第百四十三話 熟れた女魚の刺身と、焼いた若い男魚は美味い!
川の魚がおかしい。
もっと正確に言えば、以前から谷底の魚は十分おかしかったのだが、最近観察するようになった一種は、繁殖から食味まで妙に筋が通っているくせに、その筋の通り方そのものがおかしかった。
最初に目についたのは、一匹の大きな雌だった。
本来なら川を下り、やがて滝壺の方へ向かう種類らしい。少なくとも、これまでリーゼたちが見てきた同種らしき魚は、一定の時期になると下流へ姿を消していた。
ところが、その雌だけは川へ残った。
しかも一匹ではない。
その周囲を、小さな稚魚が何十匹も泳いでいる。
シズクが川岸へしゃがみ込んだ。
「子供を守っているのでしょうか」
ティセラも水面を見つめる。
「そのように見えますね」
稚魚が流れへ持っていかれそうになると、大きな雌が身体を横へ入れて流れを弱める。
別の魚が近づけば、追い払う。
大きな影が水面を横切れば、稚魚を浅瀬へ追い込む。
リーゼも腕を組んだ。
「育児をする魚か」
「珍しくはありますが、それ自体は理解できます」
ティセラが答える。
そこで終われば、普通に興味深い生態だった。
終わらなかった。
◇
稚魚が大きくなっても、母魚は川から離れなかった。
小魚。
若魚。
さらに身体が大きくなり、雌雄の違いも分かるようになる。
それでも。
母魚は残る。
そして外から雄が来た。
追い払う。
別の雄。
追い払う。
また雄。
これも追い払う。
ところが。
ある若い雄だけ。
母魚は追い払わなかった。
スージーの猫耳が動いた。
「今のだけ通した」
「はい」
ティセラが記録する。
「何が違うのでしょう」
観察は続いた。
やがて、かなり奇妙な傾向が見えてきた。
繁殖経験があるらしい雄。
追い払う。
別の繁殖経験済みの雄。
追い払う。
まだ交尾経験のない若い雄。
通す。
そして一度繁殖行動を終えた雄が再び群れへ戻ろうとすると。
母魚が追い払う。
リーゼは長いこと川を見つめていた。
「……初めての雄しか入れないのか」
ティセラが頷く。
「少なくとも、現在までの観察ではそう見えます」
「どうやって見分けている」
「分かりません。臭気、体表成分、行動、あるいは複数の要因が考えられます」
スージーが若魚を見る。
「それに、子供が小さいうちは雄を全部追い払ってた」
「はい」
「大きくなってから、初めての雄だけ通し始めた」
「はい」
リーゼの表情が険しくなる。
「まさか」
ティセラが答えた。
「若魚が繁殖可能になるのを待っている可能性があります」
沈黙。
川の中。
母魚。
その周囲を泳ぐ、もう稚魚とは呼びにくい大きさまで育った子供たち。
少し離れた場所には、母魚に追い払われた雄。
さらにその向こうに、これから群れへ近づこうとしている若い雄。
リーゼが額を押さえた。
「育児の範囲を越えていないか」
「繁殖集団の形成まで含めた行動かもしれません」
ティセラが言う。
少し考えてから、さらに付け加えた。
「生存戦略でしょうか」
リーゼの顔が引きつった。
「その言葉で全部片づけるな!」
◇
ところが。
この魚がおかしいのは、生態だけではなかった。
ある日。
群れから少し離れて泳いでいた若魚を、シズクが数匹捕った。
もちろん、母魚が守っている群れを無理に崩したわけではない。周辺へ分散していた個体のうち、十分な数がいることを確認した上での少数採取だった。
安全確認。
寄生虫。
毒。
異常な魔力反応。
問題なし。
最初は普通に焼いた。
シズクが軽く塩を振る。
網へ載せる。
じゅう。
皮から脂が出る。
香ばしい匂い。
その時。
「んっ……!」
全員が止まった。
リーゼが網を見る。
「……今、誰か声を出したか」
誰も答えない。
もう一度。
じゅう。
「ぁ……んっ……!」
スージーの猫耳が立った。
「魚?」
ティセラが真面目に答える。
「魚ですね」
シズクが裏返す。
「んっ……あぁ……っ!」
リーゼが叫んだ。
「何故、焼かれて若い男の声で喘ぐ!」
ティセラは魚を観察する。
「加熱によって内部の空気が押し出され、発声器官に近い構造を通過している可能性があります」
「音が出る理由ではない! 何故その声なのかを聞いている!」
「そこは不明です」
「うがあああっ!」
それでも。
焼き上がった魚は。
美味かった。
非常に。
皮はぱりっと香ばしい。
身は柔らかい。
脂があるのに重くない。
塩を振っただけなのに、旨味が強い。
スージーが食べる。
猫耳が立った。
「これ、かなり美味しい」
エヴァも一口。
「うめえな」
シズクも頷く。
「塩焼きが一番合いそうです」
ティセラは複数の成長段階を比較した。
小さすぎる。
身が薄い。
完全に成熟した雄。
少し身が硬く、脂の質も変わる。
一番美味い。
繁殖可能になる、その少し前。
リーゼが記録を見る。
「つまり」
「はい」
ティセラが答える。
「繁殖可能直前の若い雄が、食味としては最良です」
リーゼは嫌そうな顔をした。
「若い男魚か」
スージーが笑った。
「分かりやすいじゃない」
「分かりやすさが最悪なんだ!」
◇
卵も妙だった。
自然死した雌の腹の中から、成熟途中の卵が見つかったことがある。
安全確認後。
少量を調理。
不味い。
苦い。
えぐい。
妙な生臭さまである。
ところが。
実際に産み落とされた卵。
こちらは。
美味い。
ぷちぷちしている。
旨味が強い。
軽く塩を当ててもいい。
少し漬けてもいい。
リーゼが記録を見比べる。
「同じ卵だろう」
ティセラが答える。
「産卵を境に、内部成分が大きく変化するようです」
「腹の中では不味い」
「はい」
「産んだら美味い」
「はい」
「何故だ」
「生存戦略――」
「言うな!」
◇
そして。
最後に。
熟れた女魚。
育児を終えたらしい大型の雌が一匹、少し下流の浅瀬で自然死しているのをシズクが見つけた。
死後、それほど時間は経っていない。
安全確認。
腐敗。
寄生虫。
毒性。
問題なし。
解体する。
シズクが包丁を入れたところで、手を止めた。
「……身が違います」
リーゼが聞く。
「若い男魚と?」
「はい」
切り身を見る。
若い魚の身は、瑞々しく締まっている。
こちらは。
違う。
柔らかい。
だが、崩れてはいない。
包丁へ少しまとわりつくような粘りがある。
表面は艶めいている。
スージーが覗き込む。
「ねっとりしてる」
エヴァが言った。
「熟れてるな」
リーゼが振り向く。
「魚にその言葉を使うな」
「でもそう見えるぞ」
ティセラが成分を調べる。
そして。
しばらく黙った。
リーゼが嫌な予感を覚える。
「何だ」
「旨味成分が高いです」
「どの程度」
ティセラは記録を見る。
「かなり」
「それでは分からん」
「では訂正します」
教授は少し考えた。
「異常に高いです」
リーゼが止まった。
「異常?」
「複数の旨味に関係する成分が、若魚とは比較にならないほど高濃度です」
スージーが聞く。
「何で?」
「分かりません」
「また?」
「ただ、産卵と育児を終えた後に、身の組成そのものが大きく変わっている可能性があります」
エヴァが切り身を見る。
「だから熟れてんだろ」
リーゼは反論しようとした。
だが。
他に適切な言葉が浮かばなかった。
◇
まず。
焼いた。
美味い。
煮た。
美味い。
汁まで恐ろしく美味い。
表面だけ炙った。
これも美味い。
だが。
シズクが言った。
「生で試します」
薄く切る。
刺身。
淡い色。
わずかな艶。
何もつけず。
まず一切れ。
シズクが食べた。
止まった。
リーゼが見る。
「どうした」
返事がない。
シズクはもう一切れ取った。
エヴァが笑う。
「そんなにか?」
自分も食べる。
止まる。
「……」
スージーも。
「何よ」
一切れ。
猫耳が。
ぴん。
と立った。
そのまま。
動かなくなった。
「……何これ」
ノアも食べる。
黙る。
ティセラまで。
一切れ。
そして。
二切れ目。
リーゼが叫んだ。
「全員、説明しろ!」
誰も答えない。
エヴァがようやく言った。
「……熟れてる」
スージーも。
「うん」
シズクも。
「熟れています」
リーゼが苛立つ。
「それは味の説明になっていない!」
そこで。
自分も食べた。
一切れ。
口へ入れる。
そして。
リーゼも。
黙った。
◇
ねっとりしている。
だが。
粘つくのとは違う。
舌へ乗った瞬間から。
味がある。
噛む。
旨味。
さらに。
旨味。
その奥から脂。
甘み。
また旨味。
どれか一つではない。
全部が重なる。
濃い。
とにかく濃い。
だが。
嫌なしつこさがない。
飲み込む。
まだ終わらない。
舌。
口の奥。
鼻へ抜ける香り。
喉。
余韻が。
残る。
魚である。
間違いなく魚。
だが。
「脂が乗っている」
では足りない。
「旨味が強い」
でも足りない。
「甘い」
でもない。
「濃厚」
それだけでもない。
全部が。
長い時間をかけて。
最後のところまで。
回りきったような味。
リーゼは。
もう一切れ取った。
スージーが見る。
「大尉」
「……何だ」
「二切れ目」
「黙れ」
さらに。
三切れ目。
スージーが笑った。
リーゼが刺身を睨む。
「何なんだ、これは」
ティセラが答える。
「熟している、としか」
「教授まで!」
エヴァが頷く。
「熟れてる」
シズクも。
「はい」
スージーも。
「他の言い方が出てこない」
リーゼは悔しそうに一切れを食べた。
そして。
結局。
「……熟れている」
と。
自分でも言った。
◇
その日の記録。
母魚。
産卵後も川へ残留。
子群を保護。
若魚が繁殖可能になるまで群れを維持する。
外部雄については、交尾経験のない若い雄のみ接近を許す傾向。
一度繁殖した雄は排除。
産み落とした後の卵。
食味良好。
腹腔内では食味不良。
若い男魚。
繁殖可能直前。
塩焼きが最良。
加熱中。
若い男性の高音域に類似した特徴的な発声あり。
そして。
熟れた女魚。
産卵、育児を終えた成熟大型雌。
身質。
ねっとり。
旨味関連成分。
異常高濃度。
最適調理。
刺身。
食味。
ティセラの筆が止まった。
リーゼが言う。
「極めて良好でいいだろう」
ティセラは首を横に振った。
「それでは足りません」
「教授が食味記録で諦めるな」
「では大尉なら、どう書きます?」
リーゼは記録板を見る。
刺身を見る。
一切れ食べる。
考える。
もう一切れ。
考える。
そして。
諦めた。
ティセラが記録へ書く。
『食味――熟しているとしか言い表しようのない旨さ』
リーゼは。
今度は。
訂正しなかった。
川では。
母魚が今日も若魚の周囲を泳いでいる。
少し離れたところには、追い払われた雄。
さらにその向こうには、まだ群れへ入ることを許されていない若い雄。
リーゼは水面を見ながら言った。
「教授」
「はい」
「絶対に生存戦略と言うな」
ティセラは少し考えた。
「では、繁殖戦略でしょうか」
「うがああああああっ!」




