第百五十五話 二本の普通の木
大尉は、庭に畑を作った。
畑、と呼ぶにはあまりにも小さかった。
館の周囲には、もっと広い畑がある。水路も通り、作物ごとに区画が分けられ、収穫量まで記録されている。谷底の異常な成長速度へ対応するため、植える量まで管理している、本来ならそちらがリーゼの好む合理的な農地だった。
だが、大尉が自分で作った畑は違った。
館の壁際。
日当たりのいい場所。
ほんの小さな四角形。
そこへ土を入れ、周囲を低い柵で囲い、二本だけ植えた。
普通のバナナ。
普通のマンゴー。
それだけだった。
ティセラが最初に見た時、少し不思議そうに聞いた。
「二本だけですか?」
「二本だけだ」
「空いている場所がありますが」
「植えない」
「混植するなら、他にも――」
「植えない!」
リーゼは妙に強く答えた。
「ここにはバナナとマンゴーしか植えん!」
ティセラは眼鏡を直した。
「理由を聞いても?」
リーゼは二本の木を見る。
普通の葉。
普通の幹。
普通の果実。
鳴かない。
震えない。
オホ声を出さない。
何かを咥えない。
何かに刺さらない。
陰毛状植物繊維もない。
ブルーチーズも生えない。
白い果汁の池も作らない。
ただ。
果物が生る。
「……安全保障上の理由だ」
「果樹二本が?」
「小官の精神に対する安全保障だ」
ティセラは何も言わなかった。
少し考えた後。
「分かりました」
珍しく。
追及しなかった。
◇
それから。
大尉は、ときどき小さな畑へ行くようになった。
朝。
仕事を始める前。
昼。
地図を描き直している途中。
夕方。
一日の作業が終わった後。
そして。
谷底が。
また何かをやらかした日。
特に。
そういう日に。
◇
「大尉ー!」
遠くからルヴァナの声。
「温泉卵の木、また産んだー!」
リーゼの筆が止まる。
「産んだと言うな!」
遠く。
「ぃ゙ぐぅ゙っー!」
リーゼ。
「自然落果だああああっ!」
数時間後。
小さな畑。
バナナの木の前。
リーゼが座っている。
「……お前は偉いな」
バナナ。
何も言わない。
「そうだ。それでいい」
葉。
さらさら。
「鳴くなよ」
鳴かない。
「絶対に鳴くなよ」
鳴かない。
リーゼは。
少し元気になった。
◇
別の日。
「教授!」
「はい」
「何故、切った竹から白い液が出る!」
「貯蔵液と思われます」
「何故イカ臭い!」
「成分分析中です」
竹林。
「ん゛お゙ぉ゙ぉ゙……っ!」
リーゼ。
「しかも鳴るなああああっ!」
その日の夕方。
マンゴーの木の下。
大尉は幹へ背中を預けていた。
「お前も偉い」
マンゴー。
普通。
「熟れても普通」
普通。
「若くても普通」
普通。
「他のマンゴーがどうなっても、お前だけは変わるな」
風が吹く。
葉が揺れる。
それだけ。
リーゼは目を閉じた。
「……優しい」
通りかかったスージーは。
少し離れたところで。
猫耳を伏せた。
笑わなかった。
◇
また別の日。
陸生アワビが炭火の上で。
「んお゙ぉ゙……っ!」
と鳴いた。
内部の水分が。
ぴゅっ。
と飛んだ。
ルヴァナが。
「潮吹いた!」
ティセラが。
「加熱による内部圧上昇に伴う体内水分の排出です」
リーゼが。
「言い方を変えても起きてることは同じだああああっ!」
と叫んだ。
その夜。
小さな畑。
リーゼはバナナを見上げていた。
「お前は炭火に載せても変な声を出さないな?」
少し考える。
「いや、載せないぞ。安心しろ」
バナナ。
普通。
「小官もそんな非道なことはしない」
スージーが後ろから言った。
「植物相手だとすごく優しいのね」
リーゼが飛び上がった。
「いつからいた!」
「『安心しろ』の辺り」
「忘れろ!」
「はいはい」
◇
スージーは。
そのうち。
大尉がここへ来る時の違いが分かるようになった。
少し疲れた日なら。
立ったまま木を見る。
かなり疲れた日なら。
柵へ腰を下ろす。
本当に駄目な日なら。
二本の木の間。
土の上。
膝を抱えて座っている。
そういう時。
スージーは急かさなかった。
「大尉」
「……何だ」
「迎えに来た」
「まだ帰らん」
「うん」
「小官は忙しい」
「そうね」
「この二本の監視が必要だ」
スージーは普通のバナナを見る。
普通。
普通のマンゴーを見る。
普通。
「異常なし」
「小官自身が確認する」
「じゃあ、隣にいる」
そう言って。
座る。
それだけ。
◇
ある日は。
かなりひどかった。
朝から、鶏の木の幼木が増えていた。
昼には、熟れた女魚の刺身について全員が「熟れてる」としか言えなくなった。
午後には、白濁石油を燃やした火から。
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙……っ!」
と聞こえた。
夕方には例の新種マンゴーの森から。
「お゙ほー……」
「んお゙ぉ゙ぉ゙……!」
「いたいぃぃ……!」
「ゆるしてぇぇ……!」
と。
四方向から聞こえた。
リーゼは。
叫ばなかった。
それが。
むしろ危なかった。
黙って仕事を終えると。
小さな畑へ行った。
そして。
二本の木の間で。
膝を抱えた。
スージーが来た時。
大尉は。
俯いたままだった。
「大尉」
返事なし。
「リーゼ」
少しして。
「……何だ」
声が弱い。
スージーは隣へ座った。
「今日は多かったね」
「……四方向だった」
「うん」
「昨日は三方向だった」
「増えてたね」
リーゼの肩が。
少し震えた。
「小官は言ったんだ」
「何を?」
「森がオホ声に呑み込まれると」
「言ってた」
「本当に呑み込まれ始めている」
スージーは否定しなかった。
「明日、教授と分布を確認しよ」
「教授は残す」
「食べられるからね」
「エヴァも残す」
「酒に合いそうだからね」
「みんな残す」
「管理はすると思うけど」
リーゼは。
膝へ顔を埋めた。
「小官しか危機感を持っていない……」
「そんなことないよ」
「ある」
「ないって」
「ある!」
少しだけ。
声が大きくなった。
だが。
すぐに。
小さくなる。
「……もう嫌だ」
スージーの表情が変わった。
今度は。
何も茶化さなかった。
ただ。
リーゼの背中へ。
そっと手を置いた。
ゆっくり。
撫でる。
何度も。
「うん」
リーゼは。
俯いたまま。
「普通のものを見つけたと思ったんだ」
「うん」
「マンゴーだったから」
「そうだね」
「小官は余裕だったんだ」
「多少なら許せる大人だって言ってたね」
「……言った」
「全然許せなかったね」
リーゼの肩が。
少しだけ揺れた。
「……あれは多少ではない」
「それはそう」
ほんの少し。
リーゼが笑った。
でも。
次の瞬間。
遠くから。
「お゙ほー……」
びくっ。
リーゼの身体が震えた。
スージーは何も言わず。
背中を撫で続けた。
「大丈夫」
リーゼが。
スージーを見る。
そして。
とうとう。
堪えていたものが切れた。
「スージー……」
「うん」
抱きついた。
ぎゅっと。
大尉ではなく。
ただの。
疲れた女として。
「小官は普通の果物が欲しかっただけなんだ……!」
「うん」
「バナナみたいな!」
「うん」
「マンゴーみたいな!」
「うん」
「皮剥いたら食えるやつ!」
「うん」
「鳴かないやつ!」
「うん」
「尻に刺さらないやつ!」
「それ大事だね」
「ブルーチーズ生えてないやつ!」
「普通は生えてないね」
「おほーって言わないやつ!」
「この二本は言わないよ」
リーゼは。
泣いた。
声を上げるほどではない。
でも。
スージーの肩へ顔を押しつけ。
少しだけ。
ぼろぼろ。
泣いた。
スージーは。
何も笑わなかった。
片手で背中を撫で。
もう片方の手で。
リーゼの頭を撫でた。
短い金髪を。
ゆっくり。
何度も。
「よしよし」
「子供扱いするな……」
「じゃあ、やめる?」
「……やめるな」
「はいはい」
撫でる。
「大尉、毎日頑張ってるからね」
「……当然だ」
「地図も直すし」
「小官の仕事だ」
「水路も見るし」
「必要だからな」
「変な木が増えたら調べるし」
リーゼの肩が。
びくっ。
「その話はいまやめろ」
「ごめん」
また。
頭を撫でる。
バナナの葉が揺れる。
さらさら。
マンゴーの葉も揺れる。
さらさら。
それだけだった。
鳴かない。
呻かない。
果汁を飛ばさない。
ただ。
風に揺れる。
リーゼは。
しばらく。
スージーに抱きついたままだった。
◇
十分ほどして。
リーゼが離れた。
目元を拭う。
鼻をすすった。
深呼吸。
一回。
二回。
そして。
立ち上がった。
スージーも立つ。
リーゼは制服の裾を払った。
髪を整える。
姿勢を正す。
肩を開く。
顔。
戻る。
「……よし」
スージーが笑う。
「復活?」
リーゼは。
もう。
大尉だった。
「明朝、例の新種マンゴーの分布調査を行う」
「うん」
「基準点を置く。確認株数、幼株、根系、発声範囲、周辺植生への影響を記録」
「うん」
「教授には菌体の拡散範囲も確認させる」
「了解」
「果汁池は衛生上放置できん。排水経路も調べる」
「大尉らしくなった」
リーゼは胸を張った。
「当然だ。小官は帝国航空隊大尉だぞ」
スージーが頷く。
「知ってる」
リーゼは二本の木を見る。
普通のバナナ。
普通のマンゴー。
少しだけ。
目が柔らかくなる。
「……ただし」
「何?」
「ここだけは」
小さな畑を見る。
「絶対に普通のまま維持する」
スージーが笑った。
「賛成」
リーゼは頷く。
「異常植物持ち込み禁止」
「はい」
「発声植物禁止」
「はい」
「共生菌も禁止」
「はい」
「オホ声は半径五十歩以内禁止」
「それは音だから難しくない?」
リーゼの眉が跳ねた。
遠く。
「お゙ほー……」
大尉。
びくっ。
スージーが即座に背中を撫でる。
「はいはい。聞こえない」
リーゼは。
数秒。
固まった。
それから。
咳払い。
姿勢を正した。
「……明朝、まず音源位置の測定を追加する」
スージーが笑った。
「大尉に戻った」
「ああ」
リーゼは。
小さな畑から。
館へ歩き始めた。
五歩。
止まる。
振り返る。
普通の二本。
「……明日も普通でいろよ」
バナナ。
さらさら。
マンゴー。
さらさら。
返事はない。
それが。
リーゼには。
何より優しかった。




