第百五十七話 気をつけて、行ってらっしゃい
朝。
スージーが目を覚ました時、最初に見えたのは見慣れない天井だった。
次に感じたのは、右腕の重さ。
誰かが腕を枕にしている。
頭が痛い。口が乾いている。昨夜、かなり酒を飲んだことだけは、嫌でも身体が教えてくれていた。
スージーはしばらく天井を見つめた後、恐る恐る横を見る。
短い金髪。
閉じた目。
整った横顔。
リーゼロッテ・ヴァイス。
帝国航空隊大尉。
その大尉が、スージーの腕を枕にして眠っていた。
そして二人とも。
裸だった。
「……あー」
声を出した瞬間、断片的な記憶が戻ってきた。
新種マンゴーの調査結果。
見た目も、音も、臭いも最低だったくせに、果肉は美味い。菌体は極上の発酵食品。酒に合う。
それを聞いたリーゼが、自棄酒を始めた。
スージーも付き合った。
愚痴を聞いた。
笑った。
泣いた。
抱きついた。
その後は、ところどころしか覚えていない。
ただ。
二人とも、例の新種マンゴーを二度と馬鹿にできないくらい、馬鹿みたいな声を上げていたことだけは覚えていた。
寝具を交換した方がよさそうなくらい、いろいろと酷いことになったことも。
スージーは顔を覆いたくなった。
だが。
右腕はリーゼの枕になっている。
動かせない。
「……やったわねえ」
小さく呟く。
すると。
腕の中のリーゼが動いた。
「ん……」
スージーが固まる。
リーゼの青い目が、ゆっくり開いた。
目が合った。
二人とも。
動かなかった。
本当に。
しばらく。
何も言えなかった。
先に視線を逸らしたのはリーゼだった。
「……おはよう」
ものすごく小さな声だった。
スージーも。
「……おはよう」
と返した。
それだけ。
朝の挨拶としては、どこまでも普通だった。
状況だけが。
一切。
普通ではなかった。
◇
二人は無言で服を探した。
リーゼが下着を拾う。
スージーが目を逸らす。
スージーが服を着る。
今度はリーゼが目を逸らす。
昨夜までは一緒の寝台で愚痴を聞いて寝ることもあった。
疲れているリーゼへ抱きつかれても、背中を撫で、頭を撫でていた。
それなのに。
今は。
視線が合うだけで。
どうしようもなく恥ずかしい。
リーゼは制服を着た。
ボタン。
襟。
袖。
帯。
いつもの大尉へ戻るための儀式のように、一つずつ整えていく。
襟は一度直した。
さらに直した。
三回目。
スージーが言った。
「そこ、もう真っ直ぐよ」
「……そうか」
また沈黙。
リーゼは記録板を手に取った。
「小官は、分布調査へ行く」
完全に。
大尉の声。
スージーは少しだけ笑いそうになった。
恥ずかしくて仕方がないのに。
仕事の話になった瞬間。
大尉へ逃げ込んだ。
「例のマンゴー?」
「ああ。昨日より株数が増えていないか確認する。教授とも合流する」
「そっか」
「では」
リーゼが扉へ向かう。
スージーは。
その背中を見た。
いつもなら。
普通に。
「行ってらっしゃい」
と言うところだった。
でも。
今日は。
どうしてだろう。
少しだけ。
違う言葉が出た。
「リーゼ」
大尉が止まる。
振り返る。
また。
目が合う。
スージーは。
ちょっとだけ照れながら。
でも。
いつものように笑った。
「気をつけて、行ってらっしゃい」
リーゼが。
完全に止まった。
一秒。
二秒。
三秒。
耳まで。
赤くなる。
スージーも。
自分で言ってから。
ものすごく恥ずかしくなった。
「いや、その、分布調査って森の方行くんでしょ。だから普通に、気をつけてって意味で」
「……分かっている」
「うん」
「当然だ」
「うん」
また沈黙。
リーゼは。
少しだけ。
顔を逸らした。
「……行ってくる」
今度は。
大尉ではなく。
リーゼの声だった。
扉が閉まる。
スージーは。
その場に立ったまま。
両手で顔を覆った。
「……何なのよ、これ」
猫耳まで。
熱かった。
◇
それから。
さらに困った。
昨日までなら、リーゼを見つければ普通に声をかけられた。
今日。
無理だった。
遠くに金髪が見える。
反射的に隠れる。
自分でも意味が分からない。
昼前。
スージーはとうとう決めた。
相談しよう。
誰に。
考えた結果。
忍者家族だった。
クロエ。
アスラ。
ネイラ。
ルヴァナ。
四人いれば。
一人くらい。
まともなことを言うだろう。
たぶん。
◇
こんこん。
「入れ」
クロエの声。
スージーが扉を開ける。
四人ともいた。
クロエは小型機械を整備している。
アスラは魔術具を弄っている。
ネイラは記録整理。
ルヴァナは寝台の上で寝転がっていた。
スージーが入った瞬間。
ルヴァナが起き上がる。
「恋バナ?」
「何で一発で分かるの!?」
「顔」
ネイラも言う。
「耳もね」
スージーは自分の猫耳を押さえた。
完全に伏せている。
「そんなに分かりやすい?」
クロエ。
「かなり」
アスラ。
「非常に」
「そっかあ……」
スージーは椅子へ座った。
そして。
四人に見られる。
「……どうしたらいいでしょうねえ」
ルヴァナが笑う。
「何その言い方」
「本当に分かんないのよ」
「相手、誰?」
スージーの猫耳がさらに下がる。
「……リーゼ」
四人。
驚かない。
スージーが逆に驚いた。
「え?」
ネイラが首を傾げる。
「何かしら」
「もっと驚かない?」
クロエが答える。
「予想範囲内だ」
アスラも頷く。
「他の名なら意外だった」
ルヴァナは笑っている。
「だってスージー、大尉とずっと一緒じゃん」
「……そんなに?」
「そんなに」
◇
スージーは膝の上で指を組んだ。
「昨日さ」
ルヴァナが前のめりになる。
「うん!」
「新種マンゴーの結果が出たでしょ」
「うん!」
「大尉、自棄酒して」
「うん!」
「私も付き合って」
「うん!」
「部屋に行って」
「うん!」
ネイラがルヴァナの肩を掴む。
「近い」
「姉ちゃん、今いいところ!」
「相談なんだから急かさないの」
スージーは顔を覆った。
「……朝、二人とも裸で寝てた」
ルヴァナ。
「おおー」
ネイラ。
「あら」
アスラ。
「なるほど」
クロエ。
「理解した」
「理解しないで!」
「説明したのはお前だ」
「そうだけど!」
スージーは顔を覆ったまま続ける。
「しかも私が腕枕してた」
ルヴァナが笑う。
「めっちゃいいじゃん」
「よくない!」
「何で?」
「その後どうしたらいいか分かんないから!」
◇
少しして。
スージーは。
さらに余計なことを言った。
「あと」
四人が見る。
「リーゼって」
止まる。
頬が赤い。
「……いい女の体してましたけど」
ルヴァナが吹き出した。
「ぶっ!」
ネイラは口元へ手を当てた。
アスラが笑う。
クロエまで一度工具を止めた。
スージーが慌てる。
「違うの!」
ルヴァナ。
「何が違うの!」
「相談の一部!」
「どんな相談!」
「だって、いつも制服じゃない! 細いっていうか、ちゃんと締まってて、軍人だから鍛えてて、その……」
ネイラが優しく言う。
「スージー」
「何?」
「それは、惚気ね」
「違う!」
ルヴァナ。
「完全に惚気!」
アスラ。
「いい女だったのだろう?」
スージー。
止まる。
少し考える。
「……うん」
ルヴァナが両手を叩いた。
「はい惚気!」
「うるさい!」
◇
スージーは机へ突っ伏した。
「それで、あとから顔をまともに見れなくなりましてー」
ルヴァナ。
「急に敬語っぽくなった」
「無理なのよ!」
「朝どうしたの?」
「服着て、大尉が仕事行くって言って」
「うん」
スージーが。
また顔を伏せる。
「私、『気をつけて、行ってらっしゃい』って言っちゃって」
一瞬。
四人が黙った。
ルヴァナが。
ものすごく。
にやにやした。
「嫁じゃん」
「違う!」
「それもう新婚の朝じゃん!」
「普通に森へ行くから気をつけてって意味!」
ネイラが笑う。
「リーゼは?」
「真っ赤になってた」
「スージーは?」
「……私も」
ルヴァナ。
「はい両想い!」
「まだ決めるな!」
◇
ネイラが落ち着いて聞いた。
「リーゼは、昨夜のことを後悔していると言った?」
「言ってない」
「嫌だったと?」
「言ってない」
「もう会いたくないと?」
「それもない」
「では、急いで答えを出す必要はないでしょう」
スージーが顔を上げる。
「答え?」
「恋人なのか。友人なのか。昨日をどういう意味にするのか。これからどうしていきたいのか」
ネイラは静かに続けた。
「全部、今日決めなくてもいいわ」
クロエも工具を置いた。
「昨日一晩で関係が生まれたわけではない」
「え?」
「お前は以前から、リーゼが疲れれば迎えに行った。背を撫で、頭を撫で、愚痴を聞いた。同じ寝台で眠ることもあった」
スージーの耳が少し立つ。
「リーゼは、お前の前では大尉でなくてもいられる」
クロエは淡々と言った。
「昨日は、その延長で少し関係が変化した。それだけだ」
アスラも頷く。
「既に積み上げたものがある。ならば急ぐ必要はない」
ルヴァナが言う。
「今日から急に『恋人です!』ってしなくてもよくない?」
「……うん」
「今まで通り、大尉がバナナとマンゴーの木の下で丸くなってたら迎えに行って」
「うん」
「泣いてたら撫でて」
「うん」
「愚痴聞いて」
「うん」
「また一緒に寝たくなったら寝れば?」
スージーの耳が。
ばっ。
と立った。
「その言い方!」
ルヴァナが笑う。
「でもそうじゃん」
ネイラも言った。
「それと」
「何?」
「スージーも、リーゼに支えてもらえばいいと思う」
スージーが。
少し。
止まった。
「……私も?」
「ええ。あなたは、ずっとリーゼを支えようとしているでしょう?」
「うん」
「なら、自分が疲れた時も頼ればいい。関係は一方通行でなくていいのだから」
スージーは。
しばらく。
黙っていた。
それから。
少しだけ笑った。
「……そっか」
肩の力が抜けた。
◇
ルヴァナが。
また。
にやり。
「で?」
「何よ」
「いい女の体だったんでしょ?」
「そこへ戻るな!」
「締まっててー?」
「言わない!」
「鍛えててー?」
「聞くな!」
「裸で腕枕してー?」
「帰る!」
スージーは立ち上がった。
扉へ向かう。
ルヴァナが後ろから叫ぶ。
「大尉のとこー?」
スージーが止まる。
一秒。
二秒。
「……たぶん」
四人が笑った。
スージーが振り返る。
「何!」
ネイラが優しく言った。
「行ってらっしゃい」
今度は。
朝、自分がリーゼへ言った言葉を思い出して。
スージーの猫耳がまた赤くなった。
「その言葉、今日は効くからやめて」
◇
部屋を出る。
廊下。
スージーは歩きながら考えた。
確かに。
昨日一晩で始まったわけではない。
リーゼが疲れれば。
自分は探した。
小さな畑。
普通のバナナ。
普通のマンゴー。
その二本の間で膝を抱えているリーゼ。
背中を撫でた。
頭を撫でた。
泣いて抱きつかれたら。
抱き返した。
同じ寝台で愚痴を聞いた。
そういうことを。
ずっと。
していた。
なら。
今日も。
同じことをすればいい。
昨日のことは。
その後で考えればいい。
◇
リーゼは。
やはり。
小さな畑にいた。
普通のバナナ。
普通のマンゴー。
二本の間。
柵へ座り。
記録板を持っている。
仕事をしているふりをしている。
どう見ても。
同じ一行を。
ずっと見ている。
スージーが近づく。
リーゼの肩が。
びくっ。
スージーの猫耳も。
びくっ。
目が合う。
二人。
同時に。
逸らす。
「……」
「……」
普通のバナナの葉が揺れる。
さらさら。
普通のマンゴーの葉も。
さらさら。
それだけ。
リーゼが咳払いした。
「……相談は終わったのか」
スージーが勢いよく見る。
「何で知ってるの!?」
「ルヴァナが遠くから『恋バナー!』と叫んでいた」
スージーは両手で顔を覆った。
「もうやだ」
少し。
沈黙。
リーゼが小さく聞いた。
「……何と言われた」
スージーは指の隙間からリーゼを見る。
顔。
やっぱり。
赤い。
自分と。
同じ。
「慌てなくていいって」
リーゼが黙る。
「ゆっくりでいいって」
「……そうか」
「昨日一晩で、急に全部決めなくてもいいって」
「……ああ」
「今まで通りでもいいって」
リーゼは。
少しだけ。
スージーを見る。
スージーも。
今度は。
目を逸らさなかった。
「だから」
隣の柵を。
ぽんぽん。
「ここ、座るね」
リーゼの口元が。
ほんの少し。
緩んだ。
「……許可を取る必要はない」
スージーが隣へ座る。
肩。
触れる。
どちらも。
離れない。
◇
しばらく。
二人で普通の木を見た。
スージーが言う。
「リーゼ」
「何だ」
「朝」
大尉の肩が。
びくっ。
スージーも恥ずかしくなる。
でも。
続けた。
「私が『気をつけて、行ってらっしゃい』って言ったでしょ」
「……ああ」
「変だった?」
リーゼは。
少し。
黙った。
「いや」
「そう?」
「あれは」
また。
少し黙る。
「……嬉しかった」
スージーの猫耳が。
完全に。
立った。
リーゼは慌てる。
「分布調査は危険が伴うからな! 安全を気遣われること自体は合理的で――」
スージーが笑った。
「はいはい、大尉」
「何だ、その言い方は!」
「嬉しかったんでしょ」
「……まあ」
「じゃあ、また言うね」
リーゼが止まる。
「……また?」
「仕事行く時」
スージーは。
少し照れながら。
笑った。
「気をつけて、行ってらっしゃいって」
リーゼの顔が。
また。
赤くなる。
「……好きにしろ」
「うん」
少しして。
スージーは。
いつものように。
リーゼの背中へ手を置いた。
ゆっくり。
撫でる。
リーゼが。
ほんの少し。
身体を預ける。
昨日までと。
同じ。
でも。
少しだけ。
違う。
それで。
今は。
よかった。
遠く。
「お゙ほー……」
リーゼの肩が。
びくっ。
スージーは。
その背中を。
もう一度。
優しく撫でる。
「大丈夫、大丈夫」
リーゼが。
小さく。
「……斧」
「駄目」
「松明」
「もっと駄目」
「……分かった」
いつもの大尉だった。
スージーは。
少しだけ。
安心した。




