第百二十五話 調理
送風機が二台になった翌朝、リーゼは珍しく満足していた。
脱穀した穀物は風で選り分けられるようになった。湿り気のある日は屋根の下で乾かせる。薬草も、洗濯物も、場所と風量さえ分ければ同じ仕組みを使える。
水は水槌ポンプが上げる。畑へは円筒分水から流れる。収穫した穀物は手回しの脱穀機で処理し、送風機で選別する。館では電灯が使え、小型電動機も実用になってきた。
最近ずっと続いていた、「便利になったら次の不便が見つかる」という連鎖も、ようやく一息ついたように思えた。
リーゼは朝食を終え、茶を飲みながら言った。
「今日は新しいものを作らんぞ」
クロエが顔を上げる。
「誰に言っている?」
「主に貴様だ」
「私は何も言っていない」
「だから先に言った」
クロエは少し考え、それ以上は何も言わなかった。
リーゼは安心した。
ネイラも朝食を食べている。ルヴァナはエヴァの隣で大きな肉を食べている。アスラはティセラと何か魔術の話をしている。シズクは食後の片づけを始め、ノアも皿を運んでいる。
平和だった。
少なくとも。
「大尉」
エヴァが呼んだ。
リーゼは嫌な予感がした。
「何だ」
「肉回し」
「却下する」
「まだ何も説明してねえぞ」
「説明されなくても分かる!」
エヴァは不満そうに腕を組んだ。
「前から言ってただろ。回るやつ作るなら、肉も回せって」
「言っていたな」
「電動機もできた」
「できた」
「回せる」
「回せる」
「じゃあ肉を回せる」
「理屈だけは通っているのが腹立たしい!」
ルヴァナがぱっと顔を上げた。
「師匠、それ絶対いいやつじゃん」
「だろ?」
「でっかい肉をさ、こう、ぐるぐる回して焼くやつ?」
「それだ」
「めっちゃ欲しい」
リーゼは二人を睨んだ。
「貴様ら、完全に同じ側だな」
ルヴァナはエヴァを指した。
「師匠だから」
「そういうところまで弟子入りするな!」
シズクが食器を片づけながら振り返った。
「ですが、回して焼けるなら、少し助かるかもしれません」
リーゼが止まった。
エヴァがにやりと笑う。
「ほら」
「まだ何も決まっていない!」
シズクは手を拭き、調理場の方を見る。
「大きな肉を焼く時は、焦げないよう何度も向きを変えます。九人分ですと、肉そのものも大きくなりますので」
ノアも頷いた。
「ずっと誰かが火の前にいなくていいなら便利だね」
「聖者まで……」
リーゼは額を押さえた。
クロエが言った。
「構造は簡単だ」
「貴様は黙っていろ!」
「軸をゆっくり回せばいい」
「黙れと言っている!」
ネイラも考え始めた。
「電動機をそのまま繋ぐと速すぎますよね」
「減速する」
クロエが答える。
「歯車でもいい。径の違う輪と帯でもいい」
ネイラが頷く。
「火から電動機を離した方がよさそう」
「そうだな」
二人の会話が完全に設計へ入った。
リーゼは机を叩いた。
「待て! 今日は新しいものを作らんと言っただろう!」
アスラが面白そうに笑う。
「誰も同意していなかったぞ」
「朝一番で宣言した!」
「宣言しただけだ」
「ここは軍隊ではないのだったな!」
「ようやく分かったか」
「貴様に言われたくない!」
ティセラまで口を開いた。
「一定速度で回転させられるなら、加熱の均一化には有効だと思います」
リーゼが教授を見る。
「教授まで賛成なのか」
「食事の質が安定するのであれば」
「研究ではないぞ」
「食事です」
「今日はまともだな」
ティセラが少し不満そうな顔をした。
結局。
作ることになった。
リーゼは最後まで、
「小官は許可したわけではない。必要性を認めただけだ」
と言い張った。
誰も違いを聞かなかった。
調理場の少し外側に、以前から肉を炙るための炉がある。
大きな獣を狩った時には、肉を切り分けて保存するが、その日のうちに食べる分は大きな塊のまま焼くこともある。
問題は、その大きさだった。
エヴァが保存蔵から持ってきた肉塊を見て、リーゼは顔をしかめた。
「でかくないか?」
「九人いるからな」
「九人でも大きい!」
エヴァが両腕で抱えている肉は、普通の家ならそれだけで何日分にもなりそうだった。
ルヴァナが目を輝かせる。
「いいね」
「いいだろ」
「師匠、これ丸ごと?」
「丸ごと」
「絶対うまいやつ」
「貴様らはまず焼けるかを心配しろ!」
シズクは肉を見ながら考える。
「このままですと中まで火を通すのに時間がかかります」
ノアも肉の厚みを見る。
「最初はもう少し小さいので試した方がいいんじゃないかな」
エヴァが不満そうに言う。
「小さくするのか?」
「試作品だからね」
「じゃあ半分」
リーゼが言った。
「それでも大きい!」
最初に必要なのは、肉を通す軸だった。
木では火に近すぎる。
そこで漂着物から回収していた金属棒を使う。
ただし、そのまま刺しただけでは肉が軸の上で滑る。
ノアが金属製の枝のような留め具を考え、肉の両側から固定することにした。
クロエは炉から少し離れた場所へ電動機を置く。
「ここなら熱はかなり下がる」
リーゼが手をかざした。
「それでも長時間使う。さらに離せ」
「軸が長くなる」
「途中で支えろ」
ネイラがすぐに木材を持ってきた。
「軸受けを増やします?」
「そうしよう」
「熱が来る側は木だけだと心配ですね」
ノアが言う。
「石を挟もうか」
リーゼが頷いた。
「それでいい」
ルヴァナが作業を見ながら言う。
「大尉、めっちゃ参加してるじゃん」
「安全確認だ!」
「もう設計してるよ?」
「安全確認の結果、設計を修正しているだけだ!」
エヴァが笑う。
「それ、作ってるって言うんじゃねえか?」
「うるさい!」
電動機から肉の軸へ直接回転を伝えると、当然速すぎる。
そこで大きさの違う輪を組み合わせ、帯を掛ける。
小さな側が何度も回る間に、大きな側がゆっくり一周する。
ノアが説明すると、シズクは何度か見比べた。
「同じ回るものでも、速さを変えられるのですね」
「うん。代わりに力の出方も変わるけど」
リーゼが補足する。
「速さを落とす代わりに、重いものを回しやすくなる」
シズクは肉を見る。
「それなら、こちら向きですね」
「そういうことだ」
クロエが試しに電動機を動かす。
金属軸が回った。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
ルヴァナが数える。
「いーち、にーい、さーん……」
一周するまでかなり時間がかかる。
エヴァが言った。
「遅くねえか?」
シズクは首を振った。
「これくらいでよいと思います」
「そうなのか」
「速く回しても、中まで早く焼けるわけではありません」
エヴァは納得した。
リーゼも言う。
「高速回転する肉など見たくない」
ルヴァナが笑う。
「ちょっと見たい」
「見るな!」
試験用の肉を軸へ固定する。
火を起こす。
シズクが火力を見る。
肉を火の真上ではなく、少し横へずらす。
「始めます」
クロエが電気を流した。
軸が動く。
肉がゆっくり回る。
焼ける面が変わる。
また変わる。
また変わる。
誰も触っていない。
エヴァがしばらく見ていた。
「回ってるな」
「回っているね」
ノアが答える。
「肉だな」
「肉だね」
「焼けてるな」
「焼けてるね」
エヴァは満足そうだった。
リーゼが言う。
「それだけのために作ったんだから、回って焼けなければ困る!」
しばらくすると肉から脂が落ち始めた。
じゅっ。
火へ落ちる。
炎が上がる。
ぼっ。
ルヴァナが歓声を上げる。
「おおっ!」
リーゼが叫ぶ。
「喜ぶな!」
さらに脂が落ちる。
ぼっ。
ぼぼっ。
シズクがすぐ火を見る。
「少し火が強くなります」
リーゼも気づいた。
「脂が直接落ちるのはまずいな」
ノアが言う。
「受け皿を入れよう」
エヴァが聞く。
「脂を捨てるのか?」
シズクが首を振った。
「使えるものは取っておけます」
「ならいい」
エヴァの判断は早かった。
金属板を肉の下へ置く。
少し傾け、落ちた脂が一方へ集まるようにする。
直接火へ落ちる量が減った。
リーゼが頷く。
「これなら炎も安定する」
ネイラは回っている軸を見る。
「途中で止めたい時は?」
クロエが電源を示す。
「切ればいい」
「でも、ちょうど重い側が下になったら、惰性で動きません?」
リーゼが軸を見る。
少し考える。
「止め具をつけるか」
「穴を何か所か開けて、棒を差す?」
「それでいい」
ルヴァナが言う。
「棒、ここでも使うんだ」
シズクが少し嬉しそうに言った。
「棒は便利です」
リーゼが遠い目をした。
「第五だけではなく調理設備まで棒で管理するのか……」
「固定用ですから、用途が違います」
「それは分かっている」
しばらく焼く。
表面が色づいていく。
肉の向きは一定の速さで変わり続ける。
以前なら、シズクかノアが何度も様子を見て、手で向きを変えていた。
今は火加減さえ見ていればいい。
もちろん放っておけるわけではない。
火は生きている。
肉の厚さも均一ではない。
脂の落ち方も変わる。
だが、手間は確実に減っていた。
シズクが別の料理を作りながら、時々肉を見る。
「これなら、こちらを作りながらでも見られます」
リーゼが腕を組んだ。
「完全自動ではないが、それでいい」
ノアも頷く。
「料理まで全部機械に任せる必要はないからね」
クロエが言う。
「温度を測って制御すれば、もっと自動化できる」
リーゼが即座に振り向いた。
「するな!」
「できると言っただけだ」
「その顔はやる顔だ!」
ネイラが笑いを堪える。
アスラは回る肉を見ていた。
「これも魔術で回せるな」
リーゼが今度はアスラを見る。
「今日は電気でいい!」
「別に奪うとは言っていない」
「貴様らはすぐ同じものを別方式で作ろうとする!」
アスラは少し笑った。
「競う相手がいる方が発展する」
クロエも言う。
「それには同意する」
「そこで意気投合するな!」
一時間ほどして、最初の肉が焼けた。
電気を切る。
止め具を入れる。
シズクが肉を切る。
外側。
中ほど。
中心。
火の通り方を確認する。
エヴァとルヴァナが、その一挙一動を見ていた。
「まだ?」
「少し待ってください」
「もう食えそうだぞ」
「切って確認しますので」
「師匠、待とう」
「お前が言うのか」
「中が生だったらもったいないじゃん」
エヴァが納得した。
「それもそうだな」
リーゼが二人を見る。
「食欲で理性を取り戻すな」
シズクが中心まで確認する。
「大丈夫です」
エヴァとルヴァナが同時に動いた。
「待て!」
リーゼの声で二人が止まる。
「まだ切り分ける!」
「焼けたんだろ?」
「九人分だ!」
「俺が切る」
「貴様が切ると全部大きい!」
シズクが笑いながら包丁を取った。
その日の昼食は、予定よりかなり豪華になった。
焼いた肉。
朝採れた野菜。
豆。
穀物。
汁物。
そして、回転させながら焼いた肉から取れた脂を少し使った料理も加わった。
エヴァが肉を食べる。
噛む。
目を細める。
「うまい」
ルヴァナも食べる。
「うまっ」
二人が顔を見合わせた。
「師匠、これ成功だね」
「成功だな」
リーゼが言う。
「そこは小官も否定しない」
クロエが聞く。
「なら常設するか」
「する」
返事が早かった。
クロエが少しだけ笑う。
リーゼは気づいた。
「何だ」
「朝は作らないと言っていた」
「必要性が実証されたから採用しただけだ!」
ルヴァナが笑う。
「完全に設備担当じゃん」
「違う!」
ティセラも肉を食べながら言う。
「火の当たりが均一ですね」
シズクが頷く。
「焼いている間に別の料理ができるのが助かります」
ノアも肉を見た。
「これなら大きい塊でも試せそうだね」
エヴァがすぐ反応した。
「朝のやつ」
「次はね」
「今日の夜」
「早いよ」
「もう一個焼けばいいだろ?」
シズクが少し考えた。
「夕食まで時間がありますから、試すだけなら」
リーゼがシズクを見る。
「貴様まで完全に運用側へ回ったな」
「便利ですので」
「その言葉は強いな……」
午後。
朝に見送られた大きな肉塊が、とうとう軸へ固定された。
今度は重い。
かなり重い。
クロエが電動機を動かす。
軸が少し動く。
止まりそうになる。
また動く。
リーゼの目が細くなった。
「負荷が大きい」
クロエも頷く。
「減速をもう一段増やす」
ネイラが言う。
「もっとゆっくりに?」
「その代わり回せる」
輪を組み替える。
再び動かす。
今度は。
ゆっくり。
確実に。
巨大な肉塊が回り始めた。
エヴァが感心する。
「力あるな」
ルヴァナも言う。
「あんな小さいのに」
リーゼが電動機を見る。
「そこが機械の面白いところだ」
電動機そのものが、エヴァやルヴァナほど力を出しているわけではない。
速さを変える。
仕組みを介する。
必要なところへ力を使う。
人間がずっと腕で回し続けなくても、同じ動きを繰り返してくれる。
エヴァが言った。
「じゃあ、もっとでかい肉も」
「増やすな!」
「黒たちの分とか」
リーゼが止まった。
「……あいつらは自分で食えるだろう」
「焼いた肉も食いたいかもしれねえぞ」
「それは本人たちに聞け!」
「今度聞く」
「本当に聞くのか……」
夕方。
巨大な肉がゆっくり回っている。
その向こうでは水車が回っている。
少し離れたところでは、水槌ポンプが一定の間隔で鳴っている。
ばん。
しばらくして。
ばん。
高い場所へ水が上がる。
貯水槽から水路へ流れる。
畑へ。
薬草区画へ。
予備貯水へ。
大型生物の水場へ。
館では電灯が点く。
乾燥場所では送風機が回る。
工作室ではクロエとネイラが道具を片づけている。
アスラは魔術工房へ戻り、ティセラは今日の記録を書いている。
ルヴァナはエヴァと肉の前に座り、焼けるのを待っている。
シズクは夕食の支度。
ノアは薪を追加する。
リーゼは少し離れたところから、それらを見ていた。
最初に水車を作った時には、ここまで増えるとは思っていなかった。
電気ができた。
灯りをつけた。
小型電動機を作った。
回してみた。
水を上げようとして、電気ではなく水槌ポンプを使うことになった。
畑へ水を流したら、今度は作物が育ちすぎた。
収穫したら脱穀が大変になった。
脱穀機を作ったら、選り分ける風が必要になった。
風を作ったら、乾燥にも使えることが分かった。
そして。
今は肉が回っている。
リーゼは腕を組んだ。
ノアが隣へ来る。
「どうしたの?」
「いや」
リーゼは少し考えた。
「一つ便利にすると、次にやることが増えるなと思ってな」
ノアが笑う。
「そうだね」
「便利になれば仕事がなくなると思っていた」
「なくなる仕事もあるよ」
「だが、別の仕事が見える」
「うん」
リーゼは水槌ポンプを見る。
以前なら水を運んでいた。
今は運ばない。
その代わり、水路を見る。
貯水槽を見る。
分水を見る。
以前なら穀物を手で脱穀していた。
今は機械を回す。
以前なら風を待った。
今は送風機を使う。
仕事が消えたわけではない。
人が、何に手を使うかが変わった。
リーゼが言った。
「まあ、悪くはない」
ノアが頷く。
「僕もそう思う」
「水を運ぶためだけに一日使わなくていい。肉を回すためだけに火の前へ座らなくていい。その時間で別のことができる」
「うん」
「……その結果、教授は研究する時間が増えたが」
二人でティセラを見る。
教授は記録板へ何かを書き込んでいた。
アスラが横から覗いている。
ノアが苦笑した。
「それも別のことだね」
「そこだけは失敗だったかもしれん」
ティセラが遠くから顔を上げた。
「聞こえていますよ」
「聞こえるように言った!」
夕食。
巨大な回転肉は成功した。
エヴァが大喜びした。
ルヴァナも大喜びした。
シズクは何より、肉を焼いている間に他の料理を作れたことを喜んだ。
クロエは回転機構の耐久性。
ネイラは軸受けの摩耗。
アスラは魔術駆動へ置き換えた場合。
ティセラは加熱の均一性。
それぞれ見ている場所が違った。
リーゼだけは。
「今日は食え!」
と全員へ言った。
珍しく。
全員が従った。
食後。
エヴァが満足そうに椅子へ背を預けた。
「これで肉回しもできたな」
「そうだな」
「次は何作る?」
リーゼが即答した。
「作らん」
「何でだよ」
「十分作った!」
クロエが言う。
「研磨用の回転盤は」
「後だ!」
ネイラが言う。
「穴を開ける道具も」
「後!」
アスラが言う。
「魔術と電気の複合回転機構は」
「もっと後!」
ティセラが言う。
「温度を一定にする装置があれば」
「教授まで増やすな!」
ルヴァナが笑う。
「大尉、全部『作らない』じゃなくて『後』になってるよ」
リーゼが止まった。
全員が見る。
リーゼはしばらく黙った。
「……今は作らん」
エヴァが笑った。
「そのうち作るんだな」
「今日はもう何も作らん!」
「明日は?」
「休む!」
「明後日は?」
「知らん!」
シズクが静かに茶を置いた。
「では、明日は普通に過ごしましょう」
リーゼが勢いよく頷いた。
「そうだ。それでいい。畑を見て、水路を見て、必要な仕事をして、飯を食って、風呂へ入って寝る。それでいいんだ」
ノアが笑う。
「普通だね」
「普通が一番だ!」
館の外では、水車が回っていた。
ばん、と水槌ポンプが鳴る。
送風機は今日の仕事を終えて止まっている。
電灯は静かに館を照らしている。
調理場の脇には、今日完成した肉を回す装置が残っている。
いつの間にか増えた設備のどれも、作った時には大仕事だった。
だが、明日からはただの生活道具になる。
水車も。
電灯も。
水槌ポンプも。
分水も。
脱穀機も。
送風機も。
そして肉回しも。
リーゼはそれらを見渡してから、館へ戻った。
「しばらくは、これで十分だ」
今度は誰も反論しなかった。
少なくとも、その夜は。




