第百十九話 草取り
水やりを楽にしたら、雑草まで元気になった
円筒分水に四つ目の行き先が増えた翌朝、谷底の畑では誰も水桶を持っていなかった。
水槌ポンプは、館より少し高いところに置かれた貯水槽へ、夜通し水を送り続けている。
ばん、と鳴る。
少し間を置いて、また、ばん、と鳴る。
その水は貯水槽から自然に下り、小さな円筒分水へ入る。中心から湧き上がった水が全周から均等にあふれ、それぞれ幅の違う区画へ落ちていく。
一番広いところから日常の畑。
次が薬草と育苗。
もう一つが予備の貯水。
そして最後に追加された、かなり幅の広い水路。
『黒』
リーゼは、その札を見るたびに妙な敗北感を覚えていた。
「何故、灌漑設備の正式な分水先に馬の名前があるんだ……」
隣でエヴァが笑う。
「黒だからだろ」
「それは分かっている!」
黒用の水路は畑から少し離れたところへ延び、その先に大きな水槽が置かれている。
大きい。
普通の馬用などではない。
黒が頭を下げても楽に飲める高さと幅を確保し、ノアが丸太と石で組んだものだった。
昨日まで黒が狙っていた高所の貯水槽には蓋が付き、その周囲からも飲めないようになっている。
今朝、黒は新しい水場を見つけると、しばらく匂いを嗅いだ。
そして飲んだ。
ごくごくごくごく。
リーゼが腕を組んで見守る。
「どうだ」
エヴァが黒の様子を見る。
「気に入ったみたいだぞ」
「ならよし」
「水、減ってるぞ」
「分かっている!」
黒用の水槽はかなり大きい。
それでも水面が目に見えて下がっていく。
だが。
飲んでいるそばから、水路を通って新しい水も流れ込んでいた。
黒が飲む。
水が入る。
黒が飲む。
水が入る。
飲む量の方がまだ多い。
リーゼの眉間に皺が寄る。
「……分水比をもう少し増やすか」
エヴァが笑った。
「一番多くなりそうだな」
「認めたくないが、実需だ!」
その横ではルヴァナが黒の巨大な頭を撫でていた。
「よかったねー。専用じゃん」
黒が鼻を鳴らす。
少し離れたところにキマイラ、鵺、ユニコーン、ペガサスもいる。
四匹とも水槽を見る。
リーゼが止まった。
「待て」
ユニコーンが先に水槽へ近づく。
ペガサスも。
鵺も。
キマイラも。
「待て待て待て」
四匹が飲み始めた。
黒も飲む。
巨大生物五匹。
水面が一気に下がる。
リーゼが円筒分水の方を振り返った。
「黒ではない!」
エヴァが首を傾げる。
「何が?」
「分水先の名前だ! 『黒』では足りん!」
ルヴァナが笑う。
「じゃあ『黒たち』?」
「設備台帳へそんな名前を書くな!」
◇
結局。
札は変更された。
『大型生物水場』
リーゼはそれを見て満足そうに頷いた。
「これならいい」
クロエが言う。
「最初からそうすればよかったな」
「貴様は昨日言え!」
「面白かったから」
「忍者はそういうところだぞ!」
その騒ぎをよそに。
畑の方では、水が静かに流れ続けている。
今までの水やりは、かなり人力だった。
水路が近い場所なら小さな溝へ流す。
離れたところなら桶で運ぶ。
新しく植えた場所なら、一株ずつ様子を見ながら水をやる。
雨が多ければ減らす。
乾けば増やす。
谷底は水そのものには困らない。
しかし、必要な場所へ持っていく仕事は消えなかった。
今は。
水槌ポンプが高い場所へ水を送り。
貯水槽へ貯め。
円筒分水が大まかな量を分け。
そこから細い水路へ流れる。
シズクは畑の畝の間にしゃがみ込み、流れてくる水を指で触った。
「ちゃんと来ています」
リーゼが横から確認する。
「多すぎないか?」
「今のところは大丈夫だと思います」
ティセラも土を触る。
「こちらは少し減らした方がいいですね」
薬草区画である。
リーゼが円筒分水を見る。
「分水比そのものを変えるか?」
ティセラは首を振った。
「今すぐそこまでしなくてもいいでしょう。こちらの水路入口で少し絞れば十分です」
ノアが頷く。
「円筒分水は大まかな割合を決めるところにして、畑の中では小さな調整をした方がいいね」
「細かく分け始めたら、円筒が巨大になるからな」
リーゼも納得する。
ネイラが円筒分水を見ながら言った。
「外周を可変にできませんか?」
リーゼの顔が嫌そうになる。
「また改造か」
「季節によって必要な水量は変わるでしょう?」
「それは正しい」
「植える作物が変わっても」
「正しい」
「なら、仕切り位置を動かせるようにすれば」
クロエがすぐ加わった。
「円周に沿って溝を切り、仕切り板を移動式にする」
ネイラが頷く。
「目盛りも付けましょう」
リーゼが二人を見る。
「……便利だな」
クロエが言う。
「だろう」
「その得意げな顔が腹立つ!」
それでも改良案は採用された。
円筒分水の外周へ目盛りを付ける。
仕切りをある程度動かせるようにする。
日常畑何割。
薬草何割。
予備何割。
大型生物水場何割。
数字で決めれば、後から変更した時にも分かりやすい。
ティセラが記録板へ書く。
リーゼも覗き込む。
「大型生物が五匹になった分、水場を増やす」
「はい」
「日常畑は今のところ維持」
「はい」
「薬草は少し減らす」
「はい」
エヴァが後ろから言った。
「役所だな」
リーゼが振り返る。
「違う!」
「水利役所」
「違うと言っている!」
クロエも言う。
「分水管理官」
「官職を作るな!」
ルヴァナが笑う。
「水の大尉」
「意味が分からん!」
◇
昼前。
水やりがほぼ自動になったことで、シズクは珍しく手が空いていた。
畑へ行く。
水桶を持たない。
水を汲まない。
運ばない。
畝へ流れている水を確認するだけ。
シズクは少し不思議そうに自分の両手を見る。
「……楽ですね」
ノアが笑う。
「いいことじゃない?」
「はい。ただ、今までこの時間は水を運んでいましたので」
「他のことができるよ」
「そうですね」
シズクは畑を見渡した。
野菜はよく育っている。
谷底では、とにかく植物の成長が早い。
普通なら何日もかかる変化が、目に見えて進む。
種を蒔いたと思えば芽が出る。
芽が出たと思えば葉が増える。
収穫した場所にも、すぐ次が育つ。
人数が増えた今ではありがたい。
畑を広げても、食べる量へ追いつける。
シズクは満足そうに頷いた。
そして。
少し離れた畝を見る。
「……あ」
ノアも見る。
「どうしたの?」
シズクは指差した。
「雑草も元気です」
ノアが黙った。
昨日までは小さかった草が。
増えている。
かなり。
水路の周囲など特にひどい。
新しく水を流し始めた場所へ、まるで待っていたように草が生えている。
ノアがしゃがむ。
「早いなあ」
「昨日、ここは抜きましたよね?」
「抜いたね」
「全部?」
「かなり」
シズクは草を見る。
ノアも見る。
しばらくして。
「水が来るようになったからかな」
シズクが頷く。
「元気になったのでしょうね」
「野菜だけ元気になるわけじゃないからね」
二人でしばらく黙った。
シズクが言う。
「抜きましょうか」
「抜こうか」
そこへルヴァナが来た。
「何してんの?」
シズクが答える。
「草取りです」
「水やり楽になったんじゃなかった?」
「水やりは楽になりました」
ルヴァナが畑を見る。
「……増えてない?」
「増えています」
「昨日こんなんだった?」
「違いました」
「早っ」
ルヴァナもしゃがむ。
一本抜く。
根まで長い。
「うわ」
シズクが別の一本を抜く。
「こちらもですね」
ノアも抜く。
「水路の近くはかなりすごいな」
ルヴァナが笑った。
「仕事減った分、別の仕事増えてんじゃん」
シズクが少し考える。
「そうですね」
「意味なくない?」
シズクは首を振った。
「水を運ぶより、こちらの方が楽です」
「そうなの?」
「はい。草は皆で抜けますから」
ルヴァナが納得する。
「じゃあ抜こ」
三人で始めた。
◇
十分後。
エヴァが参加した。
「引っこ抜けばいいんだな」
「根からお願いします」
シズクが言う。
エヴァが草を掴む。
引く。
ぼこっ。
草だけではなく、その周囲の土ごと大きく持ち上がった。
シズクが固まる。
「エヴァ」
「ん?」
「もう少し優しく」
「根から抜いたぞ」
「畑まで抜けています」
「戻せばいいだろ」
「そういう問題ではありません」
エヴァは土塊を戻した。
手で押す。
どん。
シズクが言う。
「もっと優しく」
「難しいな」
リーゼもやって来た。
畑を見る。
「何だこれは」
ルヴァナが草を抜きながら答える。
「水やったら雑草も喜んだ」
リーゼの顔が固まる。
「自動灌漑の初日に?」
「初日に」
「早すぎるだろう!」
ティセラも来る。
畑を見る。
眼鏡を直す。
「当然ですね」
リーゼが振り向く。
「当然なのか!?」
「この谷底の植物成長速度を考えれば、水分条件が改善された雑草も成長します」
「教授、分かっていたなら先に言え!」
「野菜の成長も改善されます」
「そちらだけ聞きたかった!」
クロエとネイラも見に来た。
クロエが草を見る。
「刈る機械を作るか」
リーゼが即答する。
「待て」
ネイラは畝の間を見る。
「回転刃?」
「貴様も待て!」
クロエは真面目だった。
「電動機がある」
「昨日はポンプ、今日は草刈り機か!」
ネイラが言う。
「用途としては自然です」
「自然に機械を増やすな!」
ノアが笑いながら草を抜いている。
「でも、そのうちあってもいいかもね」
リーゼがノアを見る。
「聖者まで」
「畑がもっと広がったらね」
リーゼは周囲を見る。
確かに。
九人いる。
大型生物もいる。
畑は拡張している。
成長速度は異常。
収穫も早い。
その分、草も早い。
「……候補にだけ入れる」
クロエが満足そうに頷く。
「よし」
「今は作らん!」
◇
しかし、雑草だけならまだよかった。
ティセラが管理している薬草区画の方から。
「皆さん」
教授の声がした。
全員が振り向く。
ティセラは妙に落ち着いている。
それが逆に怖い。
リーゼが聞く。
「何だ」
「少し問題があります」
「教授が『少し』と言う時は信用できん」
「失礼ですね」
「第五管理区域を作った人間だぞ!」
ティセラは薬草区画の端を指差した。
そこには。
蔓があった。
昨日より長い。
明らかに長い。
しかも。
水路へ向かって伸びている。
シズクが長い棒を持ってきた。
もう習慣だった。
知らないもの。
怪しいもの。
動く植物。
まず棒。
シズクが遠くから蔓をつつく。
ぴく。
蔓が動いた。
シズクはすぐ棒を離した。
「動きます」
リーゼが言う。
「見れば分かる!」
ティセラは冷静だった。
「水へ反応しているようです」
「何の植物だ」
「以前から管理している魔物植物の一種です」
「何故、普通の薬草区画の近くにある!」
「近くではありませんでした」
全員が蔓を見る。
確かに根元はかなり離れている。
伸びたのだ。
一晩で。
ルヴァナが言う。
「水欲しくて来たの?」
ティセラが頷く。
「その可能性があります」
アスラが近づく。
「切ればいいだろう」
「待ってください」
ティセラが止める。
アスラが見る。
「何だ」
「水へ誘導できるなら、管理しやすくなるかもしれません」
リーゼの顔が嫌そうになる。
「教授」
「はい」
「増やす気ではないだろうな」
「管理するだけです」
「その言葉は信用していいのか?」
ティセラは少し考えた。
「研究はします」
「やはり駄目ではないか!」
◇
結局。
薬草区画への分水は、さらに少し減らされた。
魔物植物側には直接水を流さない。
必要な分だけ、人が確認して与える。
ティセラは不満そうだった。
「自動化できると思うのですが」
リーゼが即答する。
「人を捕まえる植物へ自動で餌を与えるな!」
「水です」
「同じことだ!」
アスラが蔓を見ながら言う。
「水を欲しがるなら、水場へ固定すれば逃げないのでは?」
ティセラがアスラを見る。
「その発想はあります」
リーゼが二人を見る。
「組むな!」
クロエが横から言う。
「根元へ水量計を」
「貴様まで参加するな!」
ネイラが言う。
「一定以上伸びたら切断する仕組みも」
「娘まで!」
ルヴァナは笑いながら草を抜いている。
「大尉、大人気じゃん」
「相談窓口ではない!」
◇
昼過ぎ。
畑の草取りはどうにか終わった。
水路の流量も調整。
円筒分水の比率も少し変更。
大型生物水場には十分な水が届いている。
高所の貯水槽も、黒に飲まれなくなった。
水槌ポンプは。
ばん。
ばん。
と変わらず動き続けている。
シズクは縁側へ腰を下ろし、手を洗った。
ルヴァナも隣へ座る。
「疲れたー」
「お疲れさまでした」
「水やり自動になったのにね」
「はい」
「結局畑いたね」
「はい」
二人で畑を見る。
水は静かに流れている。
誰も桶を運んでいない。
シズクが言った。
「ですが、昨日までなら、草を抜いた後に水も運ばなければなりませんでした」
ルヴァナが少し考える。
「あー」
「今日は草だけです」
「じゃあやっぱ楽?」
「とても」
ルヴァナも笑った。
「そっか」
エヴァが近くで手を洗いながら言う。
「だったら成功だろ」
リーゼが答える。
「そういうことだ」
珍しく、素直に同意した。
水やりがなくなったから。
仕事がなくなるわけではない。
空いた時間には、別の仕事が見える。
草を抜く。
収穫する。
設備を直す。
食事を作る。
服を繕う。
記録を取る。
研究をする。
誰かと話す。
それでも。
一つずつ、人がしなくてもいい仕事を増やしていけば。
その分だけ。
人が別のことへ使える時間が増える。
ノアが畑を見る。
「明日は水量をもう一回確認しようか」
リーゼが頷く。
「朝と夕方で記録する」
クロエが言う。
「円筒分水の仕切りも改良する」
ネイラも。
「目盛りを付けます」
ティセラが言う。
「薬草区画の成長量も」
リーゼがすぐ止める。
「魔物植物を増やす記録ではないだろうな」
「比較です」
「嫌な予感しかしない!」
その時。
大型生物水場の方から大きな水音がした。
全員が見る。
黒が飲んでいる。
キマイラも。
鵺も。
ユニコーンも。
ペガサスも。
五匹並んで飲んでいる。
水槽には、それでも水が流れ込み続けていた。
リーゼは少しだけ満足そうに腕を組んだ。
「よし。足りているな」
エヴァが横から言う。
「水場、もう一匹来てもいけそうだな」
リーゼの表情が消えた。
「来る予定があるのか?」
「知らん」
「では言うな!」
エヴァが笑う。
その日の夕方。
リーゼは水利管理の記録へ、今日の変更を書き込んだ。
日常畑。
薬草・育苗。
予備貯水。
大型生物水場。
そして一番下へ。
『魔物植物への自動給水は禁止』
翌朝。
ティセラがその下へ小さく書き足していた。
『許可を得た試験を除く』
リーゼはしばらく文字を見つめた。
それから教授を探して館へ走った。
「教授うううううっ! 勝手に例外規定を作るなああああっ!」
朝の谷底へ。
また、いつもの声が響いた。




