第百五十九話 気をつけて、行ってらっしゃい
その日の夕方。
リーゼとスージーは、館から少し離れた露天温泉に来ていた。
理由そのものは、何も特別ではない。
新種マンゴーの分布調査で林の中を歩き回り、地面へ這いつくばって根の位置を確認し、果汁の飛沫を避けながら測量し、風向きまで記録していたせいで、二人とも汗と土埃まみれになっていた。
途中。
「お゙ほー……」
と例の声が聞こえるたびにリーゼの手が斧の幻影を求めて動いたが、スージーがそのたびに背中を撫でたので、今日は一株も伐採されていない。
非常に平和な調査だった。
少なくとも谷底基準では。
「今日はよく耐えたわね」
「何の話だ」
「マンゴー」
「小官は軍人だ。感情に任せて貴重な調査対象を破壊したりはしない」
「昨日、斧と松明持って走ってたけど」
「あれは昨日だ」
「便利な言葉ね」
そう言いながら二人で露天温泉まで来た。
そして。
脱衣場で。
止まった。
◇
スージーが服へ手をかける。
リーゼも服へ手をかける。
二人。
止まる。
目が合う。
逸らす。
「……」
「……」
昨夜。
二人は。
裸で寝た。
それどころではない。
朝になって寝具を見れば、何があったか忘れたふりなどできない程度には、いろいろあった。
お互いの身体も。
見た。
触れた。
抱きついた。
それなのに。
素面。
夕方。
明るい。
これだけで。
服を脱げない。
スージーの猫耳が横へ倒れた。
「……大尉」
「何だ」
「先、入る?」
「何故、小官が先なんだ」
「じゃあ私が先?」
「それも……」
「何?」
「いや」
また。
沈黙。
スージーが顔を赤くした。
「昨日、裸見てるのにね」
「言うな!」
「大尉も見たでしょ」
「見た!」
「私も見た」
「だから言うな!」
「なんで今さら恥ずかしいのよ!」
「小官が知るか!」
二人とも。
同じことを思っていた。
◇
結局。
背中合わせで脱いだ。
「見るなよ」
リーゼが言う。
「大尉もね」
「当然だ」
衣擦れ。
布を畳む音。
金具。
ベルト。
靴。
それだけなのに。
妙に。
意識する。
「……もういい?」
スージー。
「まだだ」
「分かった」
少しして。
「……今度こそ」
「待て!」
「何してるのよ!」
「髪が引っかかった!」
「手伝う?」
「いい!」
「そう」
また少し。
「……よし」
「いい?」
「ああ」
二人。
同時に振り返った。
そして。
同時に。
視線を上へ逸らした。
「……」
「……」
スージーが言った。
「昨日は、もっと近かったよね」
「頼むから今は言うな」
「ごめん」
「謝るくらいなら最初から言うな」
しかし。
スージーは。
ちょっと笑っていた。
リーゼも。
笑いたくなって。
余計に困った。
◇
露天温泉は、谷底の岩場から湧き出す湯をノアが簡単に整備したものだった。
石で囲った広い湯船。
湯温は少し高め。
その向こうには木々。
さらに遠くには巨大な断崖。
水煙。
夕焼け。
景色だけなら。
非常に美しい。
二人は。
湯船の端と端へ入った。
離れている。
かなり。
スージーが聞いた。
「遠くない?」
「広いから有効に使っているだけだ」
「エヴァみたいなこと言ってる」
「違う!」
「でも端と端」
「適切な間隔だ」
「昨日は?」
「昨日の話をするな!」
ざぶん。
リーゼは肩まで湯へ沈んだ。
耳まで赤い。
スージーは。
猫耳だけ湯から出ている。
「私も恥ずかしいんだけど」
「なら黙って入れ」
「そうする」
静かになった。
◇
湯気。
夕焼け。
水の音。
遠くで。
「コケッ」
鶏の木。
リーゼが眉を動かす。
しかし。
それくらいなら。
もういい。
少しして。
スージーが言った。
「リーゼ」
「何だ」
「こっち見て」
「何故」
「普通に話したいから」
「今でも話せる」
「ずっと岩見てるじゃない」
「岩が興味深い」
「考古学者の私でも、あの岩にそんな興味ないわよ」
リーゼは。
少しだけ。
顔を向けた。
スージーもこちらを見る。
目が合う。
二人。
今度は。
逸らさなかった。
ただし。
顔は赤い。
「……」
「……」
先に。
スージーが笑った。
「何これ」
「小官が聞きたい」
「昨日の私たち、相当だったのに」
「だから言うな!」
「なのに今、目が合うだけでこれ」
「酒が悪い!」
「全部酒のせい?」
リーゼが。
止まる。
「……全部ではない」
スージーの猫耳が。
ぴくっ。
「そう」
「ああ」
それだけ。
でも。
昨日より。
少しだけ。
言えるようになった。
◇
しばらくして。
スージーが湯から出た。
リーゼは反射的に横を向いた。
「ちょっと!」
「何だ!」
「そんな勢いで逸らさなくてもいいでしょ!」
「何をしに出た!」
「身体洗うの!」
「そうか!」
「何で怒鳴るのよ!」
スージーは笑いながら。
洗い場へ座る。
湯を汲む。
身体を流す。
少しして。
後ろを振り返った。
「大尉」
「何だ」
「背中、流す?」
リーゼが固まった。
「……」
「嫌ならいいけど」
「嫌ではない」
「じゃあ」
「だが」
「何?」
「……自分で届く」
スージーが吹き出した。
「子供みたい」
「子供扱いするな!」
「じゃあ大人らしく頼めば?」
「何故そうなる!」
「昨日は頭撫でさせたのに」
「それとこれは別だ!」
「背中もいつも撫でてるでしょ」
「服の上からだ!」
「細かいなあ」
リーゼは。
しばらく。
湯へ沈んでいた。
そして。
小さく。
「……頼む」
スージーが。
少しだけ。
嬉しそうに笑った。
「はい」
◇
リーゼが洗い場へ座る。
背中を向ける。
スージーが布へ石鹸をつける。
泡。
背中。
ゆっくり。
洗う。
リーゼの身体は。
細い。
だが。
華奢ではない。
肩。
背中。
腕。
飛行士として。
軍人として。
必要なところには。
きちんと筋肉がついている。
スージーが。
つい。
「やっぱり、いい身体してるわねえ」
リーゼの背中が。
びくっ!
「貴様!」
「ごめん!」
「忍者家族にも同じことを言っただろ!」
今度は。
スージーが固まった。
「……何で知ってるの?」
「ルヴァナが遠くから叫んでいた!」
「どこまで聞こえてるのよ、あの子!」
「『大尉、いい女の体だったんだってー!』とな!」
スージーが。
両手で顔を覆った。
「殺して」
「小官も同じ気持ちだった!」
「忘れて」
「無理だ!」
「じゃあ大尉も何か言って!」
「何を!」
「私の身体!」
リーゼ。
完全停止。
スージーも。
言ってから。
完全停止。
「……」
「……」
湯気。
夕焼け。
鶏の木。
「コケッ」
リーゼが。
ものすごく。
小さな声で。
「……好きだ」
スージーが。
止まった。
「え?」
リーゼが。
さらに赤くなる。
「身体の話だ!」
「あ」
「今は身体の話をしていただろう!」
「う、うん」
「だから!」
「うん」
スージーの猫耳が。
ぴん。
と立つ。
「……そっか」
「ああ」
「好きなんだ」
「その言い方をするな!」
「身体が?」
「もう黙れ!」
スージーは。
笑いながら。
リーゼの背中を洗い続けた。
◇
交代。
今度は。
リーゼが。
スージーの背中を洗う。
猫耳。
背中。
尻尾。
「尻尾はどうする」
「普通に洗って」
「痛くないか」
「毛並みに沿って」
「こうか?」
「うん」
リーゼは。
妙に。
真剣だった。
「大尉」
「何だ」
「仕事みたいな顔してる」
「初めて洗う構造だからな」
「構造って言わないで」
「では何と言えばいい」
「尻尾」
「尻尾だな」
「それでいいの」
少し。
沈黙。
スージーが。
ぼそっと。
「優しいね」
リーゼの手が止まる。
「普通だ」
「そう?」
「痛くしたくないだけだ」
「それを優しいって言うんじゃない?」
「……知らん」
また。
洗う。
今度は。
少しだけ。
力を弱くした。
◇
二人で。
もう一度。
湯へ入った。
今度は。
端と端ではない。
隣。
ただし。
少し間がある。
肩が触れそうで。
触れないくらい。
スージーが湯を見ながら言った。
「昨日のこと」
リーゼの身体が固まる。
「……ああ」
「後悔してる?」
エヴァにも。
同じことを聞かれた。
答えは。
変わらない。
「していない」
「私も」
スージーが言う。
「でも」
「何だ」
「今すぐ、何か決めなくてもいいんだよね」
「……ああ」
「恋人とか」
「うん」
「どういう関係とか」
「うん」
「また寝るのかとか」
リーゼが。
びくっ。
「最後は今言う必要があるか」
「大事かなって」
「……」
スージーが。
少し笑う。
「私は、また一緒に寝たいよ」
リーゼは。
完全に。
湯の中で固まった。
「普通に!」
スージーが慌てて付け足す。
「普通に寝る方も含めて!」
「含めて、ということは!」
「そっちも嫌じゃないけど!」
「貴様!」
二人。
真っ赤。
スージーは。
とうとう。
両手で顔を覆った。
「もうやだ」
リーゼも。
顔を覆いたかった。
しかし。
少しして。
言った。
「……小官も」
スージーが。
指の隙間から見る。
「何?」
「また」
言え。
「……一緒に寝るのは、嫌ではない」
スージーの猫耳が。
ゆっくり。
立った。
「普通に?」
「両方だ!」
言った瞬間。
リーゼは。
口まで湯へ沈んだ。
スージーが。
笑った。
「大尉、顔真っ赤」
「湯が熱い!」
「私も熱い」
「湯のせいだ!」
「そういうことにしよっか」
「そうしろ!」
◇
夕日は。
だんだん。
山影の向こうへ沈んでいく。
温泉の表面が。
赤から。
紫へ変わる。
リーゼは。
少し。
肩の力を抜いた。
スージーも。
黙って。
隣にいる。
やがて。
湯の中。
手が。
触れた。
偶然。
たぶん。
リーゼは。
すぐには離さなかった。
スージーも。
離さない。
少しして。
指。
重なる。
握る。
それだけ。
昨夜より。
ずっと。
何もしていない。
なのに。
昨日より。
恥ずかしい。
リーゼが。
ぼそっと。
「……何なんだ、これは」
スージーが。
少し笑う。
「知らない」
「考古学者だろ」
「恋愛は専門外」
「小官もだ」
「航空隊じゃ教えない?」
「教えるわけがない!」
スージーが笑った。
リーゼも。
今度は。
普通に笑った。
◇
その時。
遠くから。
「お゙ほー……」
二人。
同時に。
止まった。
リーゼの手に。
力が入る。
スージーも。
握り返した。
「……斧」
「温泉にないよ」
「松明」
「もっとない」
「……そうか」
「今日はここにいよ」
「……ああ」
少し間。
リーゼは。
隣にいるスージーを見る。
今度は。
目が合っても。
逸らさなかった。
裸なのは。
やっぱり。
恥ずかしい。
昨日はあれほど騒いだのに。
今は。
手を握っているだけで。
どうにも落ち着かない。
それでも。
嫌ではない。
むしろ。
この時間が。
もう少し続けばいいと思った。
リーゼが。
小さく。
「……スージー」
「何?」
「明日も調査だ」
「うん」
「例の森へ行く」
「うん」
「だから」
スージーが。
先に。
笑った。
「気をつけて、行ってらっしゃい」
リーゼは。
少し。
黙った。
それから。
湯の中で。
握った手を。
ほんの少し。
強く握り返した。
「……ああ」
普通のバナナ。
普通のマンゴー。
そして。
普通にはまだなれない。
二人。
それでも。
少しずつ。
自分たちなりの普通を。
作り始めていた。




