第百二十七話 失われた秘宝
チキトンは、地図に描くことのできない土地だと言われていた。
場所が分からないからではない。
地図へ線を引いても、その通りに歩けないからだ。
一年の大半を濃い霧に覆われた山岳と密林。切り立った崖の間を縫うように川が流れ、雨が降るたびに道が変わる。昨日まで通れた谷が土砂で塞がれ、逆に何百年も埋もれていた石段が姿を現すことさえある。
その霧の中を、スージーは走っていた。
猫耳がぴんと立っている。
背負った革鞄が跳ね、腰の道具がぶつかって音を立てる。片手には古びた記録帳。もう片方には、先端へ鉤を付けた長い縄を握っていた。
後ろから銃声が響く。
ぱんっ。
近くの木の幹が弾けた。
「撃つなら遺跡に当てないでよ!」
スージーは振り返りもせず叫んだ。
後ろを走る仲間が怒鳴る。
「相手に言え!」
「考古学者として言ってるの!」
「聞くと思うか!」
「聞かないから腹が立つのよ!」
さらに銃声が響いた。
霧の向こうから現れたのは、灰色がかった軍服の男たちだった。
肩には古い紋章。
既に滅びたドイスの印。
国そのものは戦争に敗れ、政権も軍も解体された。それでも全員が武器を捨てたわけではない。軍人、情報部員、研究者、資産家。各地へ逃げた者たちが小さな組織を作り、今でも密かに活動している。
ドイス残党。
彼らが探しているのは、金銀財宝だけではなかった。
古代文明の兵器。
失われた技術。
神話の中にしか残っていない力。
そして今、スージーと同じものを追っている。
ウテキトの秘宝。
スージーは倒木を飛び越え、苔に覆われた石壁の前で急停止した。
仲間たちも続いて止まる。
「行き止まりだぞ!」
「違う」
スージーは石壁へ近づいた。
猫耳が小さく動く。
霧の向こうでは、ドイス残党が枝を踏み折りながら近づいてくる。
時間はない。
それでもスージーは壁を見た。
蔓を払う。
苔を剥がす。
石の表面に、細い線が現れた。
「ウテキト文字だ」
仲間が息を切らしながら聞く。
「読めるのか?」
「読めるからここまで来たの。読めなかったら、今頃大学で学生相手に土器の年代を教えてるわよ」
「そっちの方が安全だったんじゃないか?」
「今それ言う?」
スージーは指で文字をなぞった。
古い。
少なくとも千年以上。
だが刻線はまだ残っている。
上段。
太陽。
下段。
水。
中央。
開いた手。
その横に短い文。
スージーは呟いた。
「光を閉じ、水を開け。持つ者ではなく、求める者へ道を示す……」
「意味は?」
「今考えてる!」
石壁の周囲を見る。
太陽を示す円盤。
水を表す波形。
何かを差し込むような穴。
スージーは足元を見る。
地面の脇に細い水路がある。
土に埋もれているが、完全には塞がっていない。
「水を使うんだ」
「どこから?」
「上」
スージーが見上げる。
仲間も見上げた。
石壁のかなり上に、小さな石樋が残っている。
「届かないぞ」
「だから縄持ってるの」
スージーは鉤付き縄を振った。
一度。
二度。
投げる。
鉤が石樋の横へ引っかかった。
引く。
固定されている。
スージーは登った。
「おい!」
「下で撃たれたくなかったら手伝って!」
猫耳が動いた。
後方。
枝の折れる音。
革靴。
金属。
近い。
スージーは石壁を蹴り、縄を登る。
石樋へ到達すると、中へ詰まっていた泥と根を小さな道具で掻き出した。
最初は何も起きない。
さらに掘る。
奥で。
ごぽっ。
音がした。
「来る!」
水が流れ出した。
細い水。
それが石樋を進み、壁面の溝へ落ちる。
下で仲間が叫ぶ。
「何か動いた!」
石壁の太陽紋が沈んだ。
代わりに水の紋が浮き出る。
ごごごご、と低い音が響き、巨大な石壁が横へずれ始めた。
「当たり!」
スージーは縄を滑り降りた。
開いた隙間へ仲間たちと飛び込む。
直後、霧の向こうからドイス残党が現れた。
「止まれ!」
「止まる考古学者がいると思う!?」
「普通の考古学者は銃撃戦しない!」
仲間が叫んだ。
「私だってしたくてしてるんじゃないわよ!」
三人が遺跡内部へ入る。
石壁が閉まり始めた。
だが完全に閉じる直前、外側から銃身が差し込まれた。
何発か撃たれる。
弾丸が石壁へ当たり、火花を散らした。
スージーたちは通路の奥へ走った。
遺跡内部は、外より乾いていた。
壁にはウテキト文明特有の浮彫。
太陽。
雨。
山。
人。
そして、何度も現れる奇妙な図柄。
円環の中心へ向かって歩く人々。
スージーは走りながら見る。
「やっぱり同じだ」
「何が!」
「ラシアホ伝承の図柄!」
理想郷ラシアホ。
病もない。
飢えもない。
争いもない。
豊かな水と実りに満ち、古代文明の知識が今も残る場所。
伝承によって内容は違う。
ある地域では山の向こう。
ある地域では霧の奥。
別の地域では地下。
さらに古い記録では、
『ウテキトの鍵を持つ者のみ、道を見る』
と記されていた。
学界では昔から議論されている。
実在する失われた都市なのか。
宗教上の死後世界なのか。
単なる寓話なのか。
スージーは実在すると考えていた。
正確には。
実在するかどうかを確かめたかった。
だから十年以上追った。
断片的な碑文。
盗掘された石板。
古文書。
口伝。
崩れた神殿。
そしてようやく、チキトンの奥にあるこの遺跡へ辿り着いた。
「ここまで来て空振りだったら、教授連中に一生笑われるわ」
「今そこを気にするのか!」
「大事よ!」
前方が開けた。
大きな空間。
中央に、石橋が一本だけ延びている。
その下は暗く、底が見えない。
仲間の一人が石を落とした。
何も聞こえない。
「深いな」
「落ちないでね」
「言われなくても分かる」
三人は石橋を渡る。
途中。
スージーの猫耳が動いた。
かち。
小さな音。
「止まって」
仲間たちが止まる。
「何だ?」
「今、何か動いた」
壁を見る。
穴。
細い穴が並んでいる。
床を見る。
仲間の足元の石が、わずかに沈んでいる。
「足を動かさないで」
「まさか」
「たぶん罠」
「たぶん!?」
「千年以上動いてない装置の保証なんてできないわよ!」
スージーはしゃがんだ。
石橋の縁を見る。
沈んだ床石から細い継ぎ目が延びている。
側面。
内部へ続く細い棒。
圧力式。
古典的だ。
問題は、何が飛んでくるか。
スージーは鞄から小さな鏡を出し、壁の穴を確認する。
「矢かな」
「かな?」
「毒が塗ってあったら嫌ね」
「もっと嫌な情報を追加するな!」
スージーは長縄を出した。
「私が向こうへ行く。合図したら足を上げて」
「それで?」
「代わりに石を乗せる」
「最初から石を乗せればよかったのでは?」
「今踏んでるんだから仕方ないでしょ!」
慎重に横を抜ける。
石を拾う。
縄で縛る。
引く。
床石の上へ載せる。
「今!」
仲間が足を上げた。
石が落ちる。
床は沈んだまま。
何も飛ばない。
三人が息を吐く。
その直後。
壁から、ばしゅっ、と大量の細い針が飛び出した。
全員が固まった。
針は反対側の壁へ突き刺さる。
スージーが言った。
「遅れて動くみたい」
「先に言え!」
「今知ったの!」
後方から扉が壊れる音が響いた。
ドイス残党が入ってきた。
「急ぐわよ!」
三人は走った。
遺跡は深くなるにつれて奇妙になっていく。
外から入ったはずなのに、途中から水音が増えた。
地下水路。
石造りの樋。
巨大な水門。
何百年、何千年と止まっているはずなのに、一部はまだ水を流している。
ウテキト文明は、水を使って遺跡を動かしていたらしい。
やがて通路は、巨大な円形広間へ繋がった。
スージーが足を止めた。
中央。
石造りの台座。
その上に。
何かがあった。
「……見つけた」
誰もすぐには動かなかった。
台座の上に置かれているのは、両手に収まるほどの円盤だった。
金属のようにも見える。
石のようにも見える。
外周には幾重もの輪。
その一つ一つにウテキト文字が刻まれている。
中央には、透明な石。
その奥で、ごく弱い光が揺れている。
スージーはゆっくり近づいた。
「ウテキトの秘宝……」
仲間が聞く。
「本物なのか?」
「本物かどうかを調べるために来たの」
「今の時点では?」
「ものすごく本物っぽい」
「学者らしくない答えだな」
「感動してるの!」
猫耳までまっすぐ立っていた。
スージーは台座の周囲を見る。
文字がある。
読める。
いや。
今まで見つけた碑文より古い。
文法が少し違う。
「道は、地の下を巡り、水の下を巡り……」
仲間が待つ。
スージーは続きを読む。
「……持つ者を、ラシアホへ導く」
三人が黙った。
仲間の一人が言った。
「本当にあるのか」
「少なくとも、これを作った人たちはそう考えてた」
「じゃあ持って帰れば」
「待って」
スージーは台座を見る。
秘宝の下。
細い溝。
周囲へ伸びる線。
ただ置かれているだけではない。
遺跡そのものと繋がっている。
「これ、外したら何か起きる」
「罠?」
「分からない」
「じゃあ触るな」
「でも持って帰らないと調べられない」
「考古学者って何でこうなんだ」
「私だけみたいに言わないで」
その時。
後ろから声がした。
「そこまでだ」
三人が振り返る。
円形広間の入口。
ドイス残党。
数人。
銃を構えている。
その中央にいる男は、他とは少し違う軍服を着ていた。
胸には、失われたドイスの鷲を模した徽章。
「秘宝から離れろ」
スージーがため息をついた。
「遺跡の中で銃を撃たないでって言ったでしょ」
「誰が貴様の命令を聞く」
「命令じゃなくて常識!」
男は秘宝を見る。
表情が変わる。
「ついに見つけた。これさえあれば、ドイスは再び――」
「その台詞、古代遺物を兵器にしようとする人って全員同じなの?」
男の顔が歪んだ。
「黙れ」
「考古学者に黙れって言うの、一番無理な注文よ」
銃口が向く。
仲間たちも武器へ手を伸ばす。
スージーは台座を見る。
秘宝。
ドイス残党。
仲間。
そして天井。
嫌なひびがある。
「撃たない方がいいわよ」
男が笑う。
「命乞いか?」
「違う。この広間、水圧で支えてる部分がある」
男は一瞬だけ周囲を見る。
スージーは続けた。
「壁を壊したら、たぶん全部崩れる」
「脅しにはならん」
「だから撃つなって――」
銃声。
石壁が弾けた。
スージーは両耳を伏せた。
直後。
低い音がした。
ごご。
全員が止まる。
天井から砂が落ちる。
ごごごごご。
壁の亀裂から水が噴き出した。
「ほらあああああっ!」
広間が揺れた。
床の一部が割れる。
ドイス兵が倒れる。
別の銃が暴発する。
弾丸が台座へ当たった。
秘宝の外周が、一度回った。
かちり。
スージーが見る。
「……え?」
中央の透明な石が光った。
外周。
二つ目の輪。
三つ目。
次々に回転する。
壁のウテキト文字が淡く光った。
地下のどこかで、巨大な水門が開く音。
どおおおおおおっ。
「何したの!?」
ドイスの男が叫ぶ。
「こっちが聞きたいわよ!」
水が広間へ流れ込んだ。
もう戦っている場合ではなかった。
「撤退!」
スージーが仲間へ叫ぶ。
入口側の床が崩れる。
ドイス兵の何人かが逃げる。
別の者は水に流される。
スージーは台座を見る。
秘宝はまだ光っている。
置いていく。
それが正しい。
遺物は現場に残す。
状況を記録する。
それが考古学の基本。
だが。
広間そのものが崩れる。
次にここへ来られる保証はない。
そしてドイス残党が生き残れば、必ず回収する。
「スージー!」
仲間が叫ぶ。
「分かってる!」
スージーは台座へ飛びついた。
秘宝を掴む。
外れない。
「ちょっと!」
両手で捻る。
円盤の外周が回る。
がちん。
何かが外れた。
秘宝を持ち上げる。
その瞬間。
遺跡全体が震えた。
「やっぱり何か繋がってたああああっ!」
仲間が叫ぶ。
「何で取った!」
「ドイスに渡すよりいいでしょ!」
「遺跡ごと壊れてるぞ!」
「それは撃った奴に言って!」
三人は走った。
帰り道はもう使えない。
スージーは壁の図柄を見る。
水路。
円環。
下へ向かう線。
「こっち!」
「そっちは下だぞ!」
「上は崩れてる!」
地下へ続く階段を降りる。
後ろから大量の水。
逃げる。
階段。
石橋。
狭い通路。
スージーの猫耳は、崩壊音の中から水の流れを拾っていた。
右は大量。
左は少ない。
「左!」
曲がる。
直後、右側の通路が水で埋まった。
仲間が息を切らす。
「何で分かった!」
「耳!」
「便利だな!」
「今だけはね!」
さらに進む。
前方に光。
出口。
三人が走る。
だが、その直前。
床が割れた。
スージーの足元。
仲間の一人が腕を掴む。
「スージー!」
身体が宙へ出た。
下には水。
暗い。
流れが速い。
スージーは片手で仲間の腕を掴み、もう片方でウテキトの秘宝を抱えていた。
床の亀裂が広がる。
仲間の足元まで崩れる。
「離すな!」
「そっちが落ちる!」
「引き上げる!」
「無理!」
スージーは上を見る。
仲間は二人。
このままなら三人とも落ちる。
さらに後方から水が迫っていた。
「先に行って!」
「馬鹿言うな!」
「出口まであと少しでしょ!」
「お前も来い!」
「行くわよ!」
スージーは笑った。
猫耳が少し伏せる。
「後から!」
そして。
掴んでいた手を離した。
「スージー!」
最後に聞こえたのは、仲間の声だった。
猫耳は、それを崩壊音の中でもはっきり拾った。
身体が落ちる。
暗い縦穴。
壁。
水。
秘宝の光だけが、手の中で淡く揺れている。
スージーは落ちながら、それを見る。
「……ラシアホへ導くって」
さらに下で、水音が轟いた。
「こういう意味じゃないでしょうねえええええっ!」
そのまま。
スージーは暗い水の中へ落ちた。




