第百五十六話 気づけば隣にいた
気づけば、スージーはリーゼと一緒にいることが多くなっていた。
最初から、そうしようと思っていたわけではない。
谷底へ落ちてきたばかりの頃、スージーにとってリーゼは少し特殊な相手だった。言葉が通じるだけではない。電気を知っている。発電機を知っている。鉄道も飛行機も銃も、測量も地図も理解する。
国も違う。尺度も規格も違う。スージーの知らない帝国の軍人で、リーゼの知らない土地の考古学者。
それでも、二人の間には「説明しなくても通じるもの」が多かった。
クロエの技術を見れば、二人とも仕組みの方向は理解できても、世代が違いすぎると言う。
ティセラの魔術を見れば、測定と再現性を重んじる姿勢は理解できるが、そもそも魔術という出発点で二人揃って首を傾げる。
シズクの文化を聞けば、興味深いと思う一方で、知らないものは知らない。
そして、谷底の植物を見ると。
「何で木が鳴くんだ!」
だいたいリーゼが最初に叫ぶ。
スージーは、それを見る側だった。
◇
リーゼは、別に強くない。
少なくとも、この谷底で比較すれば。
エヴァのような怪力はない。
ルヴァナのように巨大生物を相手に平然と動けるわけでもない。
クロエやアスラのような、人間離れした技術も魔術もない。
ノアのような巨大な身体もない。
ティセラのように未知の魔術現象をその場で分析できるわけでもない。
スージーと大差ない。
普通の人間。
多少鍛えてはいる。
軍人だから、スージーより走るのは速いかもしれない。重い荷物にも慣れている。危険に対する判断も早い。
けれど。
それだけだった。
四メートル級の黒が歩けば、リーゼだって避ける。
巨大魚が跳ねれば、リーゼだって驚く。
怪しい植物から白い液体が吹き出せば、スージーと一緒に後ろへ下がる。
異常に強いわけではない。
異常に賢いわけでもない。
まして。
何でも知っているわけではない。
それなのに。
毎日。
誰よりも走り回っていた。
◇
朝。
水路を見る。
畑を見る。
地図を直す。
昨日までなかった道ができていれば測る。
キマイラが歩いただけで大型生物用の道ができていれば、文句を言いながら結局記録する。
鶏の木が地下茎で増えれば、どこまで広がったか調べる。
幼木を切れば、
「ピヨオオオオオ!」
と鳴く。
リーゼは顔を引きつらせながら、それでも必要な間伐量を計算する。
温泉卵の木が、
「ぃ゙ぐぅ゙っー!」
と鳴いて実を落とす。
「自然落果だ! 産んだと言うな!」
と叫びながら、収穫量を記録する。
白濁した石油のような液体が、
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙……!」
と燃える。
「燃料まで鳴るな!」
と怒鳴りながら、危険区域を決める。
男根みたいな筍。
陰毛みたいな栗。
陸を這うアワビ。
熟れた女魚。
そして。
例のマンゴー。
叫ぶ。
怒る。
時々、斧を持つ。
もっと時々、松明まで持つ。
全員に止められる。
それでも。
翌朝には。
測量道具を持っている。
◇
誰かに命令されたわけではない。
少なくとも、スージーの知る限り。
「今日は休んだら?」
そう言ったこともある。
リーゼは地図から目を離さずに答えた。
「誰がやる」
「明日でもいいもの、結構あるでしょ」
「明日に回せば、明日の仕事が増える」
「他の人にも任せれば?」
「任せている」
「じゃあ、大尉は休めるじゃない」
そこで。
リーゼは少しだけ困った顔をする。
「小官は上官だからな」
スージーには、最初。
意味が分からなかった。
「ここ、帝国軍じゃないでしょ?」
「分かっている」
「部下もいないじゃない」
「分かっている」
「じゃあ何の上官なの?」
リーゼは。
少し黙った。
それから。
「大尉だからだ」
と答えた。
それ以上の説明はなかった。
スージーは、その時から。
少し気になるようになった。
◇
大尉だから。
自分が先に見る。
大尉だから。
危ない場所へ行く。
大尉だから。
記録を残す。
大尉だから。
誰かが困る前に準備する。
大尉だから。
失敗すれば自分が責任を取る。
誰もそんなことを求めていないのに。
誰も命令していないのに。
リーゼは、自分で自分へ命令し続けている。
スージーには。
それが。
少し危うく見えた。
◇
だから。
リーゼが小さな畑を作った時も。
何となく。
理由が分かった。
館の庭。
ほんの小さな区画。
普通のバナナ。
普通のマンゴー。
二本だけ。
心が疲れると。
リーゼはそこへ行く。
軽い日なら。
立っている。
少しひどい日なら。
柵へ座っている。
かなりひどい日なら。
木の下で膝を抱えている。
スージーは。
いつの間にか。
迎えに行く役になっていた。
◇
「大尉」
「……何だ」
「今日もここ?」
「点検だ」
「二時間?」
「念入りな点検だ」
「バナナ一本とマンゴー一本を?」
「重要施設だ」
スージーは隣へ座る。
「異常ある?」
「ない」
「よかったね」
「……ああ」
それで。
しばらく。
一緒にいる。
話さない日もある。
リーゼが愚痴る日もある。
「何故、燃料が鳴く」
「知らない」
「何故、竹からイカ臭い汁が出る」
「知らない」
「何故、魚を食ったら全員『熟れてる』しか言えなくなる」
「美味しかったから」
「小官は普通の形容詞が聞きたいんだ」
「じゃあ今度考えとく」
そう言うと。
少しだけ。
元気になる。
◇
もっとひどい日は。
背中を撫でた。
最初は。
何となくだった。
リーゼが木の下で膝を抱えていたから。
手を伸ばして。
ゆっくり。
背中をさすった。
「何をしている」
「慰めてる」
「子供ではないぞ」
「やめる?」
「……別に」
やめなかった。
そのうち。
リーゼが本当に泣いた日もあった。
例のマンゴーの時だった。
「普通の果物が欲しかっただけなんだ……」
と言いながら。
スージーへ抱きついてきた。
驚いた。
でも。
突き放さなかった。
背中を撫でた。
頭も撫でた。
金色の短い髪。
いつもきちんとしている髪。
その日は、少し乱れていた。
「よしよし」
「子供扱いするな……」
「じゃあやめる?」
「……やめるな」
それ以来。
時々。
そうするようになった。
◇
何度か。
同じ寝台で寝たこともある。
何も特別なことはない。
大きな寝台。
横になる。
リーゼが天井を見ながら愚痴る。
「小官はあのマンゴーを許していない」
「知ってる」
「教授は残す気だ」
「研究したいんでしょ」
「エヴァは食う気だ」
「酒に合いそうだもの」
「敵だらけだ」
「大尉の敵、果物一本だけじゃない?」
「一本ではない。増えた」
「そうだった」
そんな話を。
延々。
聞く。
途中から声が小さくなる。
そして。
寝る。
翌朝。
リーゼは起きる。
制服を着る。
髪を整える。
地図を持つ。
「行くぞ」
大尉に戻る。
スージーは。
そういうリーゼを見るのが。
嫌いではなかった。
◇
気づいたら。
いつも。
一緒にいた。
何故だろう。
考えたこともある。
同じ程度の科学文明から来たから。
話が通じるから。
同じように身体が普通だから。
化け物じみた強さを持っていない者同士だから。
あるいは。
単純に。
リーゼが放っておけないから。
たぶん。
全部。
でも。
一番は。
もっと単純だった。
この人。
頑張りすぎる。
だから。
誰かが横にいた方がいい。
そう思った。
自分が。
その誰かになろうと。
いつの間にか。
決めていた。
◇
ただ。
昨日は。
少し。
違った。
例の新種マンゴーの調査が終わった日。
結果。
予想通り。
食用可能。
果肉。
非常に美味。
菌体。
発酵食品として優秀。
酒との相性。
極めて良好。
リーゼは報告を読んだ。
三回。
読んだ。
それから。
言った。
「飲む」
スージーが聞いた。
「何を?」
「酒」
「大尉、珍しいね」
「今日は飲む」
「どのくらい?」
リーゼは答えた。
「小官がヤツを許せるまで」
スージーは止めるべきだった。
今なら。
そう思う。
◇
自棄酒だった。
最初は普通だった。
「何故美味い!」
「まあまあ」
「見た目が最悪なら味も最悪であれ!」
「理不尽」
「しかもブルーチーズまで美味い!」
「それはよかったじゃない」
「よくない!」
杯。
二杯。
三杯。
途中から。
スージーも付き合った。
「大尉、飲みすぎ」
「小官は大尉だぞ」
「関係ない」
「飲酒量くらい自分で管理できる」
「できてない顔してる」
「スージー」
「何?」
「マンゴーが小官を煽った」
「それ酔う前から言ってた」
「お゙ほーって」
「うん」
「絶対笑った」
「風だと思う」
「敵だ」
「はいはい」
気づけば。
二人とも。
かなり飲んでいた。
◇
そこから先。
スージーの記憶は。
ところどころ。
抜けている。
リーゼの部屋へ行った。
これは覚えている。
何かを話していた。
これも覚えている。
リーゼが。
「小官は普通だ!」
と何度も主張していた。
自分も。
「私も普通!」
と返した気がする。
何故その話になったのか。
分からない。
その後。
二人で笑った。
さらに。
泣いた。
また笑った。
抱きついた。
そこから。
記憶が。
非常に怪しい。
断片的に。
覚えている。
自分の声。
リーゼの声。
二人して。
ものすごく。
馬鹿みたいな声を上げていた。
「お゙ほぉぉぉぉっ!」
どちらが。
先だったのか。
分からない。
たぶん。
両方。
少なくとも。
例のマンゴーを笑えないくらい。
二人とも。
大騒ぎした。
そして。
寝具を交換しなければならない程度には。
いろいろ。
ひどいことになった。
◇
そして。
今。
朝。
スージーは。
目を開けていた。
天井。
リーゼの部屋。
隣。
人肌。
自分。
裸。
相手も。
裸。
「……」
スージーは。
しばらく。
動かなかった。
頭が痛い。
酒。
間違いなく。
酒。
そして。
右腕。
重い。
腕枕。
している。
誰に。
ゆっくり。
見る。
短い金髪。
閉じた目。
寝息。
リーゼロッテ・ヴァイス。
帝国航空隊大尉。
スージーの腕を枕にして。
寝ている。
「……大尉」
小声。
反応なし。
スージーは天井へ視線を戻した。
昨日。
自棄酒。
部屋。
抱きつく。
泣く。
笑う。
脱ぐ。
その後。
「お゙ほぉぉぉぉっ!」
記憶。
戻る。
スージーは。
目を閉じた。
「……やったわ」
横。
リーゼが。
少し動いた。
寝ぼけた声。
「……マンゴー……」
スージーが見る。
リーゼはまだ寝ている。
「……燃やす……」
スージーは。
思わず。
笑った。
そして。
空いている手で。
リーゼの頭を。
そっと。
撫でた。
いつも。
やっているように。
「はいはい」
撫でる。
「今日は休もうね、大尉」
リーゼが。
寝たまま。
少しだけ。
スージーの方へ寄った。
スージーは。
自分の腕の中にいるリーゼを見る。
気づけば。
いつも一緒にいた。
背中をさすった。
頭を撫でた。
愚痴を聞いた。
隣で寝た。
支えようと思った。
そこまでは。
覚えている。
ただ。
どこから。
全裸で腕枕するところまで来たのか。
それだけが。
分からない。
スージーは。
天井を見た。
「……昨日の私たち」
少し考える。
「新種マンゴーより、うるさかったんじゃない?」
腕の中。
リーゼが。
寝ぼけたまま。
「……お゙ほー……」
スージーは。
とうとう。
吹き出した。
「大尉」
頭を撫でる。
「それだけは、やめようね」
朝。
まだ。
リーゼは。
大尉ではなかった。
ただ。
スージーの腕の中で眠っている。
疲れた女だった。
たぶん。
起きて。
昨夜のことを思い出して。
ひとしきり叫んで。
それから制服を着れば。
また。
大尉になる。
スージーは。
それまでは。
このままでいいと思った。




