「エヴァ」
「もちろん遊びだからな」
エヴァはシズクにも聞こえるよう、はっきり言った。
「俺が本当に嫌なら止める。そこは別だ」
ノアも頷く。
「それならいいけど」
「決まりだな」
エヴァはさらしと褌を抱えた。そして、また考える。
「いや」
シズクは嫌な予感がした。
「まだ何か?」
「最初は褌とさらしで本物っぽくして」
「はい」
「途中でガーターベルトとTバックへ着替えるのもいいな」
「もう完全に聖者の側ではありませんか!」
ノアまで苦笑した。
「僕も今そう思った」
「おい」
エヴァが二人を見る。
「俺を何だと思ってる」
シズクは即答した。
「一年で巫女服の下へガーターベルトを合わせるようになった人です」
エヴァは少し黙った。
「なるほど」
「納得しないでください」
「じゃあ今日は両方やるか」
「なぜそうなるのです!」
「着替えると盛り上がる」
「昼間教わりました!」
「覚えてるじゃないか」
「覚えたくて覚えたのではありません!」
エヴァは笑った。
「さて、行くぞ、聖者」
「今日はほどほどにしようね」
「嫌だ」
「即答?」
「昼から楽しみにしてた」
エヴァは白い衣を肩へ掛ける。
「それとシズク」
「何ですか」
「明日の朝は洗濯物が多いぞ」
「もう知っています!」
「バルトリの使い方も覚えたな?」
「そのために覚えたのではありません!」
エヴァの笑い声が館へ響く。二人が廊下の向こうへ歩いていく。シズクは深くため息をついた。
朝には。
パンツも知らなかった。ブラジャーも知らなかった。ガーターベルトも。ニーソックスも。Tバックも。Oバックも。こすぷれも。くっころも。
何一つ知らなかった。
それが一日で、全部名前だけは覚えてしまった。本当に谷底で生きるために必要だったのだろうか。たぶん半分以上はいらない。
いや。
かなりいらない気がする。
けれど。
水を飲む場所を覚えた。野菜を冷やす場所を覚えた。生け簀を知った。洗濯を覚えた。便所と肥溜めを知った。畑を知った。毒草を知った。結界を知った。魔物を知った。滝壺の恐ろしさを知った。漂着物の拾い方も覚えた。
自分にも裁縫という仕事があると知った。
そして。
この家で暮らす二人が、どういう二人なのかも。嫌というほど知った。
シズクは去っていく二人の背中へ声を投げた。
「エヴァ!」
「なんだー?」
廊下の向こうから返事が来る。
「今日は戸を閉めてくださいね!」
少し間があった。
「善処する!」
「絶対に閉めてください!」
エヴァの笑い声が返ってきた。ノアの困ったような声も聞こえた。
シズクは自分の部屋へ戻った。
障子を閉める。布団へ入る。
遠くでは大瀑布が鳴っている。その向こう岸は見えない。水の中には、空を飛ぶ巨大な鳥さえ飲み込む魚がいる。結界の外には、知っている獣も、名前も分からない魔物もいる。毒草は一日で伸びる。魔物の種も十倍の速さで育つ。結界も絶対ではない。
だから毎日。
水路を見る。飲み水を守る。畑を見る。知らない芽を抜く。結界を確かめる。魚を生け簀へ入れる。漂着物を拾う。洗濯する。乾かす。食べる。片づける。
明日のために残す。
豊かな土地だから暮らせるのではない。結界があるから安全なのでもない。
毎日。
誰かが手を動かしている。それでようやく、この谷底の一角だけが、人の暮らせる場所になっている。
そして今日。
シズクもそこへ少しだけ加わった。
自分で拾った針が、今は部屋の隅に置いてある。
ほんの小さなものだ。
けれど。
自分のものが一つ、この館の中へ増えた。明日になれば、聖者が自分用の踏み台を作るという。
明日。
シズクは目を閉じた。
昨日までは。
死ぬのか。帰れるのか。ここにいてよいのか。そんなことしか考えられなかった。
今は。
明日は何を覚えるのだろう。何をすればよいのだろう。そう考えている。生け贄として捧げられた。世界の果てから落ち、一度は終わったはずの人生。
けれどここでは。
誰も自分を生け贄とは呼ばない。死者とも呼ばない。巫女であることすら、自分のすべてではない。
シズク。
ただ、それだけだった。明日もシズクとして起きる。水を飲む。飯を食べる。何かを覚える。何か一つ、自分にできることを増やす。
「あっ……あああっ……!」
エヴァの声だ。
シズクの瞼が、ぴくりと震える。
声は次第に大きくなり、嬌声と呼ぶべきものに変わっていく。合間に聞こえるのは、男の荒い息遣い。ノアだ。
「あっ、あっ、や、ノア……! ああああっ!」
エヴァの声が、途切れ途切れに響く。それが単なる嬌声ではなく、何かに耐えかねたような、あるいは何かに押しつぶされるような、そんな切迫した響きを帯び始める。
「お"っ……お"お"っ……!」
喉の奥から絞り出すような、くぐもった声。
シズクは布団を頭まで被った。
「……戸を閉めてと言ったのに」
少しして、獣じみた、理性の箍が外れたような声。
「お"お"お"っ! ああっ、あああっ! また……またイク……!」
遠くで、何かが激しくぶつかる音がする。壁か床か。それとも、肌と肌が打ち合う音なのか。規則的な、しかし次第に速くなるそのリズム。ノアの腰を振る動きが、ここまで伝わってくるようだった。
「やめ……あ"っ……! もう、もうむり……お"っ……!」
エヴァの嬌声と、獣のようなうめき声が入り混じり、断続的に夜の静寂を切り裂いていく。
ノアは何も言わない。ただ、ひたすらに腰を振り続けているのだろう。その無言の激しさが、かえってシズクの想像を掻き立てた。
「……うるさい」
シズクは小さく呟いて、耳を塞いだ。
それでも、少しだけ笑ってしまった。
谷底にも、朝が来る。
明日もまた、朝が来るのだ。




