第百三十一話 新たなる口論
スージーがもう一度目を覚ました頃には、昼を少し回っていた。
今度は頭もはっきりしている。
寝台の上で身体を起こすと、猫耳も一緒に立った。窓の外から水車の回る音が聞こえ、時折、水槌ポンプが、ばん、と低い音を響かせている。
そのさらに向こうでは、
「コケッ」
「ピヨピヨ」
と鶏の木と幼木が鳴いていた。
スージーはしばらく窓を見た。
「……夢じゃない」
部屋の隅で記録を書いていたティセラが顔を上げた。
「何がです?」
「全部」
「現実です」
「そうでしょうね」
スージーは布団から出た。
身体はまだ少し重いが、歩ける。
「地図を見たい」
ティセラが首を傾げる。
「地図?」
「ここの地図。それと、できればあの大尉が持ってる地図」
「リーゼですか」
「そう。ドイス残党ではないらしい大尉」
廊下から声がした。
「らしい、を付けるな!」
スージーの耳が動いた。
リーゼが入ってくる。
片手には何枚かの紙。
もう片方には、丸めた大きな図面を抱えていた。
「ちょうど持ってきたところだ」
スージーは目を輝かせた。
「地図?」
「まず谷底周辺のものだ。小官が来てから測量した範囲を、それ以前の記録へ追加している」
「見せて」
「その前に食事を」
「地図」
「食事だ」
「地図見ながら食べる」
リーゼが眉を寄せた。
「貴様、教授と同類か?」
ティセラが言った。
「私は食事中に研究資料を広げることはあります」
「教授は黙っていろ」
結局、スージーは簡単な食事を持って共同食事場へ移動した。
長机の上へ大きな紙が広げられる。
最初に出てきたのは、谷底の生活圏を描いた地図だった。
館。
畑。
水車。
水路。
貯水槽。
円筒分水。
保存蔵。
露天風呂。
大型生物用の水場。
第五。
鶏の木方面。
滝壺へ向かう経路。
川。
森林。
岩場。
まだ調査していない場所は空白になっている。
スージーは食べるのを忘れて地図へ顔を近づけた。
「これ、あなたが?」
「基礎は聖者とエヴァが持っていた情報だ。小官が測量を始めてから、距離と方位を整理した」
「縮尺は?」
「完全ではない。地形が広すぎるうえ、未踏区域が多い」
スージーが紙の端を見る。
「空白だらけ」
「だから調査している」
「いいわね」
リーゼが少し意外そうな顔をした。
「何がだ?」
「分からないところを分からないまま描いてある」
「当然だろう」
「当然じゃないのよ。昔の地図なんて、分からない場所に怪物描いて誤魔化してるものもあるし」
エヴァが横から覗き込む。
「怪物なら実際にいるぞ」
「そこじゃない」
「描くか?」
リーゼが即答した。
「描かん」
ルヴァナも近づいてきた。
「キマイラとか描いたら分かりやすくない?」
「観光地図ではない!」
スージーは地図の中から一本の太い線を見つけた。
「これ」
リーゼが見る。
「鶏の木方面の道だ」
「やっぱり道だったのね」
「見たのか?」
「滝壺から歩いてきた時に。十メートルくらいあった」
リーゼが少し嫌そうな顔をする。
「正確には、最初から作った道ではない」
「え?」
ルヴァナが笑った。
「あれ、キマイラが歩いてできたやつ」
スージーの猫耳が立つ。
「何?」
ネイラが説明する。
「大型生物が同じ方向を何度か通った結果、低木が倒れて、地面が踏み固められました」
「じゃあ、あの幅は」
「キマイラが通れる幅」
スージーは地図を見る。
道を見る。
窓の外を見る。
もう一度地図を見る。
「文明の痕跡だと思ったんだけど」
リーゼが言う。
「ある意味、生活圏の痕跡ではある」
「人のじゃない!」
エヴァが笑った。
「使えるから今は人も使ってるぞ」
「余計ややこしい!」
スージーは額を押さえた。
それでも、すぐ地図へ戻る。
「滝壺は?」
リーゼが地図の端を指す。
かなり大きく描かれている。
だが、その先は途中で切れていた。
スージーが聞く。
「対岸は?」
「見えていない」
「湖全体の大きさは?」
「分からん」
「水深」
「分からん」
「流出先」
「確認できていない」
「大瀑布の高さ」
「測れん」
スージーの耳が少しずつ立っていく。
「最高ね」
リーゼが顔をしかめた。
「何がだ」
「全部分からない」
「喜ぶところか?」
「考古学者なんて、分からないものを見つけたら嬉しいのよ」
ティセラが頷いた。
「分かります」
リーゼが二人を見る。
「やはり同類ではないか」
スージーは滝壺の横へ描かれた巨大な岩壁を見る。
「この断崖は?」
「小官の地図では、まだ局所しか描けん」
「上は?」
「見えない」
「左右は?」
「少なくとも、ここから見える範囲では端がない」
「崖に沿って調査した?」
リーゼが首を振る。
「生活圏を優先している。遠征してまで崖の端を探す理由が今のところない」
スージーは少し考えた。
「合理的」
「褒められた気がしない」
「褒めてる」
リーゼは次の地図を広げた。
こちらは谷底ではない。
リーゼの故郷側で使われていた地図だった。
紙質。
記号。
文字。
全部違う。
スージーは当然、その文字を読めなかった。
だが地図そのものなら分かる。
河川。
山地。
都市。
鉄道らしい線。
国境。
そして地図の端に、巨大な空白へ沿うように描かれた線。
「これが?」
「ヴェルテンヴァント。小官の国では世界壁と呼ぶ」
スージーが顔を近づける。
「断崖?」
「そうだ」
「滝は?」
「小官が知る範囲にはない」
「乾いてる?」
「少なくとも航空任務へ出た地点ではな」
スージーは指で線を追う。
「長い」
「どこまで続くかは分かっていない」
「向こう側は?」
「不明だ。だから飛んだ」
スージーがリーゼを見る。
「飛んだ?」
「飛行機で越えようとした」
「それで落ちた?」
「そうだ」
「やっぱり軍人らしいことしてる」
「軍人だからな!」
スージーは地図へ戻った。
「チキトンはない」
「当然だろう。貴様の土地を小官は知らん」
「名前が違うだけかもしれない」
リーゼも頷く。
「それを確認したい」
スージーは自分の手元を見る。
本来なら、鞄に地図があった。
チキトン周辺。
調査経路。
遺跡分布。
古い交易路。
ウテキト関連遺跡の位置。
全部。
水に流された。
「紙を貸して」
リーゼが紙と筆記具を渡す。
「描けるのか?」
「全部は無理。でも大体なら」
スージーは新しい紙へ線を引いた。
最初に海岸線。
次に大きな河川。
山脈。
都市。
国境。
鉄道。
調査で何度も通った道。
最後に、山岳と密林に囲まれた一帯へ丸をつける。
「ここがチキトン」
リーゼが見る。
「かなり内陸だな」
「そう。霧が深くて、地形も複雑。昔から測量が難しい」
「巨大断崖は?」
「ない」
「大瀑布は?」
「ある。でも、あんなものじゃない」
スージーは窓の外の方角を見る。
「私が知ってる地図のどこにも、あんな断崖は描かれてない」
リーゼはスージーの地図と自分の地図を並べた。
海岸線。
大河。
山脈。
都市配置。
どれも一致しない。
似たような山地はある。
大河もある。
海もある。
だが、地図として重ねられるほど同じ場所は一つもない。
スージーがリーゼの地図を回転させる。
上下を変える。
自分の地図も回す。
「これをこっちにして……」
「合わんな」
「この海岸線がこれなら」
「河川が逆だ」
「山脈を基準にすると」
「都市圏が海へ出る」
「駄目ね」
二人はしばらく無言で地図を動かした。
ネイラも途中から横へ来る。
「縮尺が違う可能性は?」
「ある」
スージーが答える。
「でも地形の組み合わせが違いすぎる」
リーゼも頷く。
「同じ地域を別の精度で描いた地図には見えん」
シズクが尋ねる。
「では、お二人の国は遠く離れているのでしょうか」
スージーとリーゼが同時に止まった。
リーゼが答える。
「分からん」
「分からないのですか?」
「同じ大地の遠方かもしれない。海の向こうかもしれない。我々が知らない巨大な地域を挟んでいるのかもしれない」
スージーも続ける。
「地図が違うからって、別の場所だとまでは言える。でも、同じ世界じゃないとは言えない」
シズクが頷く。
「世界が、それほど広い可能性もあるのですね」
「ある」
リーゼはそう言ってから、少し考えた。
「むしろ、ここへ来てからはその可能性を無視できなくなった」
エヴァが壁にもたれたまま言う。
「俺の国の地図も持ってくるか?」
リーゼが見る。
「あるのか?」
「大雑把なのなら覚えてる」
「描け」
「命令するな」
そう言いながら、エヴァは紙を受け取った。
自分の国。
隣国。
大河。
山。
平地。
そして国々が背を向けていた、魔界大穴と呼ばれる巨大断崖。
スージーの猫耳が動いた。
「あなたのところにもあるの?」
「あったぞ」
「滝は?」
「ない。俺が知ってる場所は乾いた崖だ」
リーゼが自分のヴェルテンヴァントを指す。
「小官の世界壁と似ている」
エヴァが言う。
「前にもそういう話になった」
スージーは二枚を見る。
「じゃあ、巨大断崖そのものは、一か所だけじゃない?」
ノアの声が少し離れた場所からした。
「それも分からないよ」
スージーが振り向く。
ノアは女性が集まっている長机から距離を取り、外側の椅子へ座っていた。
「同じ巨大な断崖の別の場所を、それぞれ別の名前で呼んでいる可能性もある。全然別の断崖が複数ある可能性もある」
スージーが頷く。
「証拠がない」
「うん」
「好き、その言い方」
リーゼが言う。
「聖者は大体そうだ。分からんことを勝手に決めない」
「重要よ」
ティセラも頷いた。
「観測事実と仮説は分けるべきです」
スージーが教授を見る。
「やっぱりあなたとは話が合いそう」
リーゼが即座に言った。
「組むな」
「何で?」
「止まらなくなる」
ティセラは否定しなかった。
スージーはもう一度、自分の描いた地図を見る。
チキトン。
その奥にあったウテキト遺跡。
自分が最後にいた場所。
そこから地下へ落ちた。
水へ流された。
そして目覚めたのは、この谷底。
もし普通の地下水路だけで繋がっているのなら。
距離はどれほどになる。
高低差は。
流速は。
時間は。
何も分からない。
しかも秘宝まで失っている。
「ねえ」
リーゼが見る。
「何だ」
「私、どれくらい眠ってた?」
「我々が拾ってからなら半日も経っていない」
「その前」
「知るわけがない」
「そうよね」
スージーは猫耳を伏せた。
遺跡から滝壺まで何時間だったのか。
一日なのか。
数日なのか。
もっと長いのか。
それすら分からない。
ネイラが地図を見ながら言った。
「身体の状態から推測できませんか?」
ティセラが答える。
「難しいでしょう。谷底へ来た人間は、通常では説明しにくいほど状態が良い場合があります」
スージーが教授を見る。
「それ、どういう意味?」
室内が少し静かになった。
リーゼが咳払いした。
「その話は後でいい」
「何で?」
「説明すると長い」
スージーが天井を見る。
「また長いやつ」
エヴァが笑った。
「ここは長い話ばっかりだからな」
スージーは地図へ戻った。
そして今度は谷底の地図、自分の地図、リーゼの地図、エヴァが描いた大雑把な地図を横一列へ並べた。
どれにも。
同じ場所だと言い切れる地形はない。
谷底に至っては。
比較のしようすらない。
反対側の岸が見えない滝壺。
上端の見えない断崖。
端の分からない岩壁。
周囲のほとんどが未踏。
スージーは谷底の地図を指で叩いた。
「つまり」
リーゼが答える。
「現在地不明」
「私の地図にもない」
「小官の地図にもない」
エヴァが言う。
「俺のにもないな」
シズクも静かに言った。
「私には国全体の地図はありませんが、少なくとも里で聞いた土地ではありません」
ティセラも頷く。
「私の知る地理とも一致しません」
クロエが言う。
「我々の世界の地図とも一致しない」
アスラも続ける。
「少なくとも既知地域ではない」
スージーは全員を見る。
「全員、知らない場所に住んでるの?」
エヴァが答えた。
「そうなるな」
「それで普通に畑作ってるの?」
「腹減るからな」
「水車も?」
リーゼが答える。
「必要だから作った」
「露天風呂も?」
シズクが答える。
「ありますね」
「鶏が鳴く木も?」
ルヴァナが笑う。
「勝手に生えた」
「四メートルのキマイラも?」
ネイラが答える。
「一緒に暮らしているだけです」
「巨大な馬たちも?」
エヴァが言う。
「黒たちか。あいつらも住んでる」
スージーは長く黙った。
やがて。
「……ラシアホより変じゃない?」
リーゼが言った。
「その理想郷を我々は知らんから比較できん」
「そうだった」
スージーは椅子へ深く座った。
地図を見る。
理想郷を探すため、何年も古い記録を追った。
どこにあるか分からない場所を探していた。
そして今。
自分自身が。
誰の地図にも載っていない場所にいる。
スージーの口元が、少しだけ緩んだ。
リーゼが気づく。
「何故笑う」
「考古学者だから」
「説明になっていない」
「地図にない土地よ?」
「遭難しているとも言う」
「言わないで」
「事実だ」
「分かってるけど!」
リーゼは地図を片づけようとした。
スージーが止める。
「待って」
「何だ」
「この谷底の地図、もう一度見せて」
「まだ見るのか?」
「今度は詳しく」
「何を調べる」
スージーは地図の中にある記号を一つ指した。
漂着物が集まる場所。
さらに。
館の近くにも、回収した品を保管している場所が書かれている。
「これ」
リーゼが答える。
「漂着物の保管場所だ」
スージーの猫耳が立った。
「漂着物?」
「ああ。樽、箱、布、金属、道具、武器、何でも落ちてくる」
「文字があるものも?」
「ある」
「陶器は?」
「ある」
「硬貨」
「ある」
「装飾品」
「ある」
「古い道具」
「用途不明のものなら山ほどある」
スージーが立ち上がった。
リーゼが嫌な予感のする顔をした。
「待て」
「どこ?」
「何が」
「その保管場所!」
「まだ病み上がりだ!」
「歩ける!」
「今日は休め!」
「考古学者の前で『由来不明の遺物が山ほどあります』って言って休めると思う!?」
ティセラも立ち上がった。
「私も行きます」
リーゼが叫んだ。
「教授は座れ!」
クロエまで言う。
「古い機械部品もある」
スージーがクロエを見る。
「本当に!?」
「ある」
「見せて!」
「いいぞ」
「クロエ!」
アスラも笑う。
「魔術具らしいものも混じっているぞ」
「アスラまで煽るな!」
ネイラが地図を片づけながら言った。
「大尉、たぶん今日は止められません」
ルヴァナも頷く。
「猫耳、めっちゃ立ってるし」
シズクはスージーを見た。
確かに。
今までで一番、猫耳がまっすぐ立っていた。
スージー自身は気づいていない。
リーゼは額を押さえた。
朝までは。
見知らぬ土地へ落ちてきた、疲れ切った漂着者だった。
昼には。
ドイス残党ではないかと小官を疑った。
そして今。
由来不明の漂着物が大量にあると聞いた瞬間。
完全に考古学者になった。
リーゼは深く息を吐いた。
「見に行くのは明日だ」
「今日」
「明日」
「今日!」
「病み上がり!」
「考古学者!」
「病人という立場は職業で上書きできん!」
谷底の館に。
また一つ。
新しい口論の声が増えた。




