第百三十四話 谷底仲間
翌朝、リーゼは滝壺へ向かう一行を前に、昨日作ったばかりの記録板を確認していた。
漂着物を今後どう扱うか。
物置であれだけ議論した結果、方針は単純なところへ落ち着いた。
生活に必要な木材や金属を回収することは止めない。ただし、持ち帰る前に可能な範囲で、発見位置、周囲の状態、同時に流れ着いていた物、文字や特徴を記録する。
今までなら「使える」「使えない」「危険そう」で終わっていた漂着物へ、もう一つ、由来を調べるための記録を加える。
その最初の実地調査だった。
「方位、距離、簡単な見取り図。細かくやりすぎるなよ」
リーゼが言った。
スージーが記録板を受け取る。
「現場で全部精密測量なんてしないわよ。流される前に必要な情報を押さえるだけ」
「話が早い」
「大尉のところと私のところ、その辺はほとんど変わらないみたいね」
「そうらしいな」
二人が頷き合う。
その横で、シズクが一本の長い棒を差し出した。
「スージーさん。こちらを」
スージーが見る。
ただの棒だった。
自分の身長より長い。
先端も特別な形にはなっていない。
「……これは?」
「棒です」
「それは見れば分かるわ」
「漂着物を見る時に使います」
スージーの猫耳が少し動いた。
「何に?」
シズクは穏やかに答えた。
「最初に突きます」
スージーが止まった。
昨日。
滝壺の砂浜。
壊れた箱。
持ち上げようとした瞬間、その下から大量に溢れた黒い虫。
猫耳が横へ寝た。
「……それ、昨日欲しかった」
リーゼが振り向く。
「何かあったのか?」
「箱を拾おうとしたら、下から黒い虫が大量に出た」
シズクが少し驚いた。
「直接触ったのですか?」
「知らなかったのよ!」
「それは危なかったですね」
「今なら分かる!」
シズクは棒を渡した。
「ですので、まず棒です」
スージーは受け取った。
考古学者の道具としては、あまりにも原始的だった。
だが。
「合理的ね」
リーゼが言った。
「納得するのか」
「未知の漂着物へ手を突っ込むよりいいでしょ」
「そこも話が早いな」
ティセラも一本持っている。
スージーが教授を見る。
「教授も?」
「谷底では標準的な安全対策です」
「学術調査用なの?」
「いいえ。生存用です」
「そこまで?」
リーゼが答えた。
「貴様も昨日、虫で学んだだろう」
「それはそうだけど」
一行は滝壺へ向かった。
リーゼ。
スージー。
ティセラ。
シズク。
ネイラ。
今日は回収そのものより、新しい記録方法の試験が目的なので人数は少ない。
エヴァなら大きな漂着物も一人で運べるが、今回はあえて来てもらっていない。
理由は単純だった。
「あいつがいると、調査が終わる前に持ち上げる」
リーゼが言った。
シズクが苦笑する。
「エヴァなら、ありそうですね」
スージーが聞く。
「今までどうしてたの?」
「使えそうなら持って帰っていた」
「……生活としては正しいのよね」
「そうだ」
「考古学者としてつらいだけで」
「諦めろ」
やがて、水の音が大きくなった。
谷底そのものを震わせるような轟音。
白い水煙。
さらに進むと、巨大な滝壺が見えてくる。
スージーは足を止めた。
昨日も見た。
だが。
改めて見ても、やはりおかしい。
黒い岩壁が左右へ延びている。
どこまで続くのか分からない。
上を見れば、岩壁は白い靄の向こうへ消えている。
頂上が見えない。
そして、その一部から。
巨大な滝が落ちている。
川が落ちているというより、空そのものが崩れているように見える。
滝壺も広すぎる。
湖と言うべきか。
海と言うべきか。
対岸は見えない。
スージーはしばらく黙っていた。
リーゼが横へ立つ。
「二度目でもそうなるか」
「なるわよ」
「小官も最初はそうだった」
「大尉の世界壁も大きいんでしょう?」
「大きい。だが、小官が知っている場所にはこんな滝はなかった」
スージーは岩壁を見る。
「私の地図にもない」
「だから現在地不明だ」
「言わないで。昨日から考えないようにしてるんだから」
砂浜へ出る。
流木。
板。
縄。
小さな箱。
割れた容器。
布。
何かの靴。
金属片。
水際へ沿うように、様々な物が打ち上げられている。
スージーの顔が変わった。
考古学者の顔になる。
「これ、今日だけで?」
リーゼが答える。
「昨日から増えたものもあるだろう。全部を監視しているわけではない」
「毎日?」
「量は違うがな」
スージーは周囲を見る。
「これだけ定期的に流れ着くなら、水の向こうにはかなり大きな生活圏がある可能性がある」
リーゼが頷く。
「小官も考えた」
ティセラが言う。
「ただし、一つの生活圏から流れているとは限りません」
スージーもすぐ頷く。
「そうね。材質も技術水準も違いすぎる」
リーゼが少し嬉しそうになる。
「そこだ」
「何?」
「同じことを言ってくれる」
「普通に見ればそうなるでしょ?」
「その普通がありがたいんだ」
まず、基準地点を決める。
リーゼが簡易的な方位と距離を確認し、スージーが見取り図を描く。
水際。
大きな岩。
流木の集積。
漂着物。
シズクとネイラは回収する物へ仮札を付ける。
そして。
最初の箱。
スージーが近づいた。
手を伸ばす。
止まる。
長い棒を見る。
「……棒」
シズクが頷く。
「棒です」
スージーは箱を棒の先で押した。
動かない。
横から突く。
少し動く。
さらに持ち上げるように棒を差し込む。
箱の下から。
ざざざざざっ。
大量の黒い虫が飛び出した。
スージーが三歩下がった。
猫耳が完全に伏せる。
ティセラは冷静に観察している。
シズクが言った。
「このようになります」
スージーは虫が去っていくのを見た。
「昨日のやつ!」
「同じ種類でしょうか」
ティセラが近づこうとする。
リーゼが服の背中を掴んだ。
「教授」
「何でしょう」
「追うな」
「個体を一つだけ――」
「今日は漂着物だ!」
スージーが虫の消えた方向を見る。
「でも種類は気になるわね」
リーゼが今度はスージーを見る。
「貴様まで行くな」
「行かないわよ」
「本当だな?」
「記録だけ」
スージーは紙の隅へ書き込む。
箱の下に黒色小型節足生物多数。
箱移動時に散開。
直接接触なし。
リーゼが覗く。
「そこまで書くのか」
「後で同じ条件で見つかるかもしれないでしょ」
ティセラが嬉しそうに頷いた。
「非常に良いですね」
リーゼが教授を見る。
「褒めるな。加速する」
次に見つけたのは金属製の筒だった。
半分ほど砂へ埋まっている。
棒で周囲を確認する。
虫なし。
動くものなし。
刺激しても反応なし。
スージーが手袋をして持ち上げる。
「中空」
リーゼも見る。
「管の一部か?」
「ねじ切りがある」
「接続用だな」
「規格は?」
「小官の国のものとは違う」
スージーが自分の指と比較する。
「私のところとも違う。でも工作精度は近い」
「工場製品だと思うか」
「たぶん。手作業でこれだけ均一にねじを切る意味が薄い」
「同意する」
ティセラが二人を見る。
「こういう時は本当に会話が早いですね」
リーゼが胸を張る。
「そうだろう」
スージーも少し笑う。
「教授の魔術具を見てる時とは大違い」
「小官はあれを見るたびに自信を失う」
「私も昨日失った」
二人で金属管の寸法を測り、採取位置を記録する。
次。
割れた陶器。
次。
布。
次。
小さな革靴。
次。
銅線らしきものが巻かれた金属部品。
スージーが止まった。
リーゼも止まった。
二人が同時にしゃがむ。
ネイラが言った。
「同じ反応ですね」
「ちょっと待って」
スージーが周囲を棒で確認する。
問題なし。
リーゼが砂を少し除ける。
金属製の円筒。
内部に細い線が何重にも巻かれている。
一部は腐食しているが、構造は残っていた。
スージーが言う。
「巻線」
リーゼが頷く。
「電気機械の一部に見える」
「発電機か電動機?」
「可能性はある」
「でもこれだけじゃ決められない」
「そうだ」
二人が顔を見合わせた。
スージーが笑う。
「この辺、本当に同じ文明レベルね」
「小官も今、同じことを思った」
ティセラが覗く。
「魔力反応はありません」
リーゼが言う。
「今回はそれが安心材料になるのが嫌だな」
スージーは周囲を調べた。
「他の部品は?」
ネイラが少し離れた場所を指す。
「金属片がいくつかあります」
すぐには拾わない。
位置を記録する。
互いの距離。
水際との位置関係。
同じ漂着物だった可能性。
砂への埋まり方。
スージーは簡単な見取り図を描いた。
リーゼが言う。
「写真があれば楽なんだがな」
「私のところなら発掘記録に写真も使う」
リーゼが振り向く。
「貴様のところにも写真機があるか」
「当然あるわよ」
「小官のところにもある」
「持ってきてないの?」
「飛行機に積んでいたものは残っていない」
「私も鞄ごとない」
二人は同時にため息をついた。
クロエがいれば、何かもっと便利な記録方法を平然と出してくるのだろう。
そう思ったところで。
リーゼが先に言った。
「クロエへ頼むな」
スージーが見る。
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「でも、あの人なら画像を――」
「出すだろう。しかも小官たちが理解できない方式で」
「……ありそう」
「そうするとまた科学文明人としての自信を失う」
「じゃあ今日は図で」
「それがいい」
調査を続ける。
しばらくすると。
水面の上を、大きな影が横切った。
スージーの猫耳が動く。
巨大な鳥のような生物。
翼を広げて水面近くを飛んでいる。
昨日見たものと同じ種類かもしれない。
「大尉」
「見えている」
リーゼも水面を見る。
ティセラが記録板を取り出した。
スージーが言う。
「教授まで準備早くない?」
「何度か観察していますから」
鳥のような生物は水面近くへ降りた。
その瞬間。
水が盛り上がった。
巨大な魚のようなものが跳び上がる。
口が開く。
鳥が消える。
次の瞬間には、巨大魚が水面へ落ちた。
轟音。
大量の水飛沫。
スージーは固まった。
昨日も見た。
二度目だ。
だが。
二度見れば納得できるというものではない。
「……ねえ」
リーゼが答える。
「何だ」
「あの鳥、かなり大きいわよね」
「距離があるから正確ではないがな」
「それを一口で食べる魚がいる」
「いる」
「その魚を食べるものは?」
リーゼが止まる。
「分からん」
スージーが水面を見る。
「じゃあ、あれが上位捕食者?」
ティセラが答える。
「それも断定できません」
スージーが教授を見る。
「もっと大きいのがいる可能性?」
「あります」
スージーの猫耳がゆっくり伏せた。
「聞かなきゃよかった」
リーゼが深く頷く。
「小官もその段階を通った」
ティセラは真面目だった。
「大型魚類の死骸が別の生物に損傷された状態で見つかったことも――」
「教授」
リーゼが止める。
「何でしょう」
「今日は漂着物だ」
「関連する生態系情報ですが」
「スージーの顔を見ろ」
ティセラが見る。
スージーは滝壺を凝視していた。
「泳がない」
リーゼが言う。
「それがいい」
「絶対泳がない」
「小官も勧めん」
シズクが静かに言った。
「水辺へ近づきすぎない方がよいと思います」
「それ、最初に聞きたかった」
「今お伝えしました」
「ありがとう……」
そこからスージーは、水際へ近づくたびに以前より慎重になった。
それでも調査自体は止めない。
漂着した板。
文字のある瓶。
用途不明の金属製留め具。
同じ形の釘が大量に入った小箱。
そして。
古い布に包まれた、壊れた器具。
記録する。
棒で確認する。
周囲を見る。
持ち上げる。
札を付ける。
一連の流れが少しずつ形になっていく。
昼前。
回収用の籠がいっぱいになった。
スージーは記録板を見る。
「これなら続けられる」
リーゼも頷く。
「毎回ここまで細かくは無理だぞ」
「分かってる。珍しいもの、文字があるもの、構造物、まとまって漂着したものを優先しましょう」
「木材一本ごとに測量を始めると言われたら止めるつもりだった」
「やらないわよ!」
「教授ならやりかねん」
二人がティセラを見る。
ティセラが言った。
「研究目的によります」
リーゼとスージーが同時に言った。
「やるんだ」
ティセラは否定しなかった。
帰り道。
スージーは長い棒を肩へ担いでいた。
昨日までなら、考古学者の装備には見えない。
今は違う。
リーゼが見る。
「持って帰るのか」
「これ?」
スージーが棒を見る。
「持って帰る」
「気に入ったか」
「安全だから」
「合理的だ」
「遺跡でも使えるかもしれないし」
「そこまでか」
スージーは少し笑った。
「考古学者って、罠がある場所にも入るのよ。長い棒は普通に便利」
シズクが嬉しそうに言った。
「では、スージーさんの棒を決めておきましょうか」
「専用になるの?」
「皆、よく使いますから」
「じゃあ印つけようかな」
リーゼが呆れた。
「完全に谷底へ適応しているではないか」
「巨大魚には適応してない」
「そこは小官もだ」
「鶏の木にも」
「小官もだ」
「四メートルのキマイラにも」
「慣れろ。あいつは貴様を助けた」
「それは分かってる」
「植物が十倍で育つのは?」
「理解できない」
「小官もだ」
二人は少し黙った。
そして。
スージーが言った。
「大尉」
「何だ」
「やっぱり仲間ね」
リーゼは少しだけ笑った。
「ああ」
そこへティセラが後ろから言った。
「では午後から、今日採取した漂着物と既存資料を比較しましょう」
スージーの猫耳が立った。
「やる」
リーゼの笑顔が消えた。
「待て」
「何?」
「今、いい感じで終わっただろう!」
「研究は終わってないわよ」
「そういうところだ!」
ティセラが続ける。
「先ほどの巻線部品は、最近作った小型発電機とも構造比較できますね」
スージーの歩みが速くなる。
「それ見たい!」
「待て!」
「クロエにも来てもらいましょう」
「何故そこでクロエまで追加する!」
ネイラが笑いながら後ろを歩く。
「大尉」
「何だ!」
「もう止めるの無理だと思います」
リーゼは、前を歩くスージーとティセラを見た。
片方は科学技術文明の考古学者。
片方は魔術科学の教授。
そこへサイバー技術の忍者まで加わろうとしている。
しかも調べる対象は、正体不明の漂着物。
「……午後が終わらん気がする」
水槌ポンプの音が遠くから聞こえた。
ばん。
さらに。
「コケッ」
鶏の木が鳴く。
スージーが足を止めた。
「あれも調べたい」
リーゼが即答した。
「今日はやらん!」
「一回だけ」
「やらん!」
「鳴く仕組みだけでも」
「教授を見るな!」
ティセラが言った。
「内部構造については、まだ十分な資料が――」
リーゼの声が谷底へ響いた。
「教授も煽るなああああっ!」




