第百五十四話 優しい果物
「新しいマンゴーが見つかりました」
ティセラからそう報告を受けた時、リーゼは驚くどころか、椅子へ深く座り直して余裕の笑みまで浮かべた。
「そうか。マンゴーか」
「はい。ただし、先日確認したものとは別種と思われます」
「別種でもマンゴーなんだろ?」
「マンゴー様植物ではあります」
「なら大丈夫だ」
あまりにも即答だったので、スージーの猫耳がぴくりと動いた。
「大尉が新種植物を聞いて『大丈夫』って言った」
「何だ、その言い方は。小官だって成長する」
少し前に見つかったバナナは普通だった。黄色くなれば甘くなり、皮を剥いて食べる。それだけだった。続いて見つかったマンゴーも普通だった。甘くて、柔らかくて、香りがよく、格子状に切って皮を裏返しても痙攣しなかった。
リーゼには、二回分の成功体験があった。
「小官もな、多少なら許せる大人になったんだ」
ルヴァナが首を傾げる。
「多少って?」
リーゼは指を一本立てた。
「熟れた熟女がうまい」
もう一本。
「若い青い実がうまい」
さらに一本。
「男根的なやつへひっつく」
四本目。
「男根的なやつ同士の間で何かがオホ声を上げる」
ルヴァナが吹き出した。
「多少じゃない!」
「まだある。日常的に潮を吹く、失禁する、白濁液を出す、イカ臭い。その程度ならもう受け入れる」
「受け入れちゃった!」
「次は尻の穴のやつだろ。知ってる。小官はもう大丈夫だ」
スージーが笑いを堪えながら聞いた。
「何が大丈夫なのよ」
「どうせチーズみたいな発酵食品もついてる。しかも極上のブルーチーズで酒に合う。皮を剥いてひっくり返す時には、びくびく痙攣する。全部分かっている」
ティセラが真顔で言う。
「一つも確認されていません」
「だから余裕なんだ!」
リーゼは胸を張った。
「未知ではない。想定済みだ。小官は多少の異常なら笑って許せる大人になった!」
スージーは猫耳を寝かせながら呟いた。
「その台詞、絶対あとで回収されるやつよね」
◇
現地へ近づいた時、最初に来たのは臭いだった。
スージーの猫耳が一瞬で後ろへ倒れ、シズクが袖で鼻を覆い、ルヴァナが「うわっ」と声を上げた。発酵臭、汗、魚介、青黴チーズ、湿った植物汁、何かの脂、それら全部を混ぜて寝具へ染み込ませ、男女が四日ほど使い続けて一度も洗わなかったような、できれば一生言語化したくない臭いだった。
リーゼは鼻を押さえながらも笑った。
「はは。臭いか。想定内だ」
スージーが聞く。
「本当に?」
「小官は多少なら許せる大人だと言っただろう」
そして木が見えた。
リーゼの笑顔が止まった。
果実の形状が、最初から全力だった。
雄型は、男の腰から腿までを植物で再現したような形をしており、その中央から不穏な突出部が伸びている。雌型は女の腰から腿を思わせる形で、中央には裂け目状の構造がある。
しかも、熟れた雌型の周囲には黒く縮れた植物繊維が密生していた。
リーゼが呟いた。
「……陰毛」
スージーが頷く。
「陰毛状植物繊維ね」
「言い換えても陰毛だろ」
その熟れた雌型が、若い雄型へ絡みついていた。
「んお゙ぉ゙ぉ゙……!」
リーゼの眉が動く。
「鳴いた」
別の枝では、熟れた雄型が若く無毛な雌型へ絡みつき、枝ごと激しく揺れていた。
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙っ!」
リーゼはまだ耐えた。
「……想定内」
ルヴァナが笑う。
「顔ひきつってるよ!」
「多少なら許せる大人だ!」
そして雌型の表面を見る。
青。
白。
緑。
灰。
大量の菌体。
ティセラが採取棒を伸ばし、遠目から確認した。
「青黴系に近いですね。発酵食品様物質である可能性があります」
リーゼの目が細くなる。
「……ブルーチーズ?」
ノアも少し観察する。
「見た目と匂いだけなら、それっぽいね」
リーゼの口元が。
ゆっくり。
上がった。
「ふっ」
スージーが警戒した。
「大尉?」
「ふふっ」
「その笑い方やめて」
リーゼは突然、両手を広げた。
「きた!」
全員が止まった。
「これだ!」
リーゼが大笑いする。
「あははははははは! ほら! これなんだよ!」
雄型。
「ん゙お゙ぉ゙ぉ゙……!」
雌型。
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙っ!」
リーゼは嬉しそうに木を指差した。
「小官の知ってる谷底だ! やっぱりこうなんだよ! 普通の果物が! 二回続けて見つかったくらいで!
騙されるところだった!! あはっ! あははははは!!!」
ルヴァナが笑う。
「安心する方向がおかしいって!」
◇
当然、それで終わらなかった。
雄型と雄型が、互いの表面を擦り合わせるように揺れている。
「ん゙お゙ぉ゙ぉ゙……!」
少し離れて、雌型と雌型も密着している。
「お゙ほぉ゙ぉ゙……!」
スージーが言った。
「組み合わせが自由すぎる」
ティセラは真面目だった。
「表面菌類の交換や成熟促進の可能性も考えられます」
リーゼが教授を見る。
「研究者って強いな」
さらに奥。
雄型の腰の後ろ側へ、別の雄型がどう見ても不穏な角度で絡みついている。
ぶるぶるぶる。
「ん゙お゙お゙お゙お゙お゙っ!」
野太い男の声。
リーゼが勢いよく指差した。
「きた!」
スージーも分かってしまった。
「大尉が予想してた尻の穴のやつ!」
「ほらああああ!」
その隣。
今度は雌型の後ろへ雄型が絡みつく。
雌型が震えた。
「いたいぃぃ……!」
全員が止まる。
続いて。
「ゆるしてぇぇ……!」
リーゼの笑顔が消えた。
「……喋るな」
「いたいよぉぉ……!」
リーゼ。
「やめろ」
「ゆるしてぇぇ……!」
「植物が被害者みたいな台詞を吐くな!」
そして。
ぴゅっ。
白い果汁。
別の枝。
どばっ。
黄色い果汁。
さらに白。
黄色。
透明。
そこら中から果汁が飛び、幹を伝い、地面の窪みへ集まり始めた。
リーゼは下を見た。
池。
白と黄色と透明の粘った液体が混じり合った、小さな池。
風が吹く。
あの臭い。
さらに濃い。
リーゼはしばらく全部を見ていた。
陰毛状繊維。
ブルーチーズ。
男型。
女型。
雄型同士。
雌型同士。
尻。
野太い声。
「いたい」。
「ゆるして」。
オホ声。
白い汁。
黄色い汁。
果汁池。
洗っていない寝具臭。
そして。
笑った。
「あは」
スージーが後ろへ下がる。
「大尉?」
「あははははははははは!」
リーゼは両手を広げた。
「きた! これだ! これなんだよ! ほら! これだよ!」
雄型。
「ん゙お゙お゙お゙っ!」
雌型。
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙っ!」
リーゼ。
「あはははははは!」
そして。
唐突に。
真顔。
「……消そう」
◇
数分後。
リーゼは斧を持っていた。
反対の手には松明。
スージーが叫んだ。
「どこから持ってきたの!」
「多少なら許せる大人にも限界はある!」
「限界突破するの早い!」
リーゼは木へ向かって突進した。
「燃やすしかない!」
ティセラが前へ立つ。
「待ってください!」
「この森はもう駄目だ!」
「まだ森になっていません!」
「手遅れになると!」
リーゼは松明を掲げた。
「森はオホ声に呑み込まれてしまう!!!」
ノアが松明を持つ腕へ飛びつく。
「森を燃やしたら他の木まで燃えるよ!」
「では斧!」
エヴァが斧の腕を掴む。
「切らせねえ!」
「止めるなー!」
アスラが腰を押さえる。
クロエが松明を奪う。
ルヴァナまで後ろからしがみつく。
リーゼは五人がかりで止められながら暴れた。
「ヤツを! ヤツをこの世から消すんだー!」
雄型。
「ん゙お゙ぉ゙……!」
「汚物を消毒するんだー!」
ティセラ。
「植物です!」
「血の汚濁を治療するんだー!」
ノア。
「植物に血はないよ!」
「比喩だー!」
さらに暴れる。
「質的変質を淘汰するんだー!!」
ティセラ。
「意味が曖昧です!」
「ならば劣等遺伝子を駆逐するんだー!!!」
ティセラの眼鏡が光った。
「大尉。何をもって優等、劣等とするのですか」
「見ろ!」
「見ています」
「臭い!」
「確認しました」
「形!」
「形態です」
「音!」
「発声構造です」
「果汁!」
「高糖度です」
「高くなるな!」
「菌体も食用資源として有望です」
「ブルーチーズになるな!」
「繁殖も旺盛です」
「旺盛になるな!」
「つまり、生物としてはかなり成功している可能性があります」
リーゼが止まった。
「……成功?」
「はい」
雄型。
「ん゙お゙お゙お゙っ!」
雌型。
「いたいぃぃ……ゆるしてぇぇ……!」
白い汁。
ぴゅっ。
黄色い汁。
どばっ。
ティセラ。
「非常に活発です」
リーゼの顔から力が抜けた。
「……世界が間違っている」
スージーが肩を叩く。
「大尉」
「小官ではなかった。自然の方が狂っていたんだ……」
ティセラが呟く。
「生存戦略でしょうか」
リーゼが復活した。
「斧を返せえええええっ!」
◇
武器を取り上げられても、リーゼは諦めなかった。
木へ指を突きつける。
「小官は谷底救済のために必要なことならば、いかなることでも行う権力を手に入れたのだ!」
スージー。
「いつ!?」
「今!」
「誰から!?」
「小官から!」
「独裁よ!」
「非常時だ!」
「誰が非常事態宣言したの!」
「小官!」
「全部自分じゃない!」
リーゼは聞いていない。
「我が宿敵!」
スージー。
「今日会ったばかり!」
「我が怨敵!」
「恨みが育つの早い!」
「いま!」
雄型。
「ん゙お゙……」
「ここで!」
雌型。
「お゙ほぉ゙……」
「ヤツを倒さなければ、小官は!」
一瞬。
声が詰まる。
「小官は……!」
木の奥。
「お゙ほー……」
全員が止まった。
リーゼも止まった。
もう一度。
「お゙ほー……」
リーゼのこめかみが。
ぴくっ。
「……いま、笑ったな?」
ティセラが答える。
「空気が内部空洞を通過した音と思われます」
「小官を笑ったなあああああっ!」
「違います!」
果実。
「お゙ほー」
リーゼが爆発した。
「ちくしょー! きさまー!」
エヴァが押さえる。
「暴れるな!」
「吐いた唾は飲めんぞー!」
スージーが叫ぶ。
「何を吐いたのよ!」
「小官はヤツを倒すと言った!」
「勝手に言っただけ!」
「言った以上はやる!」
「植物相手に意地になるな!」
「やってやる!」
全員。
「駄目!」
「やってやるぞー!」
ルヴァナ。
「武器ないよ!」
「素手でやる!」
「木だよ!」
「殴れば折れる!」
「大尉の手が先に折れるって!」
果実。
「お゙ほー……」
リーゼ。
「また笑ったあああああっ!」
◇
その日の夜。
リーゼが消えた。
食堂にもいない。
記録室にもいない。
自室にもいない。
スージーとシズクが探し回り、ようやく見つけたのは、館の隅にある普段使われていない小部屋だった。
灯りは点いていない。
真っ暗。
その隅。
リーゼが膝を抱えて座っていた。
帝国航空隊大尉。
地図を作り。
機械を組み。
物流を整理し。
巨大生物にも対処し。
谷底で何が起きても最終的には叫びながら仕事をしてきた女が。
壁際で。
小さくなっている。
スージーの猫耳が少し下がった。
「大尉」
「……何だ」
「ご飯食べよ」
「いらん」
「マンゴーあるよ」
リーゼの肩が。
びくっ!
「新種ではないな!?」
「普通の方」
「本当に?」
シズクが皿を差し出す。
「普通のマンゴーと、普通のバナナです」
リーゼが。
膝の間から。
ゆっくり顔を出す。
皿。
黄色いバナナ。
橙色のマンゴー。
普通。
リーゼは警戒する。
「鳴かない?」
「鳴きません」
「オホ声」
「出ません」
「陰毛」
「ありません」
「尻」
「ありません」
「ブルーチーズ」
「ありません」
「雄型同士は?」
「ただの果物です」
「雌型同士」
「ありません」
「白い汁」
「ありません」
「黄色い汁」
スージーが答える。
「マンゴーだから普通の果汁は黄色いけどね」
リーゼの肩が。
びくっ!
「吹く!?」
「吹かない!」
「池を作る!?」
「作らない!」
「痛いって言う!?」
「言わない!」
「許してって!?」
「言わない!」
リーゼは。
しばらく。
二人と皿を交互に見た。
スージーがマンゴーを一切れ差し出す。
「普通のマンゴー食べよ」
シズクもバナナを差し出す。
「バナナもありますよ」
リーゼは。
恐る恐る。
マンゴーを受け取った。
食べる。
甘い。
柔らかい。
普通。
肩の力が少し抜けた。
次。
バナナ。
甘い。
普通。
リーゼが呟く。
「……マンゴーだ」
スージーが頷く。
「マンゴーね」
「……バナナだ」
「バナナですね」
リーゼはもう一切れ食べた。
「普通だ」
「普通よ」
「……優しい」
スージーが少し笑う。
「果物に優しさを感じるようになったのね」
リーゼは膝を抱えたまま。
普通のマンゴーを食べた。
次に普通のバナナ。
暗い部屋。
静か。
甘い。
何も鳴かない。
何も吹かない。
何も絡まない。
何も発酵していない。
リーゼがぽつりと言った。
「小官はな」
「うん」
「多少なら許せる大人になったつもりだった」
スージーが頷く。
「なってなかったね」
「……ああ」
少し間。
リーゼはバナナをもう一切れ取った。
「普通って、大切なものだな」
その時。
はるか遠く。
森の方から。
「お゙ほー……」
リーゼ。
びくっ!
スージーが即座にマンゴーを口元へ差し出した。
「聞こえない」
シズクもバナナを差し出す。
「聞こえません」
リーゼは。
震えながら二人を見る。
そして。
マンゴーを食べた。
「……聞こえない」
もう一度。
遠く。
「お゙ほぉぉぉぉ……!」
びくっ!
「聞こえない!」
今度はリーゼ自身が叫んだ。
バナナを食べる。
「普通!」
マンゴーを食べる。
「普通!」
さらに遠く。
「ん゙お゙ぉ゙ぉ゙……!」
リーゼは膝を抱えたまま、両耳を塞いだ。
「普通のマンゴーとバナナは優しい……!」
スージーが背中を叩く。
「今日はそれだけ覚えて寝よ」
シズクも頷いた。
「明日のことは、明日考えましょう」
リーゼは小さく頷いた。
「……そうする」
少しして。
さらに小さな声。
「斧は?」
スージー。
「駄目」
「松明」
「もっと駄目」
「……そうか」
リーゼは諦めた。
暗い部屋の隅で膝を抱えながら。
普通のバナナと。
普通のマンゴーを。
一切れずつ。
大事そうに食べ続けた。
その夜。
普通の果物だけが。
リーゼに優しかった。




