第百十一話 使者
朝食の後、クロエは娘たちの部屋で一枚の紙を睨んでいた。
紙そのものに問題があるわけではない。
問題なのは、その紙を向こう側へ送れないことだった。
「やはり駄目か」
クロエが言う。
ネイラが頷いた。
「この紙そのものを向こうへ持っていくことはできません」
机の上には、クロエが短く書いた文章がある。
向こう側にいる、バックアップから動いているクロエ宛てのものだった。
アスラも隣で腕を組んでいる。
「魔術的に印を付けてもか?」
「接続を切った時点で、こちらのアバターが持っている物まで本体側へ移るわけではありません」
「面倒だな」
ルヴァナが巨大寝台の上から言った。
「そりゃそうでしょ。あたしたちがこっちで服着替えても、向こうで突然その服着てるわけじゃないし」
リーゼが入口から顔を出した。
「何をしている?」
クロエが紙を持ち上げる。
「向こうへ情報を送る方法を増やせないか試している」
「昨日の話か」
「そうだ」
リーゼは部屋へ入った。
昨夜確認した限りでは、谷底側のクロエとアスラから向こう側へ送れる情報は、断片的だった。
生きている。
怪我をした。
何か大きな出来事があった。
その程度なら、バックアップや魔術核との繋がりを通じて向こう側のアバターへ届く。
しかし文章を丸ごと送ろうとすれば崩れる。
自我そのものを帰そうとすれば、さらに強いノイズが入る。
一方、ネイラとルヴァナは違う。
二人は向こう側の本体から、自分の意志そのものを谷底側のアバターへ送っている。
接続を切れば、向こうへ戻る。
そして、またこちらへ来ることができる。
リーゼは紙を見る。
「紙を送れないなら、書いた意味がないではないか」
ネイラが答えた。
「そうでもありません」
「何?」
ネイラはクロエの紙を手に取った。
一度読む。
もう一度読む。
それから紙を伏せた。
「覚えました」
リーゼが止まる。
「……全部か?」
「はい」
「一字一句?」
「内容なら」
「内容なら?」
「文字の形まで完全に再現する必要がありますか?」
クロエが答える。
「ない」
ネイラが頷いた。
「では問題ありません。向こうへ戻った後、私が書き直せばいいです」
部屋が少し静かになった。
ルヴァナが寝台から身を起こす。
「それでよくない?」
アスラもネイラを見る。
「……そうだな」
リーゼは額へ手を当てた。
「何故、誰も最初に気づかなかった」
クロエは平然としている。
「機械と術式で送ることを考えていた」
アスラも言う。
「私も魔術的な伝達ばかり考えていた」
ルヴァナが笑った。
「普通に娘に言えばいいじゃん」
クロエとアスラが同時にルヴァナを見る。
「何?」
ルヴァナは少し身を引いた。
「いや、その顔やめてよ。あたし間違ってないじゃん」
ネイラが静かに頷く。
「今回はルヴァナが正しいです」
「今回はって何!」
そこへティセラがやってきた。
記録板を持っている。
リーゼが即座に言う。
「教授。今日は何だ」
「接続方法について追加確認があると聞きました」
「誰からだ」
「ノアです」
リーゼが廊下を見る。
少し離れた場所にノアがいる。
「聖者!」
「何?」
「教授を呼んだのか!」
「うん。記録しておいた方がいいかなって」
「それはそうだが!」
ティセラは机の紙を見る。
ネイラから説明を受けると、すぐに頷いた。
「合理的です」
リーゼが言う。
「教授まで一言で済ませるな。小官たちは昨日、あれだけ通信について悩んだのだぞ」
「昨日確認していたのは機構です。これは人間を伝達媒体として利用する方法です」
ネイラが少し眉を寄せた。
「私を伝達媒体と呼ばないでもらえますか」
「では、記憶による情報搬送」
「もっと物になりました」
ルヴァナが笑い出した。
「姉ちゃん、記録媒体じゃん」
「ルヴァナ」
「はい」
「あなたもです」
ルヴァナの笑いが止まった。
「え」
ティセラが当然のように言う。
「二人とも向こうへ戻れるのですから」
「いや、あたしは姉ちゃんほど細かいの覚えられないし」
アスラが笑う。
「なら短い方を持って帰れ」
「親まであたしを記録媒体にしないでよ!」
シズクも入ってきた。
「何のお話ですか?」
リーゼが簡単に説明する。
シズクはすぐに理解した。
「つまり、お手紙をお二人が覚えて帰ればよいのですね」
「そういうことになる」
「それなら、昔の使者と同じですね」
今度はリーゼがシズクを見る。
「使者?」
「大切な伝言を覚えて、相手へ届ける者です。紙を持たず、口頭だけで伝えることもあります」
クロエが少し考える。
「そう考えれば、何も珍しくないな」
リーゼはますます納得できない顔になった。
「最新なのか古代なのか分からなくなってきたぞ」
ノアが入口から笑った。
「方法が変わっても、最後は人が運ぶってことはあるからね」
「聖者まで簡単にまとめるな」
アスラはすでに紙を取り出していた。
「なら私も書く」
ルヴァナが嫌な顔をする。
「長くしないでよ」
「お前は私の娘だろう。これくらい覚えろ」
「そういう遺伝の使い方ある?」
「ある」
「ないよ!」
ネイラは自分の机へ座り直した。
「内容によって分けましょう」
クロエが見る。
「どういう意味だ」
「正確性が必要なものは私が持ち帰ります。単純な伝言ならルヴァナでも問題ありません」
「姉ちゃん!」
「事実でしょう」
「言い方!」
リーゼは少し笑った。
「適材適所だな」
ルヴァナがリーゼを見る。
「大尉まで姉ちゃん側?」
「軍隊でも伝令には適性がある」
「急に軍事的な正論で殴ってくる!」
クロエは最初の紙をネイラへ渡した。
内容は短かった。
こちらのクロエが生存していること。
身体に大きな問題はないこと。
谷底で生活基盤が整っていること。
ネイラとルヴァナの接続は現在安定していること。
向こう側のクロエには、娘二人の本体を引き続き見ていてほしいこと。
そして最後に一行。
ネイラがそこを読んで、少しだけ表情を変えた。
「クロエ母さん」
「何だ」
「これは必要ですか?」
「必要だ」
リーゼが覗こうとする。
「何と書いた」
ネイラが読み上げる。
「『勝手に私の服を着るな』」
リーゼがクロエを見る。
「何の話だ!」
クロエは真顔だった。
「向こうの私が使っているらしい」
「自分だろう!」
「別個体だ」
「だが元は貴様だろう!」
「だから私の好みを知っている。たちが悪い」
アスラが腹を抱えて笑った。
「自分に服を取られて怒っているのか!」
クロエが睨む。
「貴様の方はどうなんだ」
アスラの笑いが止まった。
ルヴァナが目を逸らした。
クロエが気づく。
「何かあるな」
「ない」
「ルヴァナ」
「えーっと」
「言え」
ルヴァナは諦めた。
「向こうのアスラ母さん、アスラ母さんの魔術工房かなり勝手に使ってるよ」
こちらのアスラの顔が険しくなる。
「何をしている」
「普通に実験」
「私の素材を?」
「向こうでは向こうのアスラ母さんの物じゃない?」
「私の物だ!」
リーゼが机を叩いた。
「貴様ら、自分自身との所有権争いを始めるな!」
クロエが腕を組む。
「だから別個体だと言っている」
「都合のいい時だけ分離するな!」
アスラは勢いよく紙へ書き始めた。
ルヴァナが嫌な予感を覚える。
「アスラ母さん?」
「伝言だ」
「長い?」
「少し」
「絶対長いじゃん」
アスラが紙を渡す。
ルヴァナが読む。
顔をしかめる。
「『紫晶石の棚、右から三番目には触るな。術式用の銀粉を勝手に使うな。裏庭の魔力槽は私が戻るまで――』」
途中で紙を下ろした。
「無理!」
「覚えろ」
「無理だって!」
「忍者学園を卒業しただろう!」
「忍者は親の在庫管理表を暗記する職業じゃない!」
ネイラが横から紙を見る。
「私が覚えましょうか?」
ルヴァナが即座に差し出す。
「お願い」
アスラが奪い返す。
「駄目だ。ルヴァナに頼んだ」
「何でそこで教育になるの!」
クロエが笑った。
「娘を鍛える良い機会だな」
「クロエ母さんまで!」
シズクが小さく笑う。
ティセラはその様子を記録しようとしていた。
リーゼが気づく。
「教授、そこは記録しなくていい!」
「情報伝達時における家族関係の影響です」
「ただの親子喧嘩だ!」
しばらくして、実際に試してみることになった。
ネイラとルヴァナが一度向こう側へ戻る。
紙そのものは持っていけない。
当然、谷底で手に入れた物も持っていけない。
二人が持って帰れるのは、自分自身がこちらで知ったこと。
見たこと。
聞いたこと。
覚えたこと。
それだけだった。
ネイラはクロエの文章を数回確認した。
アスラの長い在庫管理まで途中から引き受けた。
ルヴァナは短い伝言を担当することになった。
アスラが娘の肩へ手を置く。
「私が元気だと伝えろ」
「それだけなら余裕」
「あと、向こうの私へ――」
「増やさないで!」
クロエもネイラを見る。
「こちらは問題ない」
「はい」
「向こうの私が余計なことをしていたら止めろ」
「どちらの母さんも同じことを言いそうですね」
クロエが少し黙った。
「……それもそうだな」
ルヴァナが笑う。
「自分同士で喧嘩しそう」
リーゼが言う。
「絶対にする」
クロエとアスラが同時にリーゼを見る。
「何だ」
「何か言ったか」
「何も言っていない!」
接続を切る前、ルヴァナは巨大寝台から立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと帰ってくるね」
シズクがその言葉に少し不思議そうな顔をする。
「帰ってくる、なのですね」
「うん」
「こちらへ来る時も?」
「こっちにも来る」
ルヴァナは少し考えて笑った。
「どっちも帰ってくるでいいんじゃない?」
ネイラも頷く。
「向こうにも生活がありますし、こちらにも私たちの部屋がありますから」
クロエとアスラは何も言わなかった。
だが、二人とも少しだけ表情が柔らかくなっていた。
やがて接続が切れる。
二人のアバターは静かに休止した。
部屋が急に静かになる。
リーゼは動かなくなった二人を見る。
「……分かっていても妙な感じだな」
ティセラが頷く。
「本体は向こう側で、今頃目を覚ましているはずです」
シズクが空になった巨大寝台を見る。
「また来るのですよね」
クロエが答えた。
「ああ」
アスラも頷く。
「返事を持ってな」
その日は、娘二人がいない状態で時間が過ぎた。
ネイラの机には、途中まで描いた図が残っている。
ルヴァナの手袋も棚にある。
昨夜まで騒がしかった部屋なのに、二人がいないだけで妙に広く見えた。
夕方。
接続設備が動いた。
クロエが最初に気づく。
「来る」
アスラも魔力の流れを見る。
二つのアバターが再び起動する。
ネイラが目を開けた。
ルヴァナも続いて身体を起こす。
「ただいまー」
シズクが笑った。
「お帰りなさい」
リーゼも少し遅れてやってきた。
「どうだった?」
ネイラがクロエを見る。
「伝えました」
クロエの目が細くなる。
「返事は?」
ネイラは一度、咳払いした。
「向こうのクロエ母さんからです」
「言え」
ネイラは淡々と再現した。
「『服は私の身体情報に合わせて作ったものだから、私が着ても問題ない。むしろお前が向こうへ戻れない以上、使わない方が無駄だ』」
クロエの眉が動いた。
リーゼは口を押さえた。
エヴァはすでに笑い始めている。
ネイラが続ける。
「『それと、娘たちを巨大生物へ近づけすぎるな。黒という馬について送られてきた情報が少なすぎる。実物を見た娘たちから聞いた。あれを馬の一言で済ませるな』」
クロエが黙った。
エヴァが大声で笑った。
「向こうのクロエの方がまともじゃねえか!」
「うるさい」
リーゼも頷く。
「小官は向こうのクロエを支持する」
「大尉」
「何だ」
「黙れ」
「自分からの返事で小官に当たるな!」
今度はアスラがルヴァナを見る。
「私への返事は?」
ルヴァナが嫌そうな顔をした。
「ある」
「言え」
「『紫晶石は私も使う。銀粉も必要だから使った。そもそも現在あの家を管理しているのは私だ。戻れない奴が在庫管理に口を出すな』」
アスラの頬が引きつった。
クロエが今度は笑う。
「向こうのお前の方が正しいな」
「黙れ!」
ルヴァナが続ける。
「まだあるよ」
「何だ」
「『それよりルヴァナに丸太を二本も担がせるな。あの子は力があるが、調子に乗ると限界までやる』」
アスラが止まった。
ルヴァナも止まった。
エヴァがゆっくり目を逸らす。
リーゼがエヴァを見る。
「貴様」
「何だよ」
「向こうのアスラにも怒られているぞ」
「俺じゃなくて、アスラ宛てだろ」
「原因の一部は貴様だ!」
ルヴァナが手を上げる。
「でも楽しかったよ?」
「貴様も黙っていろ!」
部屋が一気に騒がしくなった。
こちらのクロエ。
向こうのクロエ。
こちらのアスラ。
向こうのアスラ。
同じ人物を元にしているはずなのに、既に言い分が違う。
クロエは紙を取り出した。
「返事を書く」
アスラも即座に紙を取った。
「私もだ」
ネイラが嫌な予感を覚える。
「クロエ母さん」
「何だ」
「長文はやめてください」
ルヴァナもアスラを見る。
「アスラ母さんも!」
「これは必要な反論だ」
リーゼが叫ぶ。
「娘を使って自分自身と文通喧嘩を始めるな!」
ティセラは記録板へ何かを書いている。
リーゼが振り返った。
「教授!」
「はい」
「何を書いた!」
「双方向通信、成立」
リーゼは止まった。
ティセラが続ける。
「機械や魔術による直接通信ではありません。娘二人が往復することによる、記憶を介した間接通信です。時間差はありますが、十分実用になります」
ノアが頷いた。
「それなら、無理に谷底から信号を押し出さなくてもいいね」
クロエも少し考えて、紙を置いた。
「そうだな」
アスラも頷く。
「娘たちが来られる限り、急いで別の方法を作る必要はない」
リーゼは二人を見る。
「自分自身との喧嘩も、毎回娘を経由する気か?」
クロエとアスラが同時に答えた。
「当然だ」
「返事はする」
ネイラとルヴァナが同時に嫌な顔をした。
「やめてください」
「やめてよ!」
シズクが笑う。
向こうからこちらへ来ることはできる。
こちらから向こうへ、親たち自身が帰ることはまだできない。
直接大量の情報を送ることも難しい。
それでも、完全な一方通行ではなくなった。
娘たちが帰る。
言葉を持っていく。
向こうで返事を聞く。
そして、また谷底へ帰ってくる。
紙そのものは世界を越えない。
それでも手紙は届く。
リーゼは、再び返事を書き始めたクロエとアスラを見た。
「……便利ではあるな」
ティセラが頷く。
「はい」
ネイラがすぐに付け加える。
「ただし、私たちは郵便ではありません」
ルヴァナも力強く頷いた。
「そう! そこ大事!」
クロエが紙から顔を上げる。
「では一日一往復までにする」
「回数の問題じゃない!」
アスラも言う。
「緊急時は別だな」
「制度化しないで!」
リーゼは額を押さえた。
親たちは帰れない。
だが娘たちは帰れる。
そして今度から、娘二人が谷底へ来るたびに。
親から親への手紙まで、一緒についてくることになりそうだった。




