第百十三話 姉妹【一般公開版】
ルヴァナが意識を取り戻した時、最初に気づいたのは、身体が妙に重いことだった。
次に、動かない。
腕も。脚も。胴も。
目を開けると、部屋の中央に置かれた大きな作業台へ固定されている。
身体は訓練服の上から透明な膜で包まれ、内部の空気を抜かれていた。両腕と両脚は大きく広げられ、四方へ固定されている。
「…………」
ルヴァナは身体を捻った。
動かない。
標本台の横から声がした。
「やっと起きた」
ネイラが腰掛けている。いつもの落ち着いた顔。ただし、口元だけが笑っていた。
「ネイラ!」
「何?」
「何じゃないでしょ!」
「よく眠っていたわね」
「どう見てもそれどころじゃない!」
「こちらへ意識を戻した直後は、少し反応が鈍いのね」
「そこ狙ったの!?」
「ええ」
「卑怯!」
「忍者が恋人相手に何を言っているの」
「恋人だから言ってんの!」
ネイラは楽しそうに笑った。
「今晩は、こちらの母さんたちが二人ともいないのに」
ルヴァナの表情が止まる。
「油断していたのかしら?」
「……そういう意味?」
「そういう意味」
ルヴァナは透明な膜の中でもう一度身体を動かした。びくともしない。
「これ、対捕縛訓練用のやつじゃん」
「改良版よ」
「誰が改良したの」
「私」
「聞いた私が馬鹿だった!」
ネイラは台から降り、ルヴァナの周囲を歩く。
「アバターで谷底へ行くようになってから、あなた随分と警戒が緩くなったでしょう」
「そんなことないって」
「戻ってきて、そのまま眠った」
「疲れてたんだもん」
「忍者学園で聞いた言い訳ね」
「もう卒業してるから!」
「卒業したから忘れていいわけではないでしょう?」
「家で寝て何が悪いの!」
「だから捕まったのよ」
「ぐぬぬ……」
ネイラがルヴァナの頬へ指を添えた。
「続けていいかしら?」
ルヴァナは少しだけ黙り、にやりと笑う。
「聞く必要ある? 絶対、逃げるから」
ネイラの笑みが深くなった。
「逃げられたらね」
「その顔、むかつく」
「好きでしょう?」
「好きだけどむかつく!」
ネイラはルヴァナの額へ短く口づけた。
「なら始めましょうか」
作業台の周囲へ、神経接続用の細いケーブルが伸びる。
視覚の反転。平衡感覚の攪乱。時間認識の引き延ばし。対捕縛訓練用の偽信号が、次々とルヴァナへ流し込まれた。
「うわ、ちょ、床が天井!」
「三分以内に脱出できたら合格よ」
「絶対抜ける!」
ルヴァナは指一本動かせない。
だが、生身の忍者ではない。
肩と脚の付け根にある隠しジョイントを切り離す。四肢を一時的に外し、胴だけになって固定膜から滑り出した。
「肉ダルマ脱出!」
「それを使うと思っていたわ」
「なら止めなよ!」
「捕縛具の評価も兼ねているもの」
ルヴァナの背中から細い触手が伸び、ネイラの足首へ絡みつく。
「形勢逆転!」
ネイラが倒れる直前に身体をひねり、逆に触手を掴む。
二人は床を転がった。
拘束。脱出。再拘束。神経干渉。幻覚。
最後には、どちらの術が誰へ作用しているのか分からなくなった。
互いの喉元へ刃を突きつけたところで、二人は同時に止まる。
「引き分けね」
「先に捕まえた方が負けでしょ」
「その理屈は初めて聞いたわ」
「今作った!」
また争いになった。
結局、勝敗がつかないまま、二人は床へ転がって眠った。
翌朝。
谷底の露天風呂には、クロエ、ネイラ、アスラ、ルヴァナの四人がいた。
朝の冷たい空気の中、巨大な露天風呂から白い湯気が立ち上っている。
ルヴァナは肩まで湯へ沈み、長く息を吐いた。
「あー……」
隣ではネイラも静かに身体を湯へ預けている。昨夜の騒ぎなどなかったような、実に穏やかな顔だった。
クロエが娘を見る。
「楽しかったか?」
ネイラは即答した。
「ええ」
ルヴァナが勢いよく顔を上げる。
「ちょっと!」
「何?」
「普通に答えないでよ!」
アスラが笑った。
「今さら何を恥ずかしがっている」
「母親の前だから!」
「成人しているだろう」
「そういう問題じゃないって!」
クロエはまったく気にせず、ネイラへ尋ねた。
「真空包装拘束は?」
「良好だったわ」
「改良点は?」
「あります」
ルヴァナが勢いよく振り向く。
「そこで技術評価始めないで!」
クロエは真面目だった。
「最後には抜けられたのだろう?」
「肉ダルマで、ですが」
ネイラが答えると、ルヴァナが得意そうに胸を張った。
「抜けたからね!」
アスラが娘を見る。
「お前が?」
「そう!」
「何分だ」
「時間測ってない!」
ネイラが静かに言う。
「かなりかかったわ」
「ネイラ!」
「事実でしょう?」
「途中で色々してたからでしょ!」
クロエとアスラが同時に娘二人を見る。
ルヴァナは、自分で言ってから失敗に気づいた。
「……そこ掘らないでね」
アスラが笑う。
「聞いていない」
「その顔は聞きたそうじゃん!」
クロエはそれ以上追及せず、肩まで湯へ沈んだ。
「あー……」
アスラも隣で同じように身体を伸ばす。
「あー……」
ルヴァナが嫌な予感を覚えた。
「やめてよ」
ネイラだけは首を傾げる。
「何?」
アスラが満足そうに目を閉じた。
「やはり、こういう夜の翌朝は」
クロエが続ける。
「これだな」
二人は揃って、いつもの台詞を口にした。
「対捕縛訓練の後の露天風呂は気持ちいいー」
ネイラは二人を見た。
少し考える。
それから、自分も肩まで湯へ沈んだ。
「あー……」
ルヴァナが叫ぶ。
「ネイラまでやらないで!」
「でも気持ちいいわ」
「それはそうだけど!」
結局、ルヴァナも肩まで沈む。
朝の冷たい空気と、熱すぎない湯。
身体から力が抜けていく。
思わず口から声が漏れた。
「あー……」
ネイラが横を見る。
ルヴァナも見る。
そして今度は、娘二人が揃って言った。
「対捕縛訓練の後の露天風呂は気持ちいいー」
クロエとアスラが顔を見合わせた。
アスラが笑う。
「同じではないか」
ルヴァナがすぐ反論する。
「違うから!」
「何がだ」
「気分!」
「同じ台詞だったぞ」
「そこはもういいの!」
クロエは湯の中で身体を伸ばした。
「まあ、分かればいい」
「何が!?」
「朝風呂の良さが」
「そこ!?」
ネイラが小さく笑った。
昨夜どれほど激しい訓練をしていようと、朝になれば四人で露天風呂に入る。
クロエとアスラが以前から繰り返していた習慣へ、ネイラとルヴァナまで加わっただけだった。
その時、遠くの森が揺れた。
どどどどど、と重い音が地面を伝わってくる。
四人が揃ってそちらを見る。
森の向こうを、巨大な黒い影が走っていた。
黒だ。
そして、その後ろから四匹の巨大な雌が追っている。
キマイラ。
鵺。
ユニコーン。
ペガサス。
黒が大きく右へ曲がる。
四匹も一斉に曲がった。
ペガサスが翼を広げ、空から前へ回り込もうとする。
キマイラは横から距離を詰める。
鵺は巨大な身体なのに妙に優雅な走り方をしている。
ユニコーンだけは、明らかに楽しそうに跳ねながら黒を追いかけていた。
ルヴァナが湯船の縁へ腕を置く。
「……何してんの、あれ」
クロエが答える。
「知らん」
アスラも遠くを眺めた。
「黒が何かしたのだろう」
ネイラは冷静に数える。
「四対一ですね」
「でも黒だよ?」
ルヴァナがそう言った直後、黒がさらに加速した。
四匹も負けじと速度を上げる。
巨大な五つの影が森を揺らし、そのまま朝日の差す彼方へ駆けていった。
しばらくして地響きも遠ざかる。
クロエは再び肩まで湯へ沈んだ。
「あー……」
アスラも続く。
「あー……」
ネイラも同じように沈む。
「あー……」
ルヴァナは三人を見た。
少しだけ呆れたあと、自分も身体を湯へ預ける。
「あー……」
朝から巨大生物が追いかけっこをしていても、誰も風呂から出ようとはしなかった。
対捕縛訓練の翌朝くらい、ゆっくり湯に浸かりたい。
その点だけは、親も娘も意見が完全に一致していた。




