第百四十一話 白濁
異変に最初に気づいたのは、リーゼだった。
館から少し離れた場所には、生活用の系統とは別に、試験用として設置した水槌ポンプが一基ある。予備設備として水路を分けてあるため、仮に何か起きても飲料水や調理用水には影響しない。
その判断は正しかった。
問題は、設置した本人たちが想定していなかった方向からやってきた。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
リーゼは歩みを止めた。
いつもの水槌ポンプなら、聞こえるのは乾いた衝撃音だけだ。
ばん。
少し間を置いて。
ばん。
水流の力で弁が閉まり、その衝撃で水を持ち上げる。ただそれだけの、実に分かりやすい機械音である。
だが、試験用の一基から聞こえているのは違った。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
何かが内部を通っている。
しかも水ではない。
液体なのは間違いないが、明らかに粘性が高い。細い管の中を、重い何かが無理やり押し進められているような、湿って粘ついた音が混じっている。
リーゼは眉間に皺を寄せた。
「……嫌な予感しかしない」
近づく。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
そして吐出口。
本来なら、一定量ずつ水が送られてくる場所から。
「ゴボッ」
白い液体が出た。
「ゴボゴボッ」
続けて溢れる。
リーゼは固まった。
水ではない。
白く濁っている。
しかも、さらさらではない。吐出口の縁へまとわりつきながら、重そうに垂れていく。
表面には油膜のような光沢まであった。
そして次の瞬間。
風が吹いた。
臭いが来た。
「くさっ!」
リーゼは反射的に数歩下がった。
油臭い。
そう判断するより先に、もっと強烈なものが鼻腔へ突き刺さった。
イカ臭い。
非常にイカ臭い。
生臭い海産物を濃縮したような、鼻の奥へ直接ねじ込まれるような臭いだった。単なる腐敗臭とも違う。妙に鋭く、湿っていて、一度吸い込むと鼻の奥にへばりついて離れない。
しかも白濁している。
粘性も高い。
ゴボゴボと吐き出される。
リーゼは数秒だけ観察した。
そして、落ち着いた声で言った。
「よし、破壊しよう」
「待ってください」
後ろからティセラの声がした。
リーゼが勢いよく振り向く。
教授は既に記録板、手袋、採取器具を持っていた。
「何故いる」
「異音がしましたので」
「なら見ただろう」
リーゼは白濁液を指差した。
「壊す」
ティセラは首を横に振った。
「調べます」
「嫌だ」
「まだ何が起きているか分かりません」
「だから壊すんだ!」
「危険物だった場合、破壊して飛散させる方が危険です」
リーゼは止まった。
もう一度、白濁液を見る。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
「ゴボッ」
また出る。
風が少し変わった。
臭いが来る。
リーゼは顔をしかめた。
「……正論なのが腹立たしい」
「ありがとうございます」
「褒めていない!」
◇
当然、調査班が集まった。
ノア。
ティセラ。
クロエ。
アスラ。
そして、何故かスージーまでいる。
リーゼがスージーを見る。
「貴様は呼んでいないぞ」
「教授が、未知の白濁液体が出たって」
「教授!」
ティセラは平然としている。
「事実です」
「もっと言い方があっただろう!」
スージーは風上に立ち、少し離れたところから吐出口を観察した。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
「ゴボッ」
白濁液が受け容器へ溜まっていく。
スージーの猫耳が少し後ろへ倒れた。
「……何これ」
リーゼが答える。
「小官も知りたい」
「見た目もひどいけど」
スージーが鼻を押さえた。
「臭いがもっとひどい」
ノアも少し離れた場所から頷く。
「油っぽい匂いもあるけど、その前に生臭さが来るね」
スージーが言った。
「生臭いっていうか、ものすごくイカ臭い」
リーゼが強く頷いた。
「それだ!」
ティセラも慎重に臭気を確認する。
一度だけ吸う。
止まる。
眼鏡の奥の目が少し細くなった。
「……かなり強烈ですね」
リーゼが言った。
「教授ですら顔に出たぞ!」
「揮発成分の調査が必要です」
「何故それで研究意欲が増す!」
クロエは冷静だった。
「強い生臭系揮発成分」
リーゼがクロエを見る。
「その冷静な表現と現物の落差が嫌だ」
アスラが言う。
「魔力汚染の可能性は?」
ティセラが首を横に振る。
「まだ調べます」
「近づきすぎるなよ」
「分かっています」
ティセラは長い棒の先へ布片を取り付けた。
スージーがそれを見る。
「やっぱり棒なんだ」
リーゼが言った。
「谷底では棒が最初だ」
「合理的ね」
「そこはもう貴様も理解しただろう」
白濁液へ布を触れさせる。
引き上げる。
白い。
粘る。
容器へ移すと、表面に薄い油膜が浮かんだ。
ノアが言った。
「やっぱり油に近いね」
スージーも覗く。
「水と混ざって白くなってる?」
クロエが解析する。
「単純な乳化ではない」
リーゼが聞く。
「では何だ」
「不明」
「よし、破壊しよう」
ティセラがすぐ言った。
「まだです」
「まだなのか!」
◇
調査は慎重に進められた。
まず毒性。
次に腐食性。
揮発性。
魔力反応。
生物由来の異常反応。
そして引火性。
その途中。
ティセラが採取容器を持ち上げた時、風が変わった。
全員。
同時に顔をしかめた。
「くさっ!」
ルヴァナなら絶対に大声でそう言っただろうと、リーゼは思った。
実際、スージーは言った。
「これ、鼻の奥から消えない!」
「小官はさっきからずっとそうだ!」
ノアも苦笑する。
「服にも付きそうだね」
リーゼが即答した。
「絶対に館へ持ち込むな」
ティセラが言う。
「研究試料は必要です」
「密閉しろ!」
「もちろんです」
「二重にしろ!」
「分かりました」
「三重でもいい!」
調査が進むにつれて。
奇妙な事実が出てきた。
クロエが分析結果を見て言う。
「炭化水素主体」
リーゼが顔を上げる。
「何?」
ノアも反応した。
スージーが先に言う。
「石油?」
クロエが頷く。
「かなり近い」
ティセラが補足する。
「完全に既知の石油と同一ではありません。ただ、性質としては非常に近いです」
リーゼは白濁液を見る。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
「ゴボッ」
白い。
粘る。
イカ臭い。
「……これが?」
ノアが答える。
「見た目だけなら僕も信じたくない」
スージーも頷く。
「私のところの石油もこんな色じゃない」
リーゼが言った。
「小官のところもだ!」
ティセラが容器を見ながら言う。
「白濁の原因はまだ不明です。微細な成分が分散している可能性はありますが、単純な水分混入では説明しきれません」
リーゼが即答した。
「では原因不明の白濁石油だな」
スージーが笑った。
「分かりやすい」
「名前にするなよ!」
◇
さらに調べると。
もう一つ。
非常に厄介な特徴が見つかった。
いや。
性能だけ見れば、非常にありがたい。
この白濁した石油様物質は。
分離が異様に容易だった。
リーゼとスージーが並んで容器を見る。
「こんなに分かれる?」
スージーが聞く。
リーゼも首を傾げた。
「普通はもっと手間が掛かる」
加熱。
静置。
簡単な分離。
それだけでも、かなりはっきりと成分が分かれていく。
重い成分。
中程度。
軽い成分。
さらに揮発しやすい成分。
クロエが順に確認する。
「重油相当」
次。
「軽油相当」
さらに。
「ガソリン相当」
リーゼの目が変わった。
「待て」
ノアも真剣な顔になる。
スージーが言った。
「これ、本当に燃料として使えるなら大きいわよ」
「ああ」
リーゼも否定しない。
谷底では電気利用が始まっている。
小型発電機。
電動機。
送風機。
回転機構。
これまで燃料が必要な機械は避けてきた。
だが。
安定した液体燃料が手に入るなら。
技術の幅が変わる。
クロエが言う。
「分離効率が高い」
ティセラも頷く。
「既知の原油より、かなり簡単な処理で各燃料相当成分へ分けられます」
リーゼは嫌そうな顔をした。
「性能だけ良い」
ノアが苦笑する。
「最近多いね」
「鶏の木もそうだった! あの温泉卵の木もそうだ! 何故、見た目と挙動がひどいものほど実用品として優秀なんだ!」
ティセラが言う。
「では燃焼試験を」
リーゼが指を立てた。
「屋外!」
「はい」
「少量!」
「はい」
「風向き確認!」
「はい」
「消火手段!」
「準備します」
「あと臭い対策!」
スージーが頷く。
「そこ一番重要かも」
「実際重要だ!」
◇
燃焼試験は、館から十分離れた場所で行われた。
周囲の可燃物を除去。
砂。
水。
消火用の布。
距離。
風向き。
全部確認する。
まず。
最も重い成分。
金属皿へほんの少量。
着火。
ぼっ。
普通に火がついた。
リーゼが少しだけ安心した。
「燃えるな」
ティセラが記録する。
「安定しています」
次の瞬間。
炎が揺れた。
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙……」
全員が止まった。
リーゼがゆっくり炎を見る。
「……今のは」
ティセラが答える。
「燃焼音です」
「それは分かっている!」
炎が揺れる。
「んお゙ほぉ゙……っ!」
スージーが口元を押さえた。
「ちょっと待って」
「笑うな」
「無理」
「研究者だろう!」
「考古学者!」
「どちらでもいい!」
クロエは炎を見ている。
「燃焼は安定」
アスラも言う。
「熱量も十分」
ティセラが測定値を記録する。
「煤は多少ありますが、重油相当燃料としては使用可能でしょう」
炎。
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙……っ!」
リーゼが頭を抱えた。
「何故、燃える時までオホ声なんだ!」
誰も答えられなかった。
◇
次。
軽油相当。
着火。
ぼっ。
「お゙ほっ……お゙ほぉ゙ぉ゙っ!」
スージーがとうとうしゃがみ込んだ。
「駄目、これ笑う!」
リーゼが指差す。
「立て!」
「音が悪い!」
「小官もそう思っている!」
ノアも横を向いている。
肩が少し揺れていた。
リーゼが見る。
「貴方も笑っているだろう」
「笑ってないよ」
「肩!」
「咳」
「嘘をつけ!」
次。
ガソリン相当。
さらに少量。
全員、距離を取る。
着火。
ぼっ!
炎が一気に立った。
「ア゙ッ、お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙っ!」
沈黙。
数秒。
リーゼが言った。
「……軽くなると声が高くなるのか?」
ティセラが真面目に答えた。
「現時点の試験では、その傾向があります」
「記録するな!」
「重要な識別特性かもしれません」
「そんな識別方法があってたまるか!」
スージーが笑いながら言う。
「でも火をつければ、どの留分か耳で分かる可能性はあるわね」
リーゼが振り向いた。
「実用化するな!」
クロエが言う。
「聴覚識別は可能」
「貴様まで!」
アスラも炎を見る。
「便利ではある」
「便利だから困っているんだ!」
◇
試験が終わる頃。
風向きが変わった。
遠くの予備水槌ポンプから。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
さらに。
「ゴボッ」
「ゴボゴボッ」
白濁液が溢れている。
風に乗って。
非常に強烈なイカ臭さが流れてきた。
スージーの猫耳が一気に伏せる。
「うわっ、来た!」
ノアも鼻を覆う。
ティセラは記録板を守りながら風上へ移動する。
リーゼは即座に叫んだ。
「全員風上へ!」
全員が移動する。
燃料の方では。
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙……っ!」
と炎が鳴いている。
遠くでは。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
白濁石油。
非常にイカ臭い。
燃やせばオホ声。
リーゼは長い時間、何も言わなかった。
やがて。
「……よし」
ティセラが警戒する。
「何をするのです?」
「破壊しよう」
「しません」
「一回くらい壊させろ!」
◇
最終的な記録には、次のようにまとめられた。
試験用水槌ポンプ系統に原因不明の異常発生。
通常の水に代わり、白濁した高粘度液体を送出。
吐出時。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
という特徴的な異音。
吐出口からは。
「ゴボッ」
「ゴボゴボッ」
と粘性を伴って流出。
液体は強く白濁。
非常に強い臭気を有する。
特に、鼻腔を強烈に刺激するイカ臭さが顕著。
油臭、炭化水素系臭気も確認されるが、生臭さの方が先に知覚される。
臭気は鼻腔内へ長時間残留しやすく、風下での作業は非推奨。
成分は石油に類似する炭化水素系物質。
通常の原油より分離が容易。
比較的簡単な処理で、
重油相当。
軽油相当。
ガソリン相当。
それぞれの燃料成分へ分離可能。
燃焼性能。
良好。
問題。
燃焼時。
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙……っ!」
という特徴的な音を発する。
リーゼは記録を最後まで読んだ。
「教授」
「はい」
「本当に『問題』と書いたのか」
「問題でしょうか」
「問題だ!」
スージーが横から覗き込む。
「臭気のところ、すごく詳しい」
「安全管理上重要ですから」
「『鼻腔内へ長時間残留』」
「事実です」
リーゼが鼻を押さえた。
「まだ残っている!」
ノアも苦笑する。
「僕も少し」
クロエが言う。
「対策として密閉配管化を推奨」
リーゼが振り向いた。
「待て」
アスラも続ける。
「燃料保管庫も離して作った方がよい」
「待て!」
ティセラが言う。
「分留設備も必要になりますね」
「待てと言っている!」
スージーが記録板へ書き込もうとする。
リーゼがその手を止めた。
「何を書く気だ」
「仮称」
「嫌な予感がする」
スージーが笑った。
「白濁石油」
「そのまますぎる!」
「分かりやすいじゃない」
「分かりやすさが最悪なんだ!」
その時。
遠くから。
ぱん。
「んお゙ぉ゙……」
「ヌボボ」
ゴボッ。
ゴボゴボッ。
白濁した石油様液体が、今日も予備水槌ポンプから吐き出される。
風が吹いた。
リーゼが叫ぶ。
「風上へ!」
全員が一斉に移動した。
そして試験皿では。
「お゙ほぉ゙ぉ゙ぉ゙……っ!」
と。
非常に嫌な声を上げながら。
非常に優秀な燃料が。
今日もよく燃えていた。




