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大瀑布の底のハーレム【一般公開版】 (R18版 日間76位ありがとうございます)  作者: 黒瀬 量衡
第十八章 冒険Ⅰ

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第百三十一話 新たなる口論

スージーがもう一度目を覚ました頃には、昼を少し回っていた。


今度は頭もはっきりしている。


寝台の上で身体を起こすと、猫耳も一緒に立った。窓の外から水車の回る音が聞こえ、時折、水槌ポンプが、ばん、と低い音を響かせている。


そのさらに向こうでは、


「コケッ」


「ピヨピヨ」


と鶏の木と幼木が鳴いていた。


スージーはしばらく窓を見た。


「……夢じゃない」


部屋の隅で記録を書いていたティセラが顔を上げた。


「何がです?」


「全部」


「現実です」


「そうでしょうね」


スージーは布団から出た。


身体はまだ少し重いが、歩ける。


「地図を見たい」


ティセラが首を傾げる。


「地図?」


「ここの地図。それと、できればあの大尉が持ってる地図」


「リーゼですか」


「そう。ドイス残党ではないらしい大尉」


廊下から声がした。


「らしい、を付けるな!」


スージーの耳が動いた。


リーゼが入ってくる。


片手には何枚かの紙。


もう片方には、丸めた大きな図面を抱えていた。


「ちょうど持ってきたところだ」


スージーは目を輝かせた。


「地図?」


「まず谷底周辺のものだ。小官が来てから測量した範囲を、それ以前の記録へ追加している」


「見せて」


「その前に食事を」


「地図」


「食事だ」


「地図見ながら食べる」


リーゼが眉を寄せた。


「貴様、教授と同類か?」


ティセラが言った。


「私は食事中に研究資料を広げることはあります」


「教授は黙っていろ」


結局、スージーは簡単な食事を持って共同食事場へ移動した。


長机の上へ大きな紙が広げられる。


最初に出てきたのは、谷底の生活圏を描いた地図だった。


館。


畑。


水車。


水路。


貯水槽。


円筒分水。


保存蔵。


露天風呂。


大型生物用の水場。


第五。


鶏の木方面。


滝壺へ向かう経路。


川。


森林。


岩場。


まだ調査していない場所は空白になっている。


スージーは食べるのを忘れて地図へ顔を近づけた。


「これ、あなたが?」


「基礎は聖者とエヴァが持っていた情報だ。小官が測量を始めてから、距離と方位を整理した」


「縮尺は?」


「完全ではない。地形が広すぎるうえ、未踏区域が多い」


スージーが紙の端を見る。


「空白だらけ」


「だから調査している」


「いいわね」


リーゼが少し意外そうな顔をした。


「何がだ?」


「分からないところを分からないまま描いてある」


「当然だろう」


「当然じゃないのよ。昔の地図なんて、分からない場所に怪物描いて誤魔化してるものもあるし」


エヴァが横から覗き込む。


「怪物なら実際にいるぞ」


「そこじゃない」


「描くか?」


リーゼが即答した。


「描かん」


ルヴァナも近づいてきた。


「キマイラとか描いたら分かりやすくない?」


「観光地図ではない!」


スージーは地図の中から一本の太い線を見つけた。


「これ」


リーゼが見る。


「鶏の木方面の道だ」


「やっぱり道だったのね」


「見たのか?」


「滝壺から歩いてきた時に。十メートルくらいあった」


リーゼが少し嫌そうな顔をする。


「正確には、最初から作った道ではない」


「え?」


ルヴァナが笑った。


「あれ、キマイラが歩いてできたやつ」


スージーの猫耳が立つ。


「何?」


ネイラが説明する。


「大型生物が同じ方向を何度か通った結果、低木が倒れて、地面が踏み固められました」


「じゃあ、あの幅は」


「キマイラが通れる幅」


スージーは地図を見る。


道を見る。


窓の外を見る。


もう一度地図を見る。


「文明の痕跡だと思ったんだけど」


リーゼが言う。


「ある意味、生活圏の痕跡ではある」


「人のじゃない!」


エヴァが笑った。


「使えるから今は人も使ってるぞ」


「余計ややこしい!」


スージーは額を押さえた。


それでも、すぐ地図へ戻る。


「滝壺は?」


リーゼが地図の端を指す。


かなり大きく描かれている。


だが、その先は途中で切れていた。


スージーが聞く。


「対岸は?」


「見えていない」


「湖全体の大きさは?」


「分からん」


「水深」


「分からん」


「流出先」


「確認できていない」


「大瀑布の高さ」


「測れん」


スージーの耳が少しずつ立っていく。


「最高ね」


リーゼが顔をしかめた。


「何がだ」


「全部分からない」


「喜ぶところか?」


「考古学者なんて、分からないものを見つけたら嬉しいのよ」


ティセラが頷いた。


「分かります」


リーゼが二人を見る。


「やはり同類ではないか」


スージーは滝壺の横へ描かれた巨大な岩壁を見る。


「この断崖は?」


「小官の地図では、まだ局所しか描けん」


「上は?」


「見えない」


「左右は?」


「少なくとも、ここから見える範囲では端がない」


「崖に沿って調査した?」


リーゼが首を振る。


「生活圏を優先している。遠征してまで崖の端を探す理由が今のところない」


スージーは少し考えた。


「合理的」


「褒められた気がしない」


「褒めてる」


リーゼは次の地図を広げた。


こちらは谷底ではない。


リーゼの故郷側で使われていた地図だった。


紙質。


記号。


文字。


全部違う。


スージーは当然、その文字を読めなかった。


だが地図そのものなら分かる。


河川。


山地。


都市。


鉄道らしい線。


国境。


そして地図の端に、巨大な空白へ沿うように描かれた線。


「これが?」


「ヴェルテンヴァント。小官の国では世界壁と呼ぶ」


スージーが顔を近づける。


「断崖?」


「そうだ」


「滝は?」


「小官が知る範囲にはない」


「乾いてる?」


「少なくとも航空任務へ出た地点ではな」


スージーは指で線を追う。


「長い」


「どこまで続くかは分かっていない」


「向こう側は?」


「不明だ。だから飛んだ」


スージーがリーゼを見る。


「飛んだ?」


「飛行機で越えようとした」


「それで落ちた?」


「そうだ」


「やっぱり軍人らしいことしてる」


「軍人だからな!」


スージーは地図へ戻った。


「チキトンはない」


「当然だろう。貴様の土地を小官は知らん」


「名前が違うだけかもしれない」


リーゼも頷く。


「それを確認したい」


スージーは自分の手元を見る。


本来なら、鞄に地図があった。


チキトン周辺。


調査経路。


遺跡分布。


古い交易路。


ウテキト関連遺跡の位置。


全部。


水に流された。


「紙を貸して」


リーゼが紙と筆記具を渡す。


「描けるのか?」


「全部は無理。でも大体なら」


スージーは新しい紙へ線を引いた。


最初に海岸線。


次に大きな河川。


山脈。


都市。


国境。


鉄道。


調査で何度も通った道。


最後に、山岳と密林に囲まれた一帯へ丸をつける。


「ここがチキトン」


リーゼが見る。


「かなり内陸だな」


「そう。霧が深くて、地形も複雑。昔から測量が難しい」


「巨大断崖は?」


「ない」


「大瀑布は?」


「ある。でも、あんなものじゃない」


スージーは窓の外の方角を見る。


「私が知ってる地図のどこにも、あんな断崖は描かれてない」


リーゼはスージーの地図と自分の地図を並べた。


海岸線。


大河。


山脈。


都市配置。


どれも一致しない。


似たような山地はある。


大河もある。


海もある。


だが、地図として重ねられるほど同じ場所は一つもない。


スージーがリーゼの地図を回転させる。


上下を変える。


自分の地図も回す。


「これをこっちにして……」


「合わんな」


「この海岸線がこれなら」


「河川が逆だ」


「山脈を基準にすると」


「都市圏が海へ出る」


「駄目ね」


二人はしばらく無言で地図を動かした。


ネイラも途中から横へ来る。


「縮尺が違う可能性は?」


「ある」


スージーが答える。


「でも地形の組み合わせが違いすぎる」


リーゼも頷く。


「同じ地域を別の精度で描いた地図には見えん」


シズクが尋ねる。


「では、お二人の国は遠く離れているのでしょうか」


スージーとリーゼが同時に止まった。


リーゼが答える。


「分からん」


「分からないのですか?」


「同じ大地の遠方かもしれない。海の向こうかもしれない。我々が知らない巨大な地域を挟んでいるのかもしれない」


スージーも続ける。


「地図が違うからって、別の場所だとまでは言える。でも、同じ世界じゃないとは言えない」


シズクが頷く。


「世界が、それほど広い可能性もあるのですね」


「ある」


リーゼはそう言ってから、少し考えた。


「むしろ、ここへ来てからはその可能性を無視できなくなった」


エヴァが壁にもたれたまま言う。


「俺の国の地図も持ってくるか?」


リーゼが見る。


「あるのか?」


「大雑把なのなら覚えてる」


「描け」


「命令するな」


そう言いながら、エヴァは紙を受け取った。


自分の国。


隣国。


大河。


山。


平地。


そして国々が背を向けていた、魔界大穴と呼ばれる巨大断崖。


スージーの猫耳が動いた。


「あなたのところにもあるの?」


「あったぞ」


「滝は?」


「ない。俺が知ってる場所は乾いた崖だ」


リーゼが自分のヴェルテンヴァントを指す。


「小官の世界壁と似ている」


エヴァが言う。


「前にもそういう話になった」


スージーは二枚を見る。


「じゃあ、巨大断崖そのものは、一か所だけじゃない?」


ノアの声が少し離れた場所からした。


「それも分からないよ」


スージーが振り向く。


ノアは女性が集まっている長机から距離を取り、外側の椅子へ座っていた。


「同じ巨大な断崖の別の場所を、それぞれ別の名前で呼んでいる可能性もある。全然別の断崖が複数ある可能性もある」


スージーが頷く。


「証拠がない」


「うん」


「好き、その言い方」


リーゼが言う。


「聖者は大体そうだ。分からんことを勝手に決めない」


「重要よ」


ティセラも頷いた。


「観測事実と仮説は分けるべきです」


スージーが教授を見る。


「やっぱりあなたとは話が合いそう」


リーゼが即座に言った。


「組むな」


「何で?」


「止まらなくなる」


ティセラは否定しなかった。


スージーはもう一度、自分の描いた地図を見る。


チキトン。


その奥にあったウテキト遺跡。


自分が最後にいた場所。


そこから地下へ落ちた。


水へ流された。


そして目覚めたのは、この谷底。


もし普通の地下水路だけで繋がっているのなら。


距離はどれほどになる。


高低差は。


流速は。


時間は。


何も分からない。


しかも秘宝まで失っている。


「ねえ」


リーゼが見る。


「何だ」


「私、どれくらい眠ってた?」


「我々が拾ってからなら半日も経っていない」


「その前」


「知るわけがない」


「そうよね」


スージーは猫耳を伏せた。


遺跡から滝壺まで何時間だったのか。


一日なのか。


数日なのか。


もっと長いのか。


それすら分からない。


ネイラが地図を見ながら言った。


「身体の状態から推測できませんか?」


ティセラが答える。


「難しいでしょう。谷底へ来た人間は、通常では説明しにくいほど状態が良い場合があります」


スージーが教授を見る。


「それ、どういう意味?」


室内が少し静かになった。


リーゼが咳払いした。


「その話は後でいい」


「何で?」


「説明すると長い」


スージーが天井を見る。


「また長いやつ」


エヴァが笑った。


「ここは長い話ばっかりだからな」


スージーは地図へ戻った。


そして今度は谷底の地図、自分の地図、リーゼの地図、エヴァが描いた大雑把な地図を横一列へ並べた。


どれにも。


同じ場所だと言い切れる地形はない。


谷底に至っては。


比較のしようすらない。


反対側の岸が見えない滝壺。


上端の見えない断崖。


端の分からない岩壁。


周囲のほとんどが未踏。


スージーは谷底の地図を指で叩いた。


「つまり」


リーゼが答える。


「現在地不明」


「私の地図にもない」


「小官の地図にもない」


エヴァが言う。


「俺のにもないな」


シズクも静かに言った。


「私には国全体の地図はありませんが、少なくとも里で聞いた土地ではありません」


ティセラも頷く。


「私の知る地理とも一致しません」


クロエが言う。


「我々の世界の地図とも一致しない」


アスラも続ける。


「少なくとも既知地域ではない」


スージーは全員を見る。


「全員、知らない場所に住んでるの?」


エヴァが答えた。


「そうなるな」


「それで普通に畑作ってるの?」


「腹減るからな」


「水車も?」


リーゼが答える。


「必要だから作った」


「露天風呂も?」


シズクが答える。


「ありますね」


「鶏が鳴く木も?」


ルヴァナが笑う。


「勝手に生えた」


「四メートルのキマイラも?」


ネイラが答える。


「一緒に暮らしているだけです」


「巨大な馬たちも?」


エヴァが言う。


「黒たちか。あいつらも住んでる」


スージーは長く黙った。


やがて。


「……ラシアホより変じゃない?」


リーゼが言った。


「その理想郷を我々は知らんから比較できん」


「そうだった」


スージーは椅子へ深く座った。


地図を見る。


理想郷を探すため、何年も古い記録を追った。


どこにあるか分からない場所を探していた。


そして今。


自分自身が。


誰の地図にも載っていない場所にいる。


スージーの口元が、少しだけ緩んだ。


リーゼが気づく。


「何故笑う」


「考古学者だから」


「説明になっていない」


「地図にない土地よ?」


「遭難しているとも言う」


「言わないで」


「事実だ」


「分かってるけど!」


リーゼは地図を片づけようとした。


スージーが止める。


「待って」


「何だ」


「この谷底の地図、もう一度見せて」


「まだ見るのか?」


「今度は詳しく」


「何を調べる」


スージーは地図の中にある記号を一つ指した。


漂着物が集まる場所。


さらに。


館の近くにも、回収した品を保管している場所が書かれている。


「これ」


リーゼが答える。


「漂着物の保管場所だ」


スージーの猫耳が立った。


「漂着物?」


「ああ。樽、箱、布、金属、道具、武器、何でも落ちてくる」


「文字があるものも?」


「ある」


「陶器は?」


「ある」


「硬貨」


「ある」


「装飾品」


「ある」


「古い道具」


「用途不明のものなら山ほどある」


スージーが立ち上がった。


リーゼが嫌な予感のする顔をした。


「待て」


「どこ?」


「何が」


「その保管場所!」


「まだ病み上がりだ!」


「歩ける!」


「今日は休め!」


「考古学者の前で『由来不明の遺物が山ほどあります』って言って休めると思う!?」


ティセラも立ち上がった。


「私も行きます」


リーゼが叫んだ。


「教授は座れ!」


クロエまで言う。


「古い機械部品もある」


スージーがクロエを見る。


「本当に!?」


「ある」


「見せて!」


「いいぞ」


「クロエ!」


アスラも笑う。


「魔術具らしいものも混じっているぞ」


「アスラまで煽るな!」


ネイラが地図を片づけながら言った。


「大尉、たぶん今日は止められません」


ルヴァナも頷く。


「猫耳、めっちゃ立ってるし」


シズクはスージーを見た。


確かに。


今までで一番、猫耳がまっすぐ立っていた。


スージー自身は気づいていない。


リーゼは額を押さえた。


朝までは。


見知らぬ土地へ落ちてきた、疲れ切った漂着者だった。


昼には。


ドイス残党ではないかと小官を疑った。


そして今。


由来不明の漂着物が大量にあると聞いた瞬間。


完全に考古学者になった。


リーゼは深く息を吐いた。


「見に行くのは明日だ」


「今日」


「明日」


「今日!」


「病み上がり!」


「考古学者!」


「病人という立場は職業で上書きできん!」


谷底の館に。


また一つ。


新しい口論の声が増えた。

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