第十一話 谷底で最初の仕事を見つけた
昼食を済ませると、午後は滝壺へ向かった。
エヴァは長い棒を持ち、シズクにも短い棒を一本渡した。
「これは?」
「分からんものを突く」
「棒で?」
「手で触る前にな」
館から離れる道を歩きながら、エヴァはいくつもの目印を教えた。
白い幹の木。
二つに割れた岩。
赤い苔の壁。
「この辺までは結界の内側だ」
「結界?」
シズクには何も見えない。
「普通の獣や魔物なら入れない」
「なら安心なのですね」
「そう思うな」
即座に言われた。
「結界は絶対じゃない」
「破れるのですか」
「破る魔物がいる。結界そのものを食うような奴もいるらしい」
「食べる?」
「それに、理由も分からず隙間が開くことがある」
「隙間……」
「昨日まで完全に塞がってた場所が、一刻だけ薄くなることもある。小さい奴なら入り込める」
「どうやって分かるのですか」
「聖者と俺が毎日見回る」
「毎日?」
「昨日安全だったから今日も安全とは限らん」
結界の外には、エヴァの知る鹿や猪、狼に似た獣もいれば、脚が六本ある蜥蜴、頭が二つある獣、名前も分からない魔物もいる。
「もし知らないものが結界の中へ入ってきたら?」
「走れ」
「戦っては」
「走れ」
「でも、エヴァは戦えるのでしょう?」
「俺はな」
「私は」
「生き残れ」
エヴァは真顔だった。
「館へ戻る。鐘を鳴らす。俺か聖者を呼ぶ。武器もない奴が勇敢さを証明する必要はない」
その言葉は、シズクの胸に残った。木々が途切れた。大瀑布の轟音が一気に身体へ響く。
滝壺。
シズクは改めて、その大きさに言葉を失った。向こう岸が見えない。水煙と霞の向こうまで水面が続いている。湖というには大きすぎる。海を見たことのないシズクには、これが海だと言われても信じただろう。
「本当に、向こう岸はないみたいです」
「あるんだろうが、見えない」
「聖者も行ったことがない?」
「岸沿いだけだ。真ん中へは行かない」
「なぜ?」
エヴァは無言で水面を指した。
遠く。巨大な鳥が飛んでいる。それだけでも十分魔物じみた大きさだった。鳥が水面近くへ降りた。
水面が盛り上がる。次の瞬間。巨大な魚が跳ねた。
魚。
少なくとも形だけなら魚だった。だが、開いた口だけで飛んでいる鳥の胴ほどある。鳥が翼を打つ。
遅い。
魚は空中で鳥へ食らいついた。鳥の半身が口へ消える。そのまま両方が水面へ落ちた。
しばらくして。
どおん。
遠くの出来事なのに、岸まで波が届く。
シズクは黙って一歩下がった。
「あれは……魚ですか」
「たぶんな」
「たぶん?」
「形は魚だ」
「鳥を食べました」
「食ったな」
「空を飛んでいたのに」
「水へ近づいたからな」
「帰りたいです」
エヴァが笑った。
「浅瀬にはあの大きさは来ない」
「本当に?」
「たぶん」
「その言葉が嫌いになりそうです」
漂着物が集まる場所は、滝壺から流れ出す水が少し緩やかになる岸だった。
樽。木箱。板。縄。布。陶器。片方だけの履物。金属片。知らない文字の木札。
何でもある。
エヴァは棒で一つずつ突きながら確認する。
「谷底じゃ、捨てる物の方が少ない」
「壊れた箱も?」
「板が使える。駄目なら薪」
「曲がった釘も?」
「伸ばす」
「布は?」
「洗う」
「縄は?」
「ほどいて使う」
「全部ですね」
「店がないからな。釘一本だって、次に手に入る保証がない」
シズクが丸い金属片へ手を伸ばした。
「触るな」
エヴァの声が飛んだ。
棒でひっくり返す。裏側に黒い虫がびっしりついていた。シズクは手を引っ込める。
「分からんものは?」
「棒で突く」
「よし」
その日、シズクは小さな布包みを一つ見つけた。中には錆びていない針が数本入っていた。
「私、裁縫ならできます」
「そうか」
「神殿で衣の繕いもしていました。刺繍も少し」
「じゃあ仕事が一つ増えたな」
シズクは足を止めた。
「私の仕事?」
「嫌ならしなくていい」
「いえ」
針の入った布を胸元へ抱えた。
「やります」
「なら決まりだ」
エヴァはそれを特別なことのようには扱わなかった。
そのことが嬉しかった。




