第百二十一話 米
朝の谷底へ、鶏の声が響いていた。
「コケケッコォォォォォー!」
もちろん、鶏はいない。
少し離れた林で、朝方の風を受けた鶏の木が鳴いている。卵そのものにしか見えない実をつけ、朝になると鶏そっくりの声まで上げる、リーゼが考えることを放棄した木だった。
その声を聞きながら、シズクは共同調理場で朝食を作っていた。
卵の実を割って焼き、昨日採った野菜を刻み、汁物の鍋を火へかける。九人分となれば量は多いが、最近は役割分担も決まり、食事の準備そのものにはかなり慣れてきていた。
館の外では、別の音がしている。
どん。
ざっ。
どん。
時々、ルヴァナの声。
「うわっ!」
さらに、エヴァの笑い声。
「腰が高い!」
「分かってるって!」
「分かってる奴は今ので浮かねえ!」
「もう一回!」
シズクは窓の外を見る。
バルコニーの前にある開けた地面で、エヴァとルヴァナが組み合っていた。
少し前から、ルヴァナはエヴァを「師匠」と呼ぶようになった。
理由は単純である。
力で勝てない。
真正面からぶつかって勝てない。
押しても動かない。
持ち上げようとしても持ち上がらない。
そして何より、ルヴァナ自身がかなり強いからこそ、自分より遥かに強い相手が面白くて仕方がなかった。
「師匠!」
「何だ!」
「今度こそ!」
「来い!」
ルヴァナが踏み込む。
速い。
低く入る。
エヴァの腰へ腕を回し、そのまま脚と背中を使って持ち上げようとする。
動いた。
ほんの少し。
「おお!」
ルヴァナの顔が明るくなる。
次の瞬間。
「まだ甘い!」
エヴァが腰を落とした。
ルヴァナの身体が止まる。
そこから逆にエヴァが身体を入れ替えた。
「え?」
ルヴァナの視界が回る。
どさっ。
土の上へ仰向けになった。
エヴァが見下ろす。
「今のは良かった」
「負けたのに?」
「前より動いた」
ルヴァナは寝転がったまま笑った。
「じゃあ、もう一回」
「いいぞ」
立ち上がる。
また組む。
押す。
引く。
足をかける。
エヴァはほとんど動かない。
ルヴァナは何度倒されても立つ。
そのうち、調理場からシズクの声がした。
「朝ごはんですよー」
ルヴァナはエヴァへ組みついたまま止まった。
「……師匠」
「何だ」
「お腹すいた」
「俺もだ」
二人は同時に離れた。
勝負は終わった。
食事の方が優先だった。
◇
ルヴァナは朝食をものすごい勢いで食べていた。
「おいしい」
シズクが笑う。
「たくさん動いていましたからね」
「めっちゃお腹すいた」
エヴァも隣で食べている。
こちらも速い。
ルヴァナが肉を取る。
エヴァも取る。
根菜。
二人とも取る。
卵の実。
同時に取る。
リーゼが向かいから二人を見る。
「貴様ら、朝から何を競っている」
ルヴァナが卵を口へ入れる。
「競ってないよ」
エヴァも食べる。
「腹減ってんだ」
「食卓でまで相撲をするなよ」
「してねえよ」
ルヴァナはさらに飯を口へ運んだ。
そこで。
止まった。
椀の中を見る。
もう一口。
噛む。
そしてシズクを見る。
「シズクさん」
「はい?」
「そういえばさ」
「はい」
「お米って、どこで作ってるの?」
リーゼの手が止まった。
「米?」
ルヴァナが頷く。
「うん。これ」
自分の椀を指す。
リーゼも見る。
シズクが時々炊く、白い穀物。
リーゼの国には米を主食とする文化はない。
谷底へ来てから食べたことはある。シズクやノアから穀物だということも聞いている。
だが。
どう育てているのかまでは、気にしていなかった。
「穀物畑ではないのか?」
「田んぼじゃなくて?」
「田んぼ?」
今度はルヴァナがリーゼを見る。
「水張って作るじゃん」
リーゼの眉が寄った。
「水を張る?」
「うん」
「畑に?」
「田んぼに」
「何が違う」
「えーっと……」
ルヴァナが困ってシズクを見る。
シズクが答える。
「私の知る米は、水を張った田で育てることが多いですね」
リーゼの顔が止まった。
「待て」
全員が見る。
リーゼはシズクを見る。
「水が必要なのか?」
「かなり」
「かなり?」
「はい」
リーゼの頭の中で、最近作った設備が一斉に浮かんだ。
水槌ポンプ。
高所貯水槽。
円筒分水。
畑への水路。
作物ごとの分水量。
そのどこにも。
水田。
という項目はない。
リーゼが卓へ両手をついた。
「何故、今まで話に上がっていない!」
シズクが少し困った。
「必要ありませんでしたので」
「米を食っているだろう!」
「食べています」
「なら作っているのではないのか!?」
「作っています」
「どこで!」
ルヴァナも頷く。
「それ、あたしも知りたい」
リーゼはさらに考える。
「それに麦もだ」
シズクを見る。
「以前から穀物畑があると言っていたな」
「はい」
「麦なら刈る。脱穀する。選別する。粉にするなら挽く。最近になって脱穀の手間を問題にしたが、今までその作業をどこでやっていた?」
シズクが首を傾げた。
「そこまで大変ではありませんよ」
リーゼの嫌な予感が急速に大きくなった。
「……どういう意味だ」
ティセラが朝食を食べながら顔を上げた。
「見に行けば早いのでは?」
リーゼは教授を見る。
「知っているのか」
「見たことはあります」
「何故、黙っていた!」
「聞かれませんでしたので」
クロエが小さく笑った。
リーゼが振り向く。
「そこ! 忍者と同じ答えをするな!」
◇
朝食の後。
穀物畑へ向かったのは、シズク、リーゼ、ティセラ、ルヴァナだった。
エヴァも来ようとしたが、ルヴァナに、
「師匠、あとでまた相撲ね」
と言われ、
「おう」
と答えて別の仕事へ行った。
穀物畑は、日常の野菜畑から少し離れたところにある。
シズクが主に管理している場所だった。
ルヴァナも畑仕事を手伝っている。
だから場所そのものは知っている。
近づく。
そして。
ルヴァナが止まった。
「あれ?」
リーゼも見る。
地面から。
色とりどりの葉が生えている。
その下。
土から少し頭を出しているのは。
太い根。
赤。
橙。
黄。
白。
紫。
青みがかったものまである。
どう見ても。
「ここって、カラフルなニンジン畑だよね?」
ルヴァナが言った。
リーゼの足が止まった。
何か。
覚えがある。
形は違う。
状況も違う。
だが。
以前。
白い楕円形の実を見て。
卵だと思った。
割っても卵。
焼いても卵。
食べても卵。
なのに。
木の実だった。
その木は鶏の声で鳴いた。
リーゼは色とりどりのニンジンを見る。
そして。
ものすごく嫌そうな顔でシズクを見た。
「シズク」
「はい」
「先に聞く」
「はい」
「これはニンジン畑か?」
シズクは普通に答えた。
「いえ。穀物畑です」
リーゼは目を閉じた。
「やはりか……」
ルヴァナが叫ぶ。
「いやいやいや、ニンジンじゃん!」
「私も最初はそう思いました」
「根っこだよ!?」
「はい」
「穀物どこ!?」
シズクは畑へ入った。
橙色の一本を選ぶ。
普通のニンジンのような葉を掴む。
「この中です」
ルヴァナが畑を見る。
リーゼも見る。
ティセラだけは静かに観察している。
シズクは土からその一本を抜いた。
どう見てもニンジンだった。
太さも。
形も。
葉も。
少し大きいが、ニンジンの範囲である。
リーゼが言う。
「それはニンジンだ」
「穀物です」
「ニンジンだろう」
「中身が穀物なんです」
「その説明がもうおかしい!」
シズクはニンジンの葉の根元へ指をかけた。
「ここを抜きます」
きゅっ。
そして。
ポン!
軽快な音がした。
リーゼの眉が跳ねた。
ルヴァナの目が丸くなる。
シズクはすぐ横に置いてあった笊を取り、そのニンジンを逆さまにした。
さらさらさらさら。
白い粒が落ちた。
笊の中へ積もる。
ルヴァナが覗き込む。
「……米」
シズクが頷く。
「お米です」
リーゼも覗く。
白い粒。
以前から食卓で見ているものと同じ。
「待て」
ニンジンを見る。
米を見る。
もう一度ニンジン。
「何故だ」
シズクが答える。
「そういうものですので」
「説明を諦めるな!」
ティセラが横から補足する。
「内部は成熟するまでかなり安定した閉鎖構造になっています。外皮そのものが保存容器の役割を兼ねているようですね」
リーゼが教授を見る。
「米がニンジンから出てくる理由を聞いている!」
「そこはまだ分かっていません」
「教授にも分からないのか!」
「はい」
リーゼは少し安心した。
谷底には、教授にも分からないものがある。
それだけで少し救われる。
ルヴァナは別の色の一本を指差した。
「じゃあ、こっちは?」
シズクが黄色に近いものを抜く。
葉の根元を引く。
ポン!
笊へ逆さまにする。
ざらざらざら。
今度は薄茶色の粒。
リーゼが見る。
「麦か?」
「小麦です」
「小麦まで!」
ルヴァナが紫色のものを見る。
「じゃ、これ!」
自分で抜いた。
シズクが止めるより先に、葉の根元を引く。
ポン!
「わっ」
白いものが舞った。
ルヴァナの顔。
髪。
服。
周囲。
真っ白な粉。
数秒。
誰も動かなかった。
ルヴァナがゆっくり口を開く。
「……粉?」
シズクが答える。
「小麦粉ですね」
リーゼが叫んだ。
「加工済みまであるのか!」
ルヴァナが粉まみれの顔で笑い始めた。
「何これ!」
シズクは布を渡す。
「こちらは笊ではなく、袋へ入れてから開けた方がいいですよ」
「先に言って!」
「ルヴァナさんがすぐ抜いてしまいましたので」
「だって米、小麦って来たら次も見たいじゃん!」
ティセラは白い粉を指先で確認する。
「確かに粉砕済みですね」
リーゼが額を押さえた。
「麦を刈って」
「はい」
「乾燥させて」
「はい」
「脱穀して」
「はい」
「選別して」
「はい」
「挽いて」
「はい」
「粉にする」
「普通なら」
リーゼは紫のニンジンを見る。
「これは?」
シズクが答える。
「抜いて、開ければ小麦粉です」
「工程が消えすぎだろう!」
◇
そこからは。
色の確認になった。
白に近いもの。
米。
黄色。
小麦。
紫。
小麦粉。
少し青いもの。
別の穀物。
赤いもの。
粗く挽かれた粉。
同じ種類でも色合いが少し違えば、中身の加工状態まで違うものがある。
ルヴァナは完全に面白くなっていた。
「これ、ガチャみたい」
リーゼがすぐ言う。
「色で分かるのだろう!」
「分かるけど」
「ならガチャではない!」
「でも開ける時、ポンってするじゃん」
一本。
ポン!
米。
もう一本。
ポン!
麦。
袋の中で。
ポン!
小麦粉。
ルヴァナが笑う。
「楽しい」
リーゼは楽しくない。
「何故、穀物の収穫に娯楽性があるんだ……」
シズクは慣れた手つきで収穫したものを分けていく。
「必要な分だけ開ければいいんです」
リーゼが顔を上げた。
「必要な分だけ?」
「はい。開けずにそのまま置いておけば、かなり長く保存できます」
リーゼが止まった。
「どのくらいだ」
シズクが少し考える。
「正確には分かりません。ただ、館へ来た頃に収穫したものでも、状態の良いものはまだ問題ありません」
リーゼの顔が変わった。
軍人の顔になった。
「保存設備なしで?」
「乾いたところには置いていますが、特別なことはしていません」
「虫は?」
「中へは入りにくいようです」
「湿気は?」
「外側が傷んでいなければ、中はかなり安定しています」
リーゼが一本持ち上げる。
先ほどまでニンジン扱いしていたものを見る目ではなかった。
「携行できるな」
ティセラが頷く。
「容器と食料を兼ねていますね」
「落としても?」
シズクが答える。
「多少なら平気です」
「非常食として優秀すぎるだろう」
ルヴァナが言う。
「でも見た目ニンジンだよ?」
「そこはもう諦めた!」
リーゼは一本を手にしたまま考える。
穀物を刈り取る必要がない。
脱穀も。
場合によっては製粉すらいらない。
しかも開封前なら長期保存。
水田も必要ない。
畑で育つ。
水は普通の作物と同程度に管理すればいい。
最近。
水槌ポンプを作った。
円筒分水を作った。
脱穀の手間を減らそうとした。
送風機で選別しようという話までしている。
リーゼは静かにシズクを見た。
「……シズク」
「はい」
「この前、穀物の脱穀が大変だという話をした時」
「はい」
「何故これを言わなかった」
シズクは少し考えた。
「こちらとは別の穀物についてのお話だと思っていましたので」
リーゼの顔が引きつる。
「別?」
「普通に穂へ実るものもありますよ」
「あるのか!」
「はい」
「では何故、こっちだけで済ませない!」
シズクは困ったように笑った。
「味が違いますので」
リーゼが黙った。
それは。
正しい。
非常に正しい。
「……食事は効率だけではないか」
「はい」
「分かった」
珍しく素直に納得した。
◇
ところで。
問題が一つ残っていた。
中身を出した後のニンジンである。
リーゼが、空になった一本を持っていた。
持った感じでは。
軽い。
中に米が詰まっていた部分は空洞になっている。
外側はどう見てもニンジン。
リーゼが聞く。
「これは捨てるのか?」
シズクが驚いた顔をした。
「食べられますよ」
「食えるのか!?」
「はい」
ルヴァナがすぐに一本取った。
「生で?」
「大丈夫です」
かじる。
しゃくっ。
ルヴァナが噛む。
もう一口。
「ニンジンだ」
リーゼが言う。
「ここまで来て普通なのか!?」
ルヴァナは笑う。
「めっちゃニンジン味」
シズクも頷く。
「煮ても焼いても使えます」
リーゼは自分でも少しかじった。
しゃく。
甘い。
ニンジン。
何のひねりもない。
「米を出した後なのに……」
ティセラが言う。
「外殻部分は根菜としての組織を維持しています」
「教授」
「はい」
「もう分類しなくていい」
「ですが興味深いですよ」
「興味深すぎて疲れた」
するとシズクが、さらに言った。
「食べない場合は、樽へ入れておくこともできます」
リーゼの動きが止まる。
「何になる」
もう予想したくなかった。
シズクが答える。
「糠です」
リーゼは無言だった。
ルヴァナも止まった。
ティセラだけが普通に頷いた。
数秒後。
ルヴァナが聞く。
「……ニンジンが?」
「はい」
「米を出した後の?」
「はい」
「置いとくと?」
「糠になります」
ルヴァナは腹を抱えて笑い始めた。
リーゼは笑えなかった。
「待て。米糠とは」
「普通なら、お米を精米した時に出ますね」
「それを何故、ニンジンが担当する!」
シズクは少し考えた。
「便利だからでしょうか」
「誰に聞いている!」
◇
その日の昼。
共同食事場には。
米。
小麦を使ったパン。
野菜。
そして。
中身を抜いた後のニンジンを使った料理が並んだ。
ルヴァナは朝の相撲で腹を空かせていたこともあり、よく食べた。
隣のエヴァも食べる。
「これうまいな」
「それ、米出てきたニンジン」
「そうなのか」
エヴァがもう一つ食べる。
「うまけりゃいいだろ」
リーゼが遠い目をした。
「貴様は強いな」
「何が?」
「精神が」
エヴァは意味が分からないまま食べ続けた。
クロエは話を聞き、実物を一つ持ち上げていた。
「長期保存できるのか」
シズクが頷く。
「はい」
アスラも別の色を見る。
「粉の状態でも?」
「開けなければ」
ネイラが興味深そうに外皮を見る。
「天然の密閉容器になっているのね」
ティセラが頷く。
「種類によって内部加工まで異なります」
ルヴァナが笑いながら言う。
「姉ちゃん、紫のやつ開ける時は袋の中でやった方がいいよ」
「どうして?」
「こうなるから」
自分の髪を指す。
洗ったはずなのに、まだ少し白い粉が残っていた。
ネイラが笑った。
「分かった」
リーゼは食卓を見る。
米。
パン。
ニンジン料理。
全部。
同じ畑に生えていた、色違いのニンジンのようなものから来ている。
外では。
「コケケッコォォォォォー!」
遅れて吹いた風に、鶏の木が鳴いた。
リーゼは箸を止めた。
卵は木になる。
穀物はニンジンに詰まっている。
小麦粉は収穫した時点でもう粉。
空になった殻はニンジンとして食べられる。
食べなければ糠になる。
リーゼは静かに言った。
「この谷底では」
ノアが見る。
「うん?」
「農業を学び直した方がいい気がしてきた」
ノアは少し考えた。
「僕もそう思う」
「貴方もか」
「前世の知識がそのまま使える植物ばかりじゃないからね」
ティセラが嬉しそうに言う。
「では、全作物の構造と生育特性を一度――」
リーゼが即座に止めた。
「教授」
「はい」
「一覧だけでいい」
「研究は?」
「必要になったものからだ!」
ティセラは少し残念そうだった。
ルヴァナは茶碗の米を見た。
それから、朝見たカラフルな畑を思い出す。
「でもさ」
「何だ」
リーゼが見る。
ルヴァナは米を一口食べた。
「田んぼ作らなくていいなら、楽じゃん」
リーゼは答えようとして。
止まった。
水を張る必要がない。
田を作る必要もない。
脱穀もない。
精米の一部まで済んでいる。
長期保存できる。
外側まで食べられる。
確かに。
「……楽だな」
シズクが笑った。
「はい」
リーゼはもう一口、米を食べた。
外ではまた、鶏の木が鳴いている。
「コケッ」
リーゼは何も言わなかった。
卵の木に比べれば。
米がニンジンから出てくる程度。
もう少しで、普通だと思えるところまで来ていた。




